第10話 海の見える道
レナ村を発つ朝、アイナはルカの腕をもう一度確かめた。
「仕送りの前に、自分の無事を考えなさい」
「分かってる」
「手紙も書くのよ」
「書くって、昨日も言っただろ」
「何度でも言います」
フィーは青い髪紐を結び、兄に小さな包みを渡した。焼き菓子だという。
セシリアが荷を確認し、ミラが今日の行程を告げる。無理をせず、次の宿まで半日。私は異議を唱えなかった。
街道はしだいに広くなり、風に潮の匂いが混じり始めた。
坂を上ったところで、ルカが馬車を止める。
「旦那」
その先に、海があった。
空の下に青灰色の水面が広がり、遠くを帆船が動いている。地図では幾度も見た。軍の物資がどの港へ届くかも、よく知っていた。
だが、行き先を急がずに眺めたことはなかった。
私は馬車を降り、杖をついて坂の端へ歩いた。風が外套を揺らす。
リーゼルの地図帳を開く。海岸線の余白に何を書こうか考え、まだ何も書かずに閉じた。
「帰ったら、どんな海だったと話します?」
ルカが聞く。
「そうだな……思ったより、音が大きい」
彼は耳を澄ませた。波はここからでもかすかに聞こえる。
「それ、お孫さんには地味だって言われそうです」
「なら、もっと近くで見てから考えよう」
西の港町ルーヴェンでは、北風屋のために宿と荷の置き場を探した。セシリアはすぐに塩の値を調べに行きたがり、ミラは先に休息日を決めるよう言う。
私は約束して、海辺へ歩く道を尋ねた。
大通りを抜ける途中、銀鷺商会の大きな店が見えた。立派な看板の下に、金色の文字が並んでいる。
『前ヴァルムント公爵御用達』
足が止まった。
私はこの商会に私的な取引を頼んだことも、御用達として名を貸したこともない。
「旦那様?」
セシリアが私の視線を追う。
ルーヴェンまで来たのは、海を見るためだった。その気持ちは今もある。目の前の文字を見なかったことにはできないが、今日の海まで譲るつもりもなかった。
「まず宿へ荷を入れよう」
私は看板から目を離した。
「それから海を見に行く。あの文字のことは、明日調べる」
セシリアは頷き、店の名を帳簿の余白に書き留めた。
潮の匂いを含んだ風が、通りを吹き抜ける。北風屋の馬車は、港へ向かって進んだ。
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