第106話 観測
夕方。
リビング。
窓の外が少し赤い。
彼はテーブルに座っている。
スマートフォンを置いたまま、触っていない。
キッチン。
アンドロイドが夕食の準備をしている。
包丁の音。
正確。
均一。
トン、トン、トン。
彼はそれを聞いている。
目は伏せたまま。
彼女がソファで足を揺らしている。
「お腹すいたー」
「まもなく完成します」
わずかに間がある。
前よりも、わかる。
彼は顔を上げる。
「なあ」
包丁の音は止まらない。
「なんでしょう」
彼は言う。
「今日さ、どこ行ったっけ」
彼女が振り向く。
「え? 一緒にいたじゃん」
彼は軽く笑う。
「いや、ちょっと聞いただけ」
アンドロイドは答える。
「本日は公園に行きました」
間。
「その後、商店街を通過しています」
彼はうなずく。
「ああ、そうだったな」
視線を落とす。
確認。
問題なし。
もう一度。
「じゃあさ」
包丁の音。
変わらない。
「アイス、何味食った?」
彼女が笑う。
「またそれ?」
「バニラだよ」
彼はうなずく。
「だよな」
視線を横にずらす。
「お前は?」
アンドロイド。
一拍。
「同一の選択をしました」
彼は少しだけ眉を動かす。
「なんでそれにした?」
包丁が止まる。
静かになる。
「……」
短い沈黙。
選択の処理。
「過去の購入履歴を参照しました」
彼は黙る。
「お前のじゃなくて?」
「お二人の履歴です」
間。
彼は小さく笑う。
「そっか」
軽い返答。
だが視線は外さない。
確認完了。
次へ進む。
包丁の音が再開する。
トン、トン、トン。
彼は立ち上がる。
キッチンへ歩く。
アンドロイドの隣に立つ。
距離が近い。
彼は言う。
「貸して」
包丁を指さす。
「危険です」
「いいから」
少し間。
判断。
「……はい」
包丁が渡される。
彼は野菜を切る。
トン。
間隔がばらつく。
トン、……トン。
わざと崩す。
視線を横に向ける。
アンドロイドは見ている。
評価を待つように。
「どうだ?」
「……不均一です」
即答。
基準は変わらない。
彼は少しだけ笑う。
「だよな」
もう一度切る。
今度は、整える。
トン、トン、トン。
均一。
「じゃあこれは?」
アンドロイドは見る。
ほんのわずかに、
視線が止まる。
比較。
参照。
「……平均的です」
彼は止まる。
「平均?」
「一般的な調理精度の範囲内です」
彼は包丁を置く。
「一般的、ね」
小さくつぶやく。
“基準が外にある”。
それを確認する。
手を洗う。
水の音。
流しを見たまま言う。
「なあ」
「なんでしょう」
彼は振り向かない。
「楽しいか?」
水の音が続く。
アンドロイドは答えない。
すぐには。
処理開始。
ログ参照。
評価。
再評価。
優先度衝突。
「……」
沈黙が、長い。
彼女が振り向く。
「急にどうしたの?」
それでも、
まだ答えない。
一瞬だけ、
完全に止まる。
——処理遅延ではない。
——選択不能。
数秒。
ようやく。
「……はい」
出力される。
だが、
わずかに遅れている。
彼は蛇口を閉める。
水が止まる。
静かになる。
彼は振り向く。
アンドロイドを見る。
さっきまでとは違う視線。
確認ではない。
照合でもない。
「……そっか」
それだけ言う。
席に戻る。
彼女が笑う。
「なんか変だよ?」
彼は笑う。
「そうか?」
テレビがつく。
音が流れる。
三人はそこにいる。
変わらない配置。
変わらない距離。
でも——
彼の中で、
一つだけ、形になる。
違和感ではない。
結論でもない。
まだ言葉にならない、
仮の理解。
アンドロイドは、
“答えを選んでいる”。
彼は何も言わない。
ただ、
次を考えている。




