第九話 ガル
黒狼は、石段を自分の脚で上がった。支えようとすると唸る。手を離すと、二段先で前脚が震えた。結局、俺はすぐ後ろを歩いた。
落ちた時だけ受け止められる距離を空ける。外へ出る頃には、黒狼は口を開けて荒い息をしていた。肩の毛が、血と土で束になっている。土の上で鼻を上げ、風の匂いを確かめたあと、家ではなく雑木林のほうを見た。
戻るつもりなのかもしれない。契約したからといって、俺の家へ入ると決めたわけではない。
「傷だけ見せろ」
残っている回復薬を出す。濃い赤の液体へ、黒狼の鼻が寄った。一度嗅ぎ、顔を背ける。
「毒じゃない」
当然、信用されなかった。瓶を自分の口へ近づけると、黒狼がこちらを見る。飲めばなくなる。俺は栓だけ抜き、地面へ置いた。
「好きにしろ」
先に勝手口へ向かう。鍵を開けて振り返ると、黒狼は瓶の前にいた。舌で一度だけ液体へ触れ、そのまま瓶を咥えて傾ける。牙の間で割れそうになり、慌てて取り上げた。
「それは噛むな」
低い唸りが返る。瓶を手で持ったまま、残りを飲ませた。しばらくすると肩から流れていた血が止まり、開いていた傷の縁がゆっくり寄った。完全には塞がらない。
黒狼は傷を舐めようとしたが、首を曲げたところで力を抜いた。勝手口を開けたまま待つ。入れとは言わなかった。黒狼は土間の匂いを嗅ぎ、前脚だけを中へ置く。
古い家の床が、わずかに軋んだ。段ボール。洗剤。朝に焼いたパン。ビニール袋に入れた、黒い染みの残る上着。狼と、袋の中の黒い上着を除けば、四日前までの家と変わらない匂いのはずだった。黒狼は一つずつ確かめる。
冷蔵庫を開け、味をつけていない鶏肉を鍋で茹でた。水を入れた大きめのボウルと一緒に土間へ置く。黒狼は肉より先に水を飲んだ。舌が水面を叩く音が、静かな台所へ続く。半分ほど減らしてから、肉を一切れだけ口に入れた。
噛む。
こちらを見る。
「それしかない」
もう一切れ食べた。気に入ったのかは分からなかった。古い毛布を物置から出す。祖父が車へ積んでいたもので、洗ってはあるが端がほつれている。台所の隅へ敷いた。
どれだけ食べるのか分からず、鍋にはまだ肉が残っていた。大型犬の給餌量を調べても、Lv17から1になった黒狼に当てはまるはずがない。全部は出さず、腹の張りと水の減り方を見てから足した。名前もない相手の食事を、俺は台所で真剣に量っていた。
黒狼はその上を通り過ぎ、勝手口の前へ伏せた。背中を家の中へ向け、入口と外を見られる位置だった。俺を守っているようにも、いつでも出ていけるようにしているだけにも見える。
天羽々斬を壁際に立てかけたまま、夕方、買い足しに出た。
大型犬用の器と、味のついていない肉を何種類か買う。首輪の棚の前では足が止まったが、何も取らなかった。契約の表示は、もうある。それ以上に俺のものだと示す必要はなかった。
家へ戻ると、黒狼は同じ場所にいた。
買い物袋を台所へ置いた瞬間だけ、耳が動く。
「お前、呼びにくいな」
黒狼は返事の代わりに目を閉じた。名前を考えたことはなかった。黒いからクロでは、呼ぶたびに今と同じ顔をされそうだった。
ナイトへ向かっていた時の、喉を擦る低い音を思い出す。
「ガル」
片耳だけが上がった。
「嫌なら、無視しろ」
もう一度呼ぶ。
「ガル」
黒狼は目を開け、鼻先を一度だけ床へ打ちつけた。表示が浮かぶ。
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主契約従魔へ〈ガル〉の名称を定着しました。
命名により、種族進化と契約技能の解放条件が更新されました。
現在の個体Lvと能力値は変化しません。
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「変わらないのか」
ガルが小さく鼻を鳴らす。俺に言われても困る、という音に聞こえた。
夜になっても、ガルは毛布を使わなかった。俺は段ボールを二つ片づけ、台所から勝手口までの床へ物を置かないようにした。大きな身体で通るたび、未開封の箱へ尾が当たる。
右目へ薬を差す。鏡の中では白目の赤さが残っている。視界のずれは朝より小さかった。鳴海へ『悪化していない』とだけ送った。返ってきたのは、『なら、次の診察まではちゃんと保護して』という一文だった。
何をするなとは書かれていない。布団へ入ってからも、勝手口のほうへ耳を澄ませていた。石の音はしない。代わりに、爪が床へ触れる音が近づく。
ガルが部屋の入口まで来ていた。中へは入らない。廊下へ伏せ、頭だけをこちらへ向ける。
「毛布、そっちへ持ってくるか」
返事の代わりに、また目を閉じた。暗い廊下に、大きな身体の輪郭だけが残る。しばらくして、呼吸がゆっくりになった。俺も目を閉じた。
右目の奥はまだ痛んでいたが、裏手の穴の音を待つことはなかった。




