第八十九話 開く扉【別視点・江崎美和】
二つ目の鍵が、途中で引っかかった。
江崎は一度戻し、両手で回した。錆びたような音がして、ようやく鍵が外れる。
「開けます」
扉の向こうから声がした。
「待ってください。こちらで押します」
江崎は、階段の前に集まった人たちを下がらせた。
足を捻って歩けない女性。脱水で立つと目眩がする男性。熱の下がらない従業員。子供は母親の服を両手で握っている。
残りの人間も、今すぐ階段を上がれる顔ではなかった。
「一人ずつ。まだ出ないで」
言い終わる前に、扉が少し開いた。
光が入った。非常灯より白く、細い隙間から差しただけなのに目の奥が痛む。顔を背ける人がいて、子供は母親の服へさらに顔を埋めた。その光の中から防護服の腕が伸びてきた。
「防護面を渡します。十二枚です」
江崎は受け取った。
一枚、二枚。
小さいものを子供へ回し、十二枚目まで数えてから配る。
二十二日のあいだ、江崎は何でも数えた。
水槽の目盛り。非常食。薬。体温。換気扇が止まった時間。泣いた回数までは書かなかったが、夜中に起きていた人数は毎日残した。
数が合えば、次の朝を作れた。
「歩けない方から出します。担架は二台あります」
「熱が一人。最後の薬は昨日の夜です」
「分かりました」
扉がもう少し開く。
階段の上には若い男が立っていた。黒い防護具。腰に長い刀。左腿には固定布が巻かれている。
その後ろから、大きな黒い獣の顔が出た。
子供が息を呑む。
獣は階段へ足を掛けなかった。男が首の横へ手を置くと、その場で伏せる。
「ガルは上にいるし、ここには来させない」
「あなたが、大月さん?」
「はい」
名前は知っていた。店の客が、国内順位の画面を見せてきたことがある。
もっと大きく、遠い人だと思っていた。
実際には階段の天井へ頭をぶつけないよう少し屈み、左脚を庇っていた。
「十二人で全部ですか」
「全部です」
最初の担架が下りてくる。
足を捻った女性を乗せ、その次が脱水の男性。発熱した従業員と子供は、酸素を持った救助員に挟まれて上がった。
江崎は一人ずつ名前を呼び、返事を聞く。紙の裏に書いた名前を、階段へ入るたび一本ずつ消した。
十一人目が上がる。
「江崎さんも」
「電源と換気を止めます」
「中は確認しました」
「私がやります」
江崎は地下へ戻った。
魔石式非常電源の表示は赤いまま点滅している。換気を止めると、二十二日ずっと聞いていた音が消えた。
部屋が急に広くなったように感じた。十二人分の呼吸がなくなると、壁の染みも、敷きっぱなしの毛布も、二十二日前より遠くに見える。
水槽の残量、非常食の空箱、使った薬の包装、日付と体温を書いた紙。全部は持てない。
紙だけを折り、エプロンの右ポケットへ入れた。隣には店の鍵がある。
階段を上がる。
地上階は、店ではなくなっていた。
棚は倒れ、床には泥と割れた瓶が広がっている。冷蔵ケースのガラスはなく、中に入れていた止血剤は容器ごと潰れていた。
十六本。一つ七千八百円。
十二万四千八百円。
計算したあとで、なぜ今も計算したのか分からなくなった。
シャッターの横には、切断された黒い根がある。壁も、給水管も、枠も切れていない。根の節だけが四か所で断たれていた。
大月は店の外にいた。刀は抜いていない。救助員に左腿を見せろと言われ、一度断って、もう一度言われていた。
「店を閉めたいんですが」
江崎が言うと、近くの隊員が首を横へ振る。
「今は救助経路として開けます。この建物は立入禁止です」
「鍵は」
「持っていてください」
いまは使えない鍵を、返せとは言われなかった。江崎は右ポケットの上から一度押さえ、白い札へ足を移した。
白い札の内側だけを歩く。十二人のうち二人は担架に乗り、子供は母親と手をつないでいる。江崎が最後だった。
救護所で、名前と住所、家族の連絡先を書く。
携帯電話は充電されたが、つながらない番号がいくつもあった。家も店も占領区域内で、今夜の避難先は市外の体育館だった。
助かったあとに、帰る場所を記入する欄はなかった。
朝、体育館で目を開けると、時計は九時二十七分だった。
いつもなら、三分後に店の照明をつける。
江崎は支給された箱へ手を入れた。
鍵は、昨日までと同じ重さだった。




