第八十六話 発電機の匂い
ガルは錆びた換気管から鼻を離さなかった。薄い鉄板へ息が当たるたび、内側に溜まった水滴が小さく鳴る。
車庫の臭いは強い。腐った餌、黒い泥、割れた卵嚢、古い燃料。その中から、別の何かを拾っている。
「人か」
短く吠えた。
ガルが車庫の裏を回り、道路脇の側溝へ下りる。泥へ鼻先を近づけ、流れとは逆に東へ進んだ。俺も縁を歩くが、左腿は道路の段差を下りるたびに遅れて熱を返す。追いつくために走ることはできなかった。
『そっちは既知経路の外です』
「匂いを追ってる」
『人の?』
「たぶん」
断定はしない。
何日も前の生活臭なら、占領前のものかもしれない。ガルは途中で一度立ち止まり、側溝の水を避けて、道路下の排水口へ顔を入れた。
ガルの隣へしゃがみ、耳を澄ます。側溝の冷えた臭いの向こうで、何かが古い金属板を震わせていた。
水が落ちる音の奥に、低い振動があった。
一定ではない。少し強くなり、弱くなり、止まる。しばらくすると、また回り始める。
「機械が動いてる」
『占領域の設備かもしれない』
「同じ時間で止まるか調べる」
端末の時刻を記録する。
最初の停止まで十三分。再始動まで四分。二度目もほとんど同じだった。
魔物の太鼓や補給印とは違う。動く時間と休む時間が揃いすぎている。燃料か電力を節約しながら、人が手で切り替えている周期に見えた。
ガルが排水口から戻る。鼻と前脚は泥で濡れていたが、東を向いたまま動かない。
『地下配管図を出す』
千景の声が少し遅れて返った。
画面に古い図面が重なる。雨水管の上を二本の細い換気管が横切り、道路沿いの小売店へ向かっている。
『一軒だけ、地下区画の届け出がある。去年、災害備蓄庫に改修されてる』
「人が入れる広さは」
『二部屋。定員は書いてない』
地図の建物名を見る。
旧商店街にある装備店だった。
ガルはまた排水口へ鼻を入れた。今度は長く吸ったあと、俺の手へ鼻先を押しつける。
ガルは人の汗を拾った時と同じように鼻を高く上げ、次に水場を探す時のように管の下へ回った。最後に薬品を嫌う時のくしゃみを一つする。
俺には混ざった臭いをそこまで分けられない。ただ、占領前から閉じ込められただけの空気なら、換気流がこれほど一定には続かない。
「救助隊を呼んでくれ」
『最短で三十七分。今いる白線から、その店までは道がない』
「先に道を調べる」
『一人で入らないで』
「入口までは行かない。外から見る」
自分で言ってから、足を止めた。
王城へ近づく観測路が、南側で開き始めている。予定線へ戻れば、今日のうちに泥井戸へ届くかもしれない。
東へ外れれば、また遠くなる。
排水口の奥で発電機らしい振動が止まった。
四分後に戻るかどうか、全員で耳を澄ます。
三分を過ぎても誰も話さなかった。四分目、低い音がもう一度始まり、排水口の水面へ細かな波が広がった。ガルがすぐに耳を前へ向ける。
「生きてる人が動かしてる」
今度は、たぶんをつけなかった。
地図の王城へ向かう線を閉じ、旧商店街へ新しい未確認線を引いた。




