第八十三話 壊さない家
集合住宅の階段室へ入ると、湿った土とガスのような臭いが混じった。
計測器は警報を出していない。それでも火は使わない。水道管の位置も、床下の空洞もまだ確定していなかった。
奥で鎧が擦れる。
オークが二体、黒い根の間から出てきた。後ろの階段には、弓を持ったゴブリンが三体と、石を抱えたものが二体いる。
「右を頼む」
ガルが地面を蹴った。右のオークが斧を上げる前に手首へ噛みつく。
左の一体が俺へ踏み込んだ。
大きく避けず、右へ半歩。斧の柄へ刀を添え、手首の向きを外へ流す。首の横が開いたところへ刃を返した。
階段から矢が落ちる。
背中側には中央の支持柱がある。刀で払えば、逸れた矢がどこへ刺さるか分からない。柱の前から外れ、階段へ細い風だけを通す。
矢と投石の軌道が少し上がった。
ガルが倒したオークの背を踏み、踊り場へ跳ぶ。悲鳴が二つ重なり、階段の手すりが体当たりで軋んだ。残るオークの胸核を切り、柱から離れた階段下へ寄る。
ゴブリンは二階へ散った。
追わない。
階段下へ薄い土壁を上げ、退路を塞ぐ。二階の窓を見張っている神崎隊へ連絡する。
「上へ五体。外に出たら頼む」
『見えてる。二階北側は押さえる』
俺たちの仕事は巣だ。
駐輪場の奥にあった倉庫は、黒い根に押されて丸く膨らんでいた。扉は埋まり、横の窓だけが残っている。
枠を短く切って中へ入る。
人の背丈ほどある黒い塊から、四本の太い根が伸びていた。一本は床へ、一本は外壁へ、残る二本は中央の支持柱へ巻きついている。
まとめて切れば早いが、その勢いは柱の表面まで持っていく。倒す対象と、住んでいた人が帰るために残すものが同じ刃先の先へ並んでいた。
ガルが床側の根を嗅ぎ、途中で鼻先を上げた。床から三十センチほどの場所に、脈打つ節がある。
ほかの根も同じだった。
壁側に一つ。柱へ入る直前に二つ。
巣核と建物をつないでいる場所が、根元とは別にある。
「節だけ切る」
『柱へ刃を入れないで』
「分かってる」
刀を振り抜かず、床側の節へ短く入れた。黒い液が噴き、根全体が揺れる。
二つ目は外壁の手前。
三つ目と四つ目は柱へ沿わせ、切っ先だけを押し込む。
巻きついた根を残したまま、巣核とのつながりだけが切れた。黒い塊が萎み、中心に赤い核が露出する。
横へ払えば、後ろの壁まで切る。
天羽々斬の切っ先だけを当て、まっすぐ押し込んだ。
硬い感触が割れ、建物の中を通っていた脈が止まった。直後、上の階で何かが転がり、天井から細かな埃が肩へ落ちてくる。
すぐには動かず、天井を見る。黒根の横から、細いひびが一本伸びた。
『離れて。構造班を入れる』
千景の声に従い、ガルと外へ戻る。
確認経路の白い札が、集合住宅の入口まで置かれた。構造班は柱を見て、赤い札を下げる。
巣核停止済み。
立入禁止。
倒壊監視。
安全、とは書かれていなかった。
『次の巣まで二百八十メートル』
神崎の声が入る。
一歩出した時、左腿の熱が膝まで下りた。
止まる。
「今日はここまでだ」
言葉にすると、悔しさより先に息が抜けた。次の巣の位置は端末に見えているのに、左脚はそこまでの二百八十メートルを拒んでいた。
『了解。次はこっちで押さえる』
白い確認経路は、集合住宅の前で終わっている。
赤い街の端に、壊さず残した道が一本増えただけだった。




