第八十二話 市外縁
八月七日、午前五時二十八分。
青い防衛線の向こうに、朝の街があった。
信号は消え、車道には乾いた泥が溜まっている。コンビニの旗だけが風を受けて動き、閉じた自動扉の内側には倒れた買い物籠が散っていた。誰も拾わないまま、菓子の袋だけが冷房の切れた店内で膨らんでいる。
人のいない街は、もっと静かだと思っていた。
遠くで金属が擦れ、屋上のどこかで鳥が鳴く。その下に、魔物が鳴らす太鼓の音が一定の間隔で混じっている。
音の隙間に、人の声がなかった。
『第一進入、開始時刻です』
東條の声が無線から入る。
「入る」
ガルの新しい肩帯へ触れた。ガルは一度鼻を鳴らし、俺より先に青線を越える。
最初の交差点で立ち止まった。
右は住宅地、左は港へ続く道。正面に五階建ての集合住宅があり、黒い根が一階の壁を内側から押し破っている。根は駐輪場の屋根を持ち上げ、階段室の窓から二階へ伸びていた。
ベランダには、洗濯ばさみと子供用の黄色い長靴が残っている。片方は倒れ、もう片方だけが窓のほうを向いていた。
『北西外縁、一番巣候補を確認。西側のガス主管は閉止済み。ただし建物内の残留圧は未確認』
千景の声と一緒に、手元の図面へ三本の柱が表示された。
「中に人は」
『熱源なし。音響反応もない。匂いはガルに任せる』
ガルが道路の中央から歩道、駐輪場の泥へ鼻を移す。
人が暮らしていた匂いは、あちこちに残っているらしい。閉じた窓の前で一度止まり、置き去りの自転車の籠へ鼻を寄せ、それから次へ進む。新しい汗や血を見つけた時の反応はなかった。いないと分かるたびに安心するのに、窓の多さだけは減らなかった。
集合住宅の横には、太い引きずり跡がある。
黒い泥と木片が、港の方角から巣まで続いていた。巣が周囲から材料を集めている。泥の上には、オークの大きな足跡と、ゴブリンの小さい足跡が何度も重なっている。
「補給路は左の道路」
『南西へ六百メートル先で二本に分かれてる。無人機は片方を港まで追えなかった』
「住宅地側にも入ってる」
『うん。三本目がある』
千景が地図へ細い赤線を足した。
建物の中で、鎧の擦れる音がした。
ガルが伏せる。階段室の窓にオークの肩が一度だけ見え、すぐ奥へ消えた。上の階には短い足音が複数ある。
戦えば倒せる。
ただ、どこで刀を振るか分からないまま入れば、根に押されている柱や配管まで切る。
「構造班、ここまで来られるか」
『青線から百八十六メートル。確認経路を置けば来られる』
「先に外を一周する」
集合住宅から距離を取り、隣の道路へ回る。
北側の壁には根がない。東側では外壁から伸びた黒根が、細い路地を越えて別の戸建てへ入っている。戸建ての二階窓は閉じていたが、玄関扉が外され、巣の材料らしい木材が運び出されていた。
ガルがそこで足を止めた。
鼻先が戸建てではなく、道路脇の側溝へ向く。油と腐った肉の混じった泥が、細く南へ流れている。
巣は一つでも、使っている道は一つではない。
「東側の路地は救助路にしない。側溝も調べる」
『更新した。北側の道路だけ白線候補にする』
ガルと入口へ戻る。鎧の音は近づいていた。巣の中でも、こちらに気づいている。
構造班が青線を越え、柱と配管の位置を端末へ送ってくる。千景の図面に、切ってはいけない場所が増えていった。
赤い占領域へ入って、まだ三十分も経っていない。防護服の背中にはもう汗が張りつき、誰も使っていない部屋の換気扇だけが風でゆっくり回っていた。
王城までの道は一歩も縮まっていなかったが、壊さずに入れる場所は一つ見つかった。




