第八十話 七日の治療
七月二十三日。
息を吐くたび、計測器の中の白い球が少しだけ浮いた。
「もう一度。苦しくなる前に止めてください」
細い筒を咥え直す。
吸って、吐く。
胸の奥に残ったざらつきが途中で咳へ変わり、球が落ちた。
「昨日よりは上がってます」
「退院は」
「脚の画像を見てからですね」
同じ答えを朝から二度聞いた。左腿の傷は閉じ始めている。ただ、閉じたことと使えることは違った。
廊下から爪の音が近づく。
ガルが顔を出した。右肩には新しい被覆材が貼られ、識別肩帯は外されている。後ろの獣医師が、食事は半分だけだと教えた。
「食えないのか」
耳が横へ向いた。
ガルはベッドの横へ伏せ、鼻先をシーツへ押しつける。そのまま目を閉じた。
午後、大学の連絡画面を開いた。
前期試験の欠席者向けに、災害特例の追試案内が出ている。救助活動、避難、交通遮断、治療、通信断。理由ごとの提出欄が並び、対象者は三十六人いた。
診療証明を添付し、二十八日の遠隔追試を選ぶ。
送信してから三枝へ連絡した。
『戻った。追試になった』
三分もせず返信が来る。
『試験より先に生存連絡しろ』
続けて講義ノートの写真が四枚届いた。
『三問目は先生が範囲ずらした。録画の四十二分から見とけ』
『助かる』
『そこは単位取ってから言え』
録画を開いたが、墓苑の鐘より小さな文字のほうが頭へ入らなかった。四十二分のところを三回戻した。
翌日、自宅へ戻った。
玄関を開けると、閉め切った家の空気が流れ出す。畳でも土でもない、乾いた埃の匂いだった。靴を脱ぐだけで左腿が震え、上がり框へ腰を下ろしてから、しばらく玄関の内側を見ていた。
冷蔵庫には、千景が留めた帰還予定の紙が残っている。
七月二十一日中。
赤い磁石の下で端が曲がっていた。家へ戻れたのは、予定より三日遅かった。紙は剥がさず、そのままにする。
迷宮で使った服を救護側の洗浄袋から洗濯機へ移した。一度回しても灰の匂いが残り、もう一度水を張る。浴室では湯船に入らず、椅子に座って身体を洗った。
ガルの乾燥肉も湯で戻し、いつもの半分だけ器へ入れる。
全部は食べなかった。残りを片づけようとすると、前脚で器を押さえた。
「あとで食うのか」
返事の代わりに、器の横へ顎を置かれた。
三日目には残りもなくなった。ガルは肩を庇いながら庭まで歩き、家の裏へ行こうとする。名前を呼ぶと、縁側の前で止まった。
俺も玄関の段差を杖なしでは下りられない。
二人で、開いた戸の内側にいた。
七月二十六日の夜、千景から映像通話が来た。画面の向こうでは右腕を吊り、机の上に分解した標杭を並べている。
「顔色、まだ悪いね」
「そっちも」
「肩だけ。六本は芯を検査してる。二本は戻らなかった」
「新しい杭は」
「同じ材料が足りない。別の配合は試すけど、前と同じ距離では置けないと思う」
千景は一本の番号札を裏返した。
「脚は?」
「七日」
「七日たったら走れる、って意味じゃないからね」
「歩けたら行く」
「まず歩いて。それから決めて」
肩を動かしたらしく、千景の眉が一瞬寄る。
「千景も休め」
「今日は休んでる。杭を見てるだけ」
「それは休みじゃない」
「在真に言われたくない」
どちらも少し黙った。画面の向こうで千景が検査済みの杭と未検査の杭を分け直し、俺はガルの空きかけた水皿を手元へ寄せた。先に息を漏らしたのは千景だった。
通話が切れたあと、東浜の共同地図が更新された。赤い欄の大半は、通行不可、占領危険区、最終確認者なしの三つだった。
二十八日、杖を机の横へ置いて追試を受けた。
六十分、画面から目を離さない。送信した時には、汗で背中が冷えていた。ガルは足元で眠っている。
夏季課題のファイルを開き、災害時通信の途絶と復旧、と題だけ打って保存した。
七月三十日。再診で固定具が外れた。
平らな場所を短い距離だけ。走らない。跳ばない。刀を振らない。
医師は、一つずつ確かめさせた。
「迷宮はまだ許可できません」
「東浜の外から見るだけなら」
「現地の医療班にも、この画像を渡してください。痛みが出たら戻ること」
杖をついて診察室を出る。
帰宅すると、ガルの器が空になっていた。もう一杯を要求するように、鼻先で押してくる。
「今日から、いつもの量だ」
端末が震えた。東條からだった。
『明日午前十時、東浜解放会議。遠隔参加もできます』
杖を壁へ立てかける。
『行く』
それだけ返した。




