第六十六話 呼ぶ声
二日目の朝、白い石の小部屋を出ると、入口に張った鈴は鳴っていなかった。
夜のあいだにも灰は降っていた。昨日つけた靴跡は埋まり、墓石へ塗った白い印だけが残っている。
時計は七月十四日、午前六時十一分を示していた。
地上と同じなら、千景も東條も起きるころだ。端末には送れない文面が一つ残っている。『侵入した。まだ生きている』。送信欄が灰色なのをもう一度見てから、削除せずに閉じた。
中央の道を進む。
灰を踏むと、靴の下で小さな骨が割れた。百メートルほど先で、矢の軌道が未来視へ出る。射手は見えない。
首を傾けると、黒い矢が防毒面の横を抜けた。
音より先に二本目が来る。ガルが左へ跳ぶ。壁の納骨穴から骨の腕だけが伸び、弓を引いていた。
腕を切っても、床へ落ちた指は弦を離さない。
穴の奥へ天羽々斬を差し込む。刃先が硬いものへ当たった。捻ると、青白い光が消え、腕が崩れた。
右の壁に三体。
ガルが低く走り、矢を自分へ向けさせる。俺は反対側から穴へ近づき、奥の核を一つずつ壊した。最後の矢が肩を掠め、耐切創布の表面だけを裂いた。
矢尻には黒い液が塗られていた。触れずに密封袋へ入れる。
昼前、墓石が減り、左右へ小さな石の家が並び始めた。人が住める大きさなのに、屋根には卒塔婆が刺さっている。
ガルが最初の家の前で止まった。
灰の中から、橙色のロープが出ている。人間側の装備だった。端は刃物で切られ、近くに五人分の靴跡が残っていた。
一つだけ、右足を引きずっている。
跡を追う。途中で何度も灰に消えたが、ガルは覆い越しに残った匂いを拾った。歩みが遅くなるたび、こちらを見て進む方向を確かめる。
午後、家々の間から声がした。
「……いる……」
遠い。防毒面と壁を通したせいで、男か女かも分からない。
「聞こえるか」
返すと、声が止まった。
ガルは声のした左ではなく、靴跡が続く正面を見ていた。
「……聞こえる……」
今度は、さっき俺が使った言葉だった。
左の路地へ頭灯を向ける。霧の奥で、人影のようなものが一度だけ動く。
足を出しかけたところで、ガルが腰へ噛みついた。上着だけを引かれ、止まる。
「人かもしれない」
ガルは離さない。
正面の靴跡を見る。五人とも左へは入っていない。引きずった跡も、そのまま石門のほうへ続いていた。
人影がもう一度動く。
「……人かも……」
声は近づいたのに、足音がない。
左へ風を細く流す。霧だけが戻り、何かの輪郭を避けた。刀を向けた瞬間、その輪郭は家の壁へ沈んだ。
追わなかった。
ガルの口が上着から離れる。正面へ進み直すと、後ろから何度か俺の声がついてきた。
夕方までに石門へ着いた。門の前で五人の靴跡が乱れ、切れたロープが柱へ絡んでいる。内側から金属を引く音がしたが、門は開かなかった。
近くの低瘴気区画で二日目を終えた。
三日目の朝、門を迂回する細い通路を見つけた。片側は石壁、もう片側は底の見えない穴だった。ガルを先へ行かせず、俺が白い印をつけながら進む。
半分を越えたところで、後ろから千景の声がした。
「戻って」
足が止まった。
声の高さも、短い言い方も似ていた。
千景が中にいるはずはない。
分かっているのに、肩だけが先に振り返ろうとした。ガルが前で唸る。
その瞬間、足元の石が沈んだ。
通路が割れる。
ガルが前へ跳び、俺は反対側へ身体を投げた。間の床が崩れ、灰と石が穴へ落ちていく。刀を壁へ突き立て、残った縁へ片腕でぶら下がった。
大型ザックが下へ引く。左肩の縫合部が熱を持った。
「ガル、動くな」
向こう側でガルが身を低くしている。跳び戻ろうとしたが、崩れた幅はガルの身体二つ分以上あった。
壁へ土を押し込み、足を置ける段差を作る。右手で刀を引き抜き、縁へ上がった。
ガルと俺の間には、穴が残った。
呼ぶ声が、今度は穴の下から聞こえた。
「ガル、動くな」
俺の声だった。
ガルの耳が一度だけ下へ向く。それでも跳ばず、こちらを見た。
迂回路を探す。ガルの足音が壁の向こうへ遠ざかり、しばらく聞こえなくなった。覆いで匂いも弱い。最後に足音が聞こえた壁へ耳を寄せても、その先でどちらへ曲がったのかは分からない。
十七分後、右の石壁の奥から爪が二度鳴った。
壁沿いに進むと、崩れた家屋の裏で通路がつながっていた。灰だらけのガルが狭い隙間から鼻先を出す。
頭へ触れる。ガルはすぐ先へ行かず、肩をこちらの脚へ押しつけた。
もう声には返事をしない。互いが見えなくなった時は、壁か床を二度鳴らす。俺が壁を二度叩いてからガルを見ると、ガルは耳を立て、同じ場所を爪で二度引っかいた。
三日目の夕方、石門の裏側へ回った。
門の先には、誰かが置いた小さな防衛灯が点いている。電池はまだ切れていない。
その奥から咳が聞こえた。
今度、ガルは止めなかった。




