第六十二話 四日後
六月二十九日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。胸の奥だけが先に走り出したように息が浅く、天井だと分かるまで二度瞬きをした。
枕元の端末は午前六時四十三分を示している。眠れたのは三時間ほどだった。川代から帰った最初の夜よりは長いが、目を閉じるたびに傾いた駐車場の床が出てきて、深く眠った感じはしない。
身体を起こす。左肩の固定帯は昨日から外している。縫った場所の周りは黄色く変わり、腕を胸の高さまで上げても裂けるような痛みは出なくなった。その代わり、肘を伸ばしたところで指先が薄く痺れた。
寝床の脇でガルが頭を上げた。
「起きる」
床へ足を下ろすと、ガルも立った。右前脚を庇う動きはほとんど消えている。それでも台所へ向かう最初の一歩だけは、爪をつく場所を選んだ。
肉を解凍しているあいだに米びつを開けた。底に一食分も残っていない。冷蔵庫には卵が二つと、使いかけの味噌、診療所の帰りに買った豆腐がある。
ガルの器へ肉を入れ、自分は豆腐と卵を焼いた。片手だけで済ませていた四日前と違い、フライパンを左手で押さえられる。ただ、皿へ移す時に肩の奥が重くなり、いったん火を止めた。
壁際の固定具には天羽々斬が収まっている。鞘の表面は乾いたが、留め具の内側へ泥が残っていた。識別帯と肩掛けも、洗って干したまま椅子の背に掛けてある。
四日間、刀には触れていない。
食事のあと、ノートパソコンを開いた。未提出の欄が三つ並ぶ。プログラミング基礎の課題、情報倫理の小レポート、それから初年次演習の共同資料だった。
共同編集を開くと、俺の担当欄だけ見出しのまま残っていた。避難所の回線障害について、復旧までの時間と失われた連絡手段を整理する。調べるためにニュースの記録を開くと、川代の臨時回線と代行バスの映像が検索結果へ混じった。
資料を二つ追加したところで、三枝から通知が来た。
『戻った?』
「戻った。今日中に入れる」
『生存確認じゃなくて担当の話な。今日じゃなくて昼まででいい。こっちも結論が書けない』
「昼までに終わらせる」
続けて、肩を包帯で固定したままパソコンを打っている写真を送ろうかと思ったが、やめた。代わりに資料の要点を三つ書き、共有欄へ貼る。
三枝からは、数分後に『使う』とだけ返ってきた。
午前十時に家を出た。天羽々斬は固定具へ残し、ガルの契約個体証と肩帯だけを持つ。診療所までは歩いて十五分ほどだが、今日は予約した車両を使った。
診察室で縫合部を見た医師は、俺の腕を前と横へ上げさせた。胸の高さは越えられたが、頭の横まで来ると肩の内側で皮膚とは別のものが引きつった。
「日常動作は、もう普段どおりで大丈夫です。ただし、重い物を頭より上へ持ち上げるのは、あと二日やめてください」
「刀は」
「素振りからです。痛みが出たら、その日は終わり」
俺が頷くと、医師はガルの脚も見た。保護材を外し、傷口の周囲を指で確かめる。ガルは耳を後ろへ倒したが、脚は引かなかった。
「走らせなければ、こちらも問題ないでしょう。包帯は今日まででいいです」
戦えるかとは聞かなかった。二日と、走らせないという言葉だけを端末へ残す。
帰りに米と卵、洗剤、ガルの肉を買った。米袋を持つと左肩へ重さが集まるので、配達を頼む。支払いを終えたあと、レジ脇の新聞に川代市の復旧見込みが載っていた。
貨物線は最低三週間。三工場のうち一つは、来月まで再開できない。
防衛成功の見出しは、もう一面にはなかった。
家へ戻ると、ガルは玄関で一度だけ右前脚を振った。包帯のなくなった場所を舐めようとしたので鼻先を押し戻す。ガルもこちらの左肩へ鼻を寄せ、服の上から縫合部を嗅いだ。
「まだだ」
どちらの話かは、自分でも分からなかった。
午後は課題を終わらせた。プログラミング基礎の実行結果に一つだけ違う数字が残り、原因を探しているうちに日が落ちた。画面へ顔を近づけ、同じ処理を上からもう一度たどると、変数名の一文字だけが入れ替わっていた。戦闘なら決着のあとに通知が出るが、間違えた行を教えるものはない。
夕方六時過ぎ、三枝が共同資料を提出した。
『次に消える時は、先に日付だけ送って』
「まだ決めてない」
『じゃあ決まってからでいい』
その返事が普通で、少しだけ画面を見たままになった。
夜、千景から短い連絡が来た。
『肩、どうだった?』
「日常動作は戻していい。刀は二日後から」
『少しは楽になった?』
「ああ。今日は両手で飯を作れた。肩はまだ重いけど」
『そっか、よかった』
会話はそこで終わった。道路の仕事が続いているのか、背景に車の音が入っていた。
届いた米を棚へ入れ、洗った識別帯を畳む。天羽々斬の鞘から留め具だけ外し、乾いた布で泥を落とした。抜かなかった。
四日休んだから、元へ戻ったわけではない。眠りも、肩も、街も、まだ途中だった。
それでも明日の食事はあり、課題の提出欄には完了がついた。ガルは肉を一袋食べきり、空の器の前でこちらを見ている。
「追加はない」
ガルはしばらく動かなかったが、やがて寝床へ戻った。
端末には、東條から届いた未開封の通知が一件残っていた。




