第六話 見ていないこと
眼科へ着くまでに、二度引き返した。一つ目の道は倒木で塞がり、二つ目は橋の手前で警察車両に止められた。鳴海は事情を聞くたび、地図へ時刻を書き込んだ。苛立った様子はない。
ただ、曲がる前に必ず帰りの道を確かめていた。
「救急車を呼んだほうが早かったんじゃないか」
後部座席から言う。
「この辺の救急車は、もっと動けない人に回ってる。私の車なら今出せる」
「俺も患者だろ」
「だから送ってる」
それで話は終わった。眼科は駅の反対側にある小さな診療所だった。入る前に、鳴海は上着を脱ぐように言った。黒い液体のついた面をタオルで覆い、そのまま大きな透明袋へ入れる。袋の口へ伸ばした指が、一度だけ止まった。
「これ、目にも入った?」
「入ったのは石だ。黒いのは肩と胸だけ」
鳴海は俺の頬と、袋の中の上着を見比べた。
「何か分からないし、これは車に置いていこう」
袋は車の荷室へ残した。天羽々斬も後部座席へ残す。鳴海は上から毛布を掛け、車へ鍵をかけた。待合室には、地震で割れたガラスが入った人や、転んで眼鏡を壊した人が座っている。問診では、正体の分からない黒い液体が上着にだけ付いたことも伝えた。何なのかまでは、俺も答えられなかった。
右目を洗われた時、身体が診察台から浮きそうになった。石の粒が二つ流れ出し、まぶたの裂傷と角膜の浅い傷、それに白目の出血が見つかった。眼球の破裂も網膜の異常もないと聞いて、診察台へ押しつけていた背中の力が少しだけ抜けた。
数日は右目を使わず、痛みと濁りが強くなるならすぐ戻ること。傷が塞がっても、見え方が戻るまでは距離を読み違えることがある。診療所を出ると、もう午後二時を回っていた。右目には透明な保護板とガーゼが当てられている。まぶたへ布が触れるたび、細い痛みが奥まで走った。
「家まで送る」
「そこまでしなくていい」
「片目で山道は無理。乗って」
鳴海は車の鍵を開けた。荷室を開け、透明袋の外から黒い染みをもう一度見る。
「この黒いの、まだ乾いてないね」
見ると、黒い液体は布の繊維へ沿って細く広がっていた。乾いていない。水より粘りがあり、布へ染みついている。
「触らないほうがいい」
「聞かないのか」
鳴海は透明袋をもう一枚重ね、袋の口をつまんだ。
「家の裏から出てきたのは見たけど、今は聞かない。まず目を休ませて」
心臓が一つ強く打った。やはり、見られていた。
「ただ、目が悪くなったら連絡して。その時は放っておけないから」
二つの袋の口が、別々に結ばれる。それ以上は言わなかった。車へ乗り込んだ時、視界の端に薄い文字が残っていることに気づいた。ダンジョンを出た時から浮かんでいたのかもしれない。
右目の痛みと鳴海の声に押され、読んでいなかった。意識を向ける。
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初回外部接続を完了しました。
主所属:日本サーバー
個体記録と実績記録を送信しました。
以後、外部接続中は記録を自動同期します。
――――――――――
日本サーバー。昨日まで、そんなものはなかった。鳴海のスマートフォンには道路の通行止めが増え、俺の視界には国の名前が所属として出ている。どちらも、誰かが許可したようには見えなかった。
「どうしたの」
「いや」
表示を閉じる。ランキングらしい欄は出なかった。家へ戻るまで、鳴海は黒い染みのことを聞かなかった。俺も、穴のことは話さなかった。
車が家の前へ停まる。白い軽自動車の助手席には、朝に使っていた巻尺と記録板が置かれたままだった。
「三日は休んで」
「医者は数日って言ってた」
「じゃあ、最低三日。悪くなったら延ばして」
返す言葉はなかった。鳴海は名刺の番号を指で叩く。
「連絡がなかったら、一度だけ確認する」
「一度だけ?」
「返事がなかったら、次は救急へ連絡する」
車を降りる。天羽々斬と、黒い上着の入った袋を受け取った。鳴海は家の裏を見なかった。少なくとも、俺の前では。
翌日から三日間、家で休んだ。初日は光だけで右目が痛み、二日目には指の本数が分かり、三日目には部屋の端が二重にずれる程度まで戻った。ゴム手袋を二重にし、右目の保護板を外さず、換気扇を回した。上着は水の中へ沈めてから洗った。
赤い血は薄くなった。黒い染みは、洗剤を入れても布の内側へ残った。乾かしたあと、ビニール袋へ戻す。大学からは、地震の影響で入学式と対面日程を見直すというメールが届いた。
冷蔵庫の卵を使い切り、切れかけていた水と食料を買い足した。片目で店の棚を見ると、同じ距離にあるはずの商品が少しずつ前後して見えた。道路用品の棚で、安いヘッドライトと透明な保護眼鏡も籠へ入れた。
鳴海からは一度だけ、短いメッセージが来た。
『右目、見えてる?』
『見える』
送ってから、少し考える。
『まだ二重になる』
返事はすぐ来なかった。十分ほどして、診療所の受付時間だけが送られてきた。再診でも、見え方が戻るまでは無理をしないようにと言われた。
三月二十九日の朝、保護眼鏡をかけた。右目はまだ痛む。
それでも、両目で見た階段の段差は一つに重なっていた。天羽々斬を腰へ結ぶ。家の裏では、オレンジ色のテープが残っている。黒い穴も、同じ場所にあった。
前に立つと、右目の奥がまた痛んだ。足は止まったままだった。それでも、帰ろうとは思わなかった。




