第五十二話 二時間
六月二十四日の朝、大学へ向かう路線バスが十二分遅れた。
駅前の工事ではない。川代方面へ向かう県道の一部が、迷宮外周の再測定で片側通行になっていると車内表示に出ていた。
窓から見える道路は、いつもより配送車が多い。北へ進めない車がこちらへ回され、交差点のたびに列が詰まっていた。
バスを降り、端末で一限の出席登録をする。
講義室では三枝が先に席を取っていた。
「今日、学食の二階閉まるって」
「何かあった?」
「食材が来てないらしい。川代の倉庫から来る便」
三枝はノートパソコンを開いたまま、大学の掲示を見せた。昼食は一階だけで提供、午後の実験棟は納品遅延により一部変更。迷宮や魔物とは書かれていない。
授業が始まり、画面へ通信遅延の測定結果を出す。俺と三枝の課題は再提出を終え、今日は別の組の発表を聞く側だった。
質疑の途中で、教室の何人かが同時に端末を見た。
国内三か所の低位迷宮で入域受付停止。川代市近郊〈赤角砦〉は外周測定値上昇のため、半径五キロ以内への新規立入を制限。
避難警報ではない。
教授も授業を止めず、「帰路の交通情報だけ確認してください」と言った。
それでも、発表者は次の図を一度飛ばした。後ろの席では、家族へ短い連絡を送る学生がいる。
俺の端末にも千景から地図更新が届いた。
青梅小迷宮・第三版。六月二十三日午後四時二十分、受付確認。第二分岐左は救助経路として確認済み。右の下り坂は未確認、使用停止。現地報告七件。
地図の右上には、版番号と最終確認時刻がある。前にはなかった欄だ。
肩の傷はどうかと送ると、少しして返事が来た。
『動かせる。今日の確認は別の人に頼んだ』
自分で全部を確かめに行っていない。
そのことへ、俺は短く了解と返した。
昼休み、学食には一階の入口から長い列ができた。いつもの定食はなく、保存の利く麺とパンだけが並んでいる。三枝は最後の焼きそばパンを取り、俺は温かいそばにした。
テレビは、川代市の外れにある赤い石門を映していた。
昨日より門の幅が広い。外へ出た魔物はいないが、周囲の地面から赤い角のような岩が何本も突き出している。
解説者は「予防的な封鎖」と繰り返していた。
「大月、あそこ行くことある?」
三枝が小声で聞いた。
「まだ依頼は来てない」
「来たら行くんだ」
「条件を聞いてから決める」
そう答えた時、胸の中ではもう行く場合の経路を考えていた。
大学から川代までは、平常なら車で一時間半前後。今は県道が詰まり、高速の二つの出口が封鎖準備に入っている。現地へ近づくほど早くなるわけではない。
午後の授業が終わる前に、大学からも帰宅推奨が出た。
駅へ向かう人が重なり、改札の前で流れが止まる。俺は一本目の電車を見送り、混雑が下がった次の便へ乗った。
家へ着いたのは午後五時を過ぎていた。
ガルが玄関まで来る。識別肩帯と救急用品を床へ並べると、食事の時間ではないと分かったのか、座らずにこちらを見た。
東條から電話が入った。
『赤角砦が許容量を超えました。まだ流出は確認されていません』
「門は広がってる」
『内側の圧力で出口が拡張しています。警戒段階を上げました。現時点では、周辺部隊が避難準備と外周封鎖を進めています』
「俺に何をしてほしい」
『まだ出発しないでください。現地の担当区域が決まっていません。流出が始まれば、あなたには中枢か地上防衛のどちらかを選んでもらいます』
両方へ同時には行けない。
「移動時間は」
『今の道路で二時間以上。輸送車を回しますが、警報後に道が空くとは限りません』
通話を切っても、装備は鞄へ入れた。
夕食用の肉をガルの器へ出す。ガルは二口だけ食べ、玄関に置いた肩帯へ鼻を寄せた。
午後五時四十六分、川代市の防災情報が更新された。
許容量超過。出口拡張を確認。魔物流出は未確認。
まだ、警報音は鳴っていなかった。
午後五時五十八分、端末が警報音を鳴らした。
川代市〈赤角砦〉。魔物流出を確認。指定区域へ避難指示。周辺道路は緊急車両優先へ移行。
ガルが器から顔を上げた。
「行く」
返事を待つ必要はなかった。ガルは玄関へ向かい、床に置いた識別肩帯の前で止まる。
俺は天羽々斬を専用鞘へ固定し、救急用品、飲料水、予備の上着を鞄へ入れた。肩帯をガルへ回す。以前は嫌がった留め具にも、今日は鼻を鳴らしただけだった。
東條から位置共有が届く。
『輸送車、九分で到着します。西側の生活道路へ出てください』
「流出数は」
『確認済みがゴブリン三十以上、オーク七。出口内側にさらに反応があります。大型は未確認です』
「千景と神崎さんは」
『別経路です。鳴海さんは自治体救助班、神崎隊は南側基地から直行。あなたは到着後に担当を選びます』
電話を切り、家の入口を施錠する。自宅裏迷宮の所有者照合と侵入警報は有効。帰還機能は、この庭から川代へ行くためには使えない。
輸送車は午後六時七分に着いた。
後部は二重扉で、ガル用の区画と俺の座席が低い隔壁で分かれている。固定檻も鎮静剤もない。ガルは床の滑り止めを確かめるように一度回り、進行方向へ身体を向けた。
午後六時十四分、出発した。
最初の二十分は、普通の帰宅車列に混ざった。
信号ごとに数台しか進まない。緊急車両優先の表示が出ても、一般車が消えるわけではなかった。脇道から出てくる車、道を譲ろうとして縁石へ寄せすぎる車、家族を迎えに行くのか北へ向かおうとする車が重なる。
運転席の無線が途切れず鳴っている。
『第一出口、さらに拡大。オーク盾兵を確認』
『西側避難所、受入れ上限。次は第三中学校』
『川代駅北口、一般車両進入禁止』
地図上の到着予定は、一時間四十二分から一時間五十五分へ延びた。
高速へ入る手前で、避難バス三台が前を横切った。窓際には荷物を膝へ抱えた人が並び、後ろの一台だけ室内灯が消えている。
バスが通り終えるまで、輸送車も止まった。
「抜けませんか」
俺が聞くと、助手席の担当者は前を見たまま首を振った。
「反対車線も避難用です。今ここで大型車を詰まらせたら、後ろの救急が動けません」
正しかった。
それでも、止まっている時間だけ、川代では誰かが戦っている。
ガルが低く唸る。俺は隔壁越しに手を伸ばさず、名前だけを呼んだ。
高速へ上がると一度速度が出た。
午後六時五十七分、川代市の外周映像が端末へ入る。赤い石門の前で警備車両が横倒しになり、ゴブリンの群れが用水路沿いへ広がっていた。画面の端を、盾を持ったオークが通る。
中枢へ入れば、出口そのものを止められるかもしれない。
地上へ残れば、今出ている群れを街へ入れずに済むかもしれない。
両方を一人ではできない。
午後七時十八分、高速出口の二キロ手前で再び止まった。
前方の高架下に避難車両が集中し、緊急車線まで塞がっている。警察が中央分離帯の一部を開き、反対側一車線を市外向けに変えていた。
輸送車は出口を諦め、一つ先まで進んで一般道へ下りる。
到着予定が午後八時五分へ変わった。
東條から短い通話が入る。
『工業区第二線まで下がりました。立体駐車場一階が損傷。K-17工場に十一人残っています』
「流出は」
『ゴブリンとオークが中心。オーガを複数確認。中枢側への進入路はまだ確保されています』
「着いてから決めます」
『はい。現場地図を更新します』
一般道には、進行方向と反対へ歩く人がいた。荷物を載せた自転車を押す人、犬を抱えた人、仕事着のまま走る人。消防車が交差点を塞ぎ、輸送車は一度住宅地側へ迂回した。
空が暗くなるにつれ、前方の赤い光が見えやすくなった。
炎ではない。赤角砦から伸びた岩と、警告灯が混ざっている。その右側に黒い煙が上がっていた。
午後八時六分、工業区第二線へ着いた。
警報から二時間八分。
輸送車の扉が開くと、熱気と焦げた樹脂の匂いが入ってきた。遠くで立体駐車場が傾き、コンクリート片がまだ落ちている。
ここへ着くまでの間にも、街は壊れていた。




