第四十二話 平井岳【別視点・森川藍】
治療する順番は分かっていた。
気道。呼吸。大きな出血。意識。骨折はそのあと。
森川藍は、平井岳の胸当てを緩めた。
「息を吸えますか」
平井は頷こうとして、咳をした。
濡れた音が続く。唇の端へ赤い泡が増え、胸の右側だけが浅く動いた。
森川は治癒を使った。
頬と肩にできた浅い裂傷が閉じる。けれど、曲がった左腕は戻らない。へこんだ胸当ての下で何が潰れているのか、触れただけでは分からなかった。
「もう一度。息を吸って」
平井が口を開く。
空気は入っている。それでも音が軽くならない。
後ろで鉄棒が床を打った。
瀬尾が短剣を構え、オーガの前を横へ動く。倒すためではなく、森川たちへ真っすぐ来させないためだった。
「開いた!」
小宮の声がする。
手動隔壁が、床から少しずつ上がっていた。小宮は両手で輪を回し、肩まで入る隙間を作っている。
森川は固定具を平井の左腕へ当てた。完全に巻く時間はない。折れた位置が動かないよう、盾枠ごと幅広の帯で胸へ留める。
「運ぶ。頭側」
瀬尾が戻り、平井の脇へ腕を入れた。
森川は脚側を持った。
「一、二、三」
持ち上げる。
平井の身体が重い。装備を外していない。胸を傾けると呼吸音が変わり、水平に保とうとすると歩幅が小さくなる。
隔壁まで十数メートル。
瀬尾が後ろ向きで進み、森川が足元を見る。小宮は輪を回し続けている。
オーガの足音が近づく。
二人で運ぶ速度では、先に隔壁へ着けない。
「下ろせ」
平井が言った。
声は掠れ、途中で咳になった。
「動かさないで」
「下ろせ。輪、回す」
「左腕は使えません」
平井は右手を上げた。
森川は首を振った。ほかの方法を考える。瀬尾が一人でオーガを止める。小宮が輪を固定する。自分が平井を引く。どれも、隔壁までの距離と足音に合わない。
瀬尾が平井を輪の横へ下ろした。
「三人が通ったら、俺が戻る」
その言葉へ、平井は返事をしなかった。
右手で手動輪を掴む。
一回。
息が漏れ、輪が止まる。
二回。
隔壁の隙間が、人一人通れる幅になる。
三回。
平井は輪の下にある爪を靴先で起こし、右手で掛けた。隔壁がその位置で止まる。
「小宮、先」
瀬尾が言う。
小宮は通り抜けたあと、外側から手を伸ばした。
森川は動けなかった。
平井の胸が、まだ浅く上下している。
「森川」
名前を呼ばれた。
いつもの冗談はなかった。命令にも聞こえなかった。
森川は隔壁の下をくぐった。
瀬尾が最後に抜ける。すぐ振り返り、隙間から腕を入れた。
「平井、手を」
平井は右手を伸ばさず、掛けた爪を蹴った。
隔壁が下がり始める。
オーガが来た。
平井は床に残っていた盾の半分を右手で拾い、鉄棒の前へ出した。
一度だけ、音が止まる。
割れた盾が鉄棒を横へ滑らせた。完全には流れない。鉱石をまとった先端が盾枠を押し込み、そのまま平井の肩と胸を隔壁へ叩きつけた。
森川は隙間へ両手を入れた。
「平井さん」
平井の身体がずれ落ちる。
隔壁は胸の高さで止まり、完全には閉じなかった。オーガが内側から盾と身体を押しつけている。
平井の目は開いていた。
森川は呼吸を見た。
胸が動かない。
「平井さん、息をして」
返事はない。
手を伸ばしても、首へ届かない。治癒を向ける距離にも入れない。隔壁の下へ潜れば、オーガの鉄棒がある。
瀬尾が森川の肩を掴んだ。
「まだ閉じてない。下がる」
「呼吸が」
「森川」
平井の胸は動かなかった。
十秒を数える。
もう一度数える。
瞳孔、呼吸、反応。触れられない項目がある。だから確定できない、と言いたかった。
オーガが鉄棒を引き、隔壁をまた叩いた。
平井の頭が揺れても、呼吸は戻らない。
「死亡。時刻、十三時三十四分」
森川は自分で言った。
隔壁の向こうに、平井岳が残った。




