第四十三話 撤退線【別視点・瀬尾航平】
瀬尾は森川の肩を引いた。
隔壁の向こうで、鉄棒がまた床へ落ちる。歪んだ板が持ち上がりかけ、平井の割れた盾が挟まったところで止まった。
下に残る隙間から、靴の先が見えている。
「戻るな」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
森川は膝をついたまま動かない。小宮は手動輪から両手を離し、白くなった指を握っていた。
もう一度、隔壁が鳴った。
平井が作った時間は、遺体を引き戻すための時間ではない。三人がここから離れるための時間だ。分かっていても、足は隔壁へ向きたがった。
「小宮、時刻」
「十三時三十五分」
「地図に入れろ。隔壁の右端が浮いてる。下から胸の高さまで歪み。内側に大型一、平井と盾、俺の槍」
小宮は一度だけ息を詰まらせ、それから腰の端末を出した。指が震え、最初の線を引き直す。
「個体は、鉱石を食べてた。右腕が入った時より太い」
「重量もだ。最初の一撃と二撃目で違った」
それを言葉にすると、判断が遅れた時間まで記録へ残る気がした。
瀬尾は短剣を握り直した。槍は隔壁の内側だ。前を探る小宮の確認棒も、手動輪の近くに落ちている。
四人で決めた並びは、もう使えない。
「小宮が前。地図と罠。俺が中央で左右を見る。森川は後ろ、治療具を持ったまま。走らない。止まらない」
「瀬尾さんが後ろじゃなくて?」
「短剣であれは止められない。後ろから来たら、三人で逃げる」
小宮が頷いた。
森川はまだ隔壁を見ていたが、やがて立ち上がった。平井の血がついた手袋を外さず、治療鞄の口だけを閉める。
三人は北側坑を戻り始めた。
白い壁印を一つ越えるたび、隔壁を打つ音が小さくなる。聞こえなくなった時、瀬尾は安心できなかった。破られたのか、諦めたのか、それすら確かめに戻れない。
最初の分岐で、小宮が手を上げた。
鉱車の陰に、二つの影がある。坑道コボルトが一体、剥がした鉄板を胸の前へ持ち、もう一体が短い鶴嘴を握っていた。
平井の盾があれば、正面を受けてから瀬尾が槍を出した。今は盾も槍もない。
「右へ寄せる」
小宮が床の小石を左壁へ投げた。音に鉄板持ちが顔を向ける。
瀬尾は右から踏み込み、鉄板の縁を短剣で払った。刃は浅くしか入らない。それでも手首が外へ流れたところへ、小宮の予備杭が脇の下から刺さる。
森川が治療鞄を抱えたまま、背後から来た鶴嘴を壁際へ蹴った。
瀬尾は鉄板持ちの喉へ短剣を押し込んだ。
一体が崩れる。
鶴嘴を落としたもう一体は、低い横穴へ身体を滑り込ませた。
「追わない」
小宮が息を吸うより先に、瀬尾は言った。
追えば倒せるかもしれない。逃がせば、別の個体を呼ぶかもしれない。けれど、今の三人が地図の外へ一歩出る理由にはならなかった。
討伐した個体から刃を抜き、血を拭う時間だけ取る。素材は拾わない。
その先の分岐には、鳴海千景が以前の調査で残した青い線があった。壁の低い位置を這う塗料と、角ごとの細い反射片。小宮が端末と照合し、左、右、緩い下りの順に選ぶ。
人工坑道へ戻る手前で、森川が立ち止まりかけた。
「平井さんの固定具、向こうです」
「場所は入れた」
「そうじゃなくて」
瀬尾にも分かっていた。固定具がどこにあるかではない。巻き終えられなかったことを、森川は言っている。
「今は三人を出す」
それしか返せなかった。
人工坑道の照明が見え、端末の通信表示が灰色から緑へ変わった。途切れていた着信が一度に並ぶ。
瀬尾は最上段の現地本部を開いた。
「北側班、瀬尾。三名で撤退中。平井岳死亡、十三時三十四分。遺体未回収。手動隔壁で大型個体を一時封鎖しています。隔壁右端に破断、長くは持ちません」
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
『四名で入域した班か。残り三名の負傷は』
「なし。装備損失あり。大型個体は周囲の鉱石を摂取し、右腕と打撃重量が増加しています」
『主経路班との合流は待つな。そのまま退域しろ。入口側の封鎖を上げる。遺体回収は後続班で計画する』
後続班という言葉へ、小宮が顔を伏せた。
在真たちは南東の主経路にいる。呼べば、あの個体を倒せるかもしれない。だが、通信が戻った今から彼らを待てば、三人はまた坑道の中へ留まることになる。
「了解。三名、退域します」
通話を切る。
入口側から封鎖灯が一つずつ赤へ変わっていった。
小宮が先へ進み、森川がその後ろにつく。瀬尾は二人の背中を数えてから歩き出した。
三人しかいなかった。




