第三十八話 新しい盾【別視点・瀬尾航平】
翠牙洞の報酬は、一人二万八千四百円だった。
瀬尾航平は、そのうち二万円を家へ入れた。残りは転居費用の口座へ移したが、翌日に交通費と防塵マスク代が引かれ、数字はすぐに減った。
ゴブリンを二体倒し、四人で帰った。
その結果としては少なくない。だが、仕事を辞められる額でも、装備を好きに買い替えられる額でもなかった。
振込を終えると、家からは『確認した。助かった』とだけ返ってきた。瀬尾も『次は未定』と送り、報酬額や国内順位の話はしなかった。
転居先の初期費用は、まだ半分にも届いていない。地震で条件の合う部屋が減り、前に見ていた物件は家賃が上がっていた。冒険者になれば一度で稼げると考えたこともある。実際には、遠出をするほど移動費がかかり、敵に触れるたび手袋や靴や武器のどれかが減った。
五月二十五日の夜、鉄喰い坑道の地上宿泊区画で、平井岳が新しい盾を毛布の上へ置いた。
新品なのは表板と持ち手の革だけだった。内側の金属板と枠は前の物を使い、木針の浅い穴が三つ開いた古い表板は、写真と点検記録を残して工房へ渡してある。
「七万三千六百円」
平井が修理明細を瀬尾へ見せた。
「盾、もう一枚買えそうな値段だな」
「この枠に合う新品はもっとする。樹脂も入れ直したし」
「分割は」
「三回。次の報酬が入れば二回で終わる」
入れば、という言葉を誰も直さなかった。
共同費の封筒には、翠牙洞へ入る前より少し多い金が残っている。ただし、明日の車両代と四人分の交換フィルターを引けば、増えた分のほとんどが消える。
平井は盾を床へ垂直に立て、上から体重をかけた。次に瀬尾が正面から槍の柄を押し当て、小宮が枠の歪みを横から見る。森川は同じ動作を三度繰り返させ、そのたび平井の握力と腕の痺れを聞いた。
工房の合格札だけで済ませず、自分たちでも触る。それも翠牙洞のあとに決めた手順だった。
小宮佐知は机へ坑道図を広げ、明日の許可範囲へ赤い線を引いていた。森川藍は救急袋から道具を全部出し、鉄粉のついた物と清潔な物を別の布へ並べている。
「北の既知坑。下見済みは二百十メートル」
瀬尾が確認すると、小宮が頷いた。
「分岐は一つ。右は未確認だから入らない。左の青札まで」
「敵は」
「鉱石スライム二、坑道コボルト四まで記録あり。オーガの足跡は主坑側だけ」
平井が盾を立て、腕を通した。
「だったら、前と同じでいける」
「前と同じだから、確認するんです」
森川は盾の内側へ手を入れ、持ち手の縫い目を引いた。次に平井の左手を握らせ、指の色が変わらないかを見る。
「痺れは」
「ない」
「痛み」
「ない。腹は減った」
「それは処置できません」
平井が笑った。
瀬尾も少し笑ったが、明細の金額は頭に残った。
夕食は宿泊区画の湯だけで戻した米と、四人で分けたレトルトのカレーだった。平井は腹が減ったと言ったわりに先に盾を壁際へ置き、小宮は食べながらも赤線の外へ指を出さない。森川だけが食後すぐ歯を磨き、救急袋の一番上へ新しい止血帯を戻した。
四人の共同費からも盾の補修へ出している。小宮の罠確認棒、森川の薬品、瀬尾の槍先研磨、車両の相乗り代。次の一回を無事に終えなければ、共同費はほとんど残らない。
廊下で扉が開いた。
大月在真が戻ってきた。
靴底に黒い物が固まり、片方だけ歩く音が違う。後ろの黒い狼は右前脚をかばっていた。鳴海千景が受付へ何かを報告し、職員が処置具を持って走る。
瀬尾は立ち上がった。
「何が出ました」
大月は少し考えてから答えた。
「オーガ。倒してない」
国内十一位でも、倒さず戻る相手がいた。
理由を聞く前に、千景が続けた。
「倒すと坑木と天井が落ちる位置でした。主坑は再確認まで通行停止です」
小宮が地図の主坑へ斜線を引く。
瀬尾たちが明日入る北の既知坑とは別の道だった。
「そっちは行けるんですか」
瀬尾は小宮へ聞いた。
「今の報告だけなら。でも、入口で更新を確認してから」
「中で変わってたら」
「戻る」
四人の答えが重なった。
前回も、それで帰れた。
瀬尾は自分の槍を膝へ載せ、穂先の止め金を確かめた。新しい物ではない。研ぎ直した刃と、交換していない柄。手に馴染むことと、壊れないことは同じではなかった。
平井は盾を壁へ立てかけた。
新しい表板には、まだ一つも傷がなかった。




