第三十六話 世界一と言う
五月十四日、家を出てから大学の正門まで一時間十一分かかった。
大学へ電車で向かうのは、地震のあと初めてだった。
改札へ交通系カードを当てる。身体が前へ進む速さと扉の開く速さが合わず、腰が閉じかけた板へ当たった。
後ろの人が少し離れる。
俺は振り返らず、通路の端へ寄った。
大学には、オンライン画面で見た人数より多くの学生がいた。休講になった棟と、立入禁止の渡り廊下を避ける矢印が地面へ貼られ、教室の入口では学生証を読み取らせる。
扉の取っ手を引く時も、力を抜く必要があった。
「大月?」
教室の後ろから呼ばれた。
三枝悠斗は、オンライン説明の時と同じ灰色のパーカーを着ていた。画面越しより細く見える。手を上げたあと、俺の右手の保護材に気づき、握手はしなかった。
「初めまして、で合ってるよな」
「合ってる」
「リンク、昨日から切れてる。共同課題の二件目」
順位のことではなかった。
二人で端末を開く。共有フォルダの閲覧権限が、対面授業への切り替えで外れていた。三枝が再送したリンクを俺が開き、引用元と図の番号を直す。
キーボードは家の物より浅かった。
一つ押したつもりで、同じ文字が三つ入る。消そうとして別のキーへ触れ、行ごと選択された。
三枝が横から手を出しかけ、やめた。
「俺がやる?」
「いや。慣れる」
指先を浮かせ、押し込まずに触る。三度目で一文字だけ入った。
情報倫理の講義では、避難者名簿とダンジョン入域記録の扱いが例に出た。安全確認に必要な情報と、一般公開してはいけない住所や負傷記録を分ける話だった。
俺の公開順位には名前がある。
大学の座席や、今使っている端末の番号まではない。
講義のあと、初年次演習で紙の提出用紙へ記入した。シャープペンシルの芯を二度折り、三本目からは持つ位置を後ろへずらす。
昼休みに紙コップを掴むと、側面が少し凹んだ。
水はこぼれなかった。
「それ、能力のせい?」
三枝が聞いた。
「多分」
「便利そうで、全部便利ではないんだな」
俺は凹んだ紙コップを机へ置いた。
「戦う時は便利だ」
「課題の提出には?」
「関係ない」
「じゃあ今日の十七時までな」
共同課題は、その日の午後四時四十二分に提出した。
帰りの改札では、扉へ当たらなかった。
それから十日、週三日分の授業へ通いながら、次の攻略資料を読んだ。
五月二十四日の夜、千景が自宅へ来た。
机の上には、秩父の旧鉱山と重なった〈鉄喰い坑道〉の地図が広がっている。千景は玄関で泥を落とし、ガルが嗅ぎ終わるまで道具袋を床へ置いたまま待った。
「主坑の入口と、最初の側坑までは二度歩いた」
地図の黒い線を指でなぞる。
「その先は、鉱車が動くたびに地形表示が変わる。岩そのものじゃなくて、隔壁と軌道が切り替わるみたい」
写真には、傾いたレールと鉄粉で黒くなった壁が写っていた。
確認されているのは、鉱石を取り込むスライム、つるはしを持ったコボルト、岩喰い虫。奥にはオーガらしい足跡があり、荷重で崩れた床と落石も残っている。
「粉塵が多いから、これは必要」
千景が未開封の防塵マスクを机へ置いた。
「明日買うつもりだった」
「規格は決めてた?」
「そこまでは」
「じゃあ、これは試着用」
千景はマスクの袋を地図の上からよけた。
「明日は入口と主坑の初期区間を見るつもり。その先は当日決めるけど、落石と粉塵で地図作業どころじゃなければ戻るよ」
俺は頷き、千景がなぞった経路を入口から追った。
鍋の湯が鳴った。
地図を端へ寄せ、うどんを二つの器へ分ける。ガルには味をつける前の肉と、別に用意した餌を出した。
千景は短槍を壁際へ置いたまま、食卓へ座った。俺から器を受け取り、湯気を避けるように少し顔を引く。
「在真さんは、どこまで行くつもり?」
坑道の話だと思い、地図を見た。
千景の指は、奥の未確認域ではなく、俺の順位を書いた端末画面の近くにあった。
「翠牙洞のあと、十一位になった」
「知ってる」
「まだ、上へ行くの」
箸を置いた。
初期開放域の下に残る封鎖。翠牙洞の奥で、グリムが群れを動かしていた広間。国内順位の上にいる十人と、世界順位の上にいる四百二十九人。
攻略を急がなくても、しばらく暮らせるだけの現金は入った。
それでも、難しい敵がいると分かると、行けるかを考えていた。
次に見つけた入口で、強さが足りないからと戻るのは嫌だった。進むかどうかは、自分で決めたい。
「強くなりたい」
千景は急かさなかった。
「日本で一番。その先は、世界で一番強い冒険者になる」
言葉にすると、順位欄で見るより大きかった。
千景は笑わなかった。箸に取っていたうどんを器へ戻し、もう一度俺を見た。
「世界で一番、か。……次も帰れる道は残してね」
「残す」
ガルが器から顔を上げ、鼻先で俺の膝を押した。
食事のあと、三枝へ連絡を送った。
『五月二十五日から数日、連絡が遅れる。課題は提出済み』
返信は一分もかからなかった。
『了解。帰ったら次の分担決める』
机の端には、千景が持ってきた防塵マスクが残っていた。
袋を開けて、顔に合うかを確かめた。




