第三十三話 二泊
五月二日の朝、受付の机に小宮佐知の報告書が置かれていた。
報告書には、通常ゴブリンを二体倒し、曲がり角の先で六体以上の足音を聞いたとある。圧板を踏ませると木針が三本飛び、白煙の出る石と、前回の記録にはなかった壁の割れ目も見つけていた。
確認したことと、分からないことが別の欄に書かれている。
「白煙の毒性は未確認。割れ目の内部も、敵の総数も未確認です」
千景は声に出して読み、紙地図へ日付だけを書き込んだ。割れ目を道にはしない。薄い赤で丸をつけ、その横に疑問符を置いた。
受付の端で盾を点検していた小宮が、こちらを見た。
「大きくはないです。でも、一人ずつなら入れそうでした」
「中を覗きましたか」
「覗いてません。音が増えたので戻りました」
千景は頷き、報告書の確認者欄へ署名した。
「それで十分です」
四月二十五日の調査を受け、今日は二泊の経路再確認を頼まれている。中枢はまだ依頼範囲の外だ。
俺たちは二泊分の荷物を持って、翠牙洞へ入った。
前回と違い、経路確認員が二人ついている。戦闘員ではなく、杭の間を実際に歩き、後から使える道かを別の目で見るための人たちだった。寝具、水、簡易食、濡れ物用の袋が増え、入口から最初の杭を置くまでにも時間がかかった。
八本目の先へ着いたのは、午後二時を過ぎてからだった。
太鼓は鳴っていない。
獣とゴブリンの足跡はまだ泥に残り、小宮が報告した割れ目の方角へ続いている。ただし途中で二手に分かれ、片方は低い天井の下へ、もう片方は水路沿いへ消えていた。
初日は追わなかった。
六本目と七本目の間にあった乾いた横穴へ戻り、床の傾きと空気を確認する。入口は一つ。奥行きは十歩ほどで、ガルが二度回っても新しい匂いを拾わなかった。
経路確認員の一人が簡易幕を張り、もう一人が濡れた靴を布で拭いた。千景は食事の前にも杭を見に行き、戻ってから冷えた米を少しずつ食べた。
俺は固い肉を噛みながら、ガルの器へ水を足した。
「寝られるのか」
「寝る」
千景は言ったが、地図から目を上げない。
「眠くなくても?」
「明日、眠くなるから」
見張りは二時間ずつ交代にした。俺とガルが最初、経路確認員二人が次、千景が最後。全員が同時に眠らないことだけを決めた。
頭灯を消すと、遠くの水音が大きくなった。
自宅裏では、目を閉じてもガルの呼吸が近くにあった。今はそれに、三人分の寝返りと寝袋の擦れる音が混じる。
眠れないわけではない。ただ、家の床とは違った。
ガルは横にならず、横穴の入口へ鼻先を向けていた。
交代の時刻まで、太鼓は鳴らなかった。
翌朝、七本目から先を調べ直した。
小宮の報告にあった割れ目の周囲には、緑色の繊維が引っかかっている。植物ではない。何本もの細い紐をねじった跡で、泥の上には獣の爪と裸足の跡が重なっていた。
千景が繊維を採取袋へ入れた時、奥から短い笛が響いた。
ガルが振り向く。
足音は、二方向から来た。
「杭の内側へ戻って」
千景が経路確認員へ言った。
獣に跨がったゴブリンが、低い通路から次々に現れる。七騎。大きな騎獣でもガルより一回り小さいが、牙の長さは普通の犬とは違った。
先頭だけが骨飾りのついた槍を持っている。
そいつが一番強い。
未来視に、槍の穂先が俺の左肩へ入る軌道が浮かんだ。
同時に、後ろの二騎が左右へ分かれる。
俺ではなく、黄色い杭と、その先へ下がる二人を見ていた。
強い個体へ踏み込む足を止めた。
「ガル、右を分けろ」
ガルが吠え、右側の三騎へ突っ込んだ。先頭の騎獣の鼻先へ牙を見せ、そのまま噛み合わず側道へ走る。三騎が反射的に追い、通路の幅で縦に伸びた。
残った四騎のうち、杭へ向かった一騎を先に切った。
騎手の胴が浮き、騎獣だけが勢いのまま横を抜ける。二騎目は千景の鋼糸へ前脚を取られ、泥へ倒れた。俺は騎手の首を落とし、起き上がろうとした騎獣の胸へ刃を入れた。
骨槍が横から来る。
刀の腹で流すと、腕まで重さが響いた。
強い。
けれど、黒鎧騎士ほどではない。
槍を引く前に柄を切り、騎獣の首元へ一歩入る。騎手が短刀へ手を伸ばしたところで、胸を突いた。崩れ落ちる騎手の下で、騎獣の前脚も切る。二つの体が泥へ倒れた。
残る一騎が逃げる向きを変えた。奥ではなく、標杭の外側へ回り込もうとする。
「左、戻ってくる」
千景の声と同時に、ガルが側道から飛び出した。
三騎をすべて倒したわけではない。騎手を落とされた獣が二体、奥へ逃げていく。その後ろで、一体だけが喉を裂かれて倒れていた。泥のついたガルが、残った騎手の腰へ横から噛みつく。
俺は騎獣の進路へ入り、脚を切った。
倒れた背から騎手が投げ出される。立ち上がる前に、ガルが前脚で押さえた。
最後まで動いていた騎手を切り、音が止まった。
騎手は七体とも倒した。騎獣は四体が泥に倒れ、三体が奥へ逃げている。
千景はすぐ戦利品を見なかった。標杭線へ退避させた二人の名前を呼び、返事と負傷を確かめる。二人とも怪我はなく、杭も折れていなかった。
それから、骨槍を持っていた騎手の首元へしゃがんだ。
牙を数本束ねた首飾りに、緑の紐が巻かれている。割れ目に残っていた繊維と同じ色だった。近くの壁にも、泥で描いた牙の印がある。
「さっきの笛で来たのか」
「たぶん。断定はできないけど」
「誰が吹いた」
「見てない」
千景は緑の紐を切り、別の袋へ入れた。
呪術師がいるのか、指揮をする別の個体がいるのかは分からない。逃げた三体を追えば、先にいる何かへ近づける。
俺は足跡の続く奥を見た。
千景は何も言わず、折れていない杭の泥を拭いている。
追わなかった。
二日目の夜は、戦った場所より二本戻った横穴で過ごした。
簡易食の袋を開ける音がやけに大きい。経路確認員二人が眠ったあと、千景と並んで入口側に座った。
「強いのから行かなかった」
「あいつが杭を狙ってたから」
「うん」
それだけ言って、千景は温めていない茶を飲んだ。
しばらくしてから、俺は聞いた。
「あれでよかったのか」
「戻ってから地図にする」
答えになっていないように聞こえた。
千景は膝の上の紙を折り直し、続けた。
「あの二人が無事で、杭も折れてない。今日は、それでいいよ」
横穴の入口で、ガルが鼻を鳴らした。
夜が明けるまで、笛も太鼓も聞こえなかった。




