第三十一話 通り過ぎた人【別視点・瀬尾航平】
黒い狼が、仮設受付の前を通り過ぎた。
瀬尾航平は記入しかけた入域票から顔を上げた。犬にしては大きすぎる身体の左肩へ、反射材のついた帯が巻かれている。鎖はない。その少し前を、黒い鞘の刀を背負った男が歩いていた。
受付の職員が止めない。
男の後ろには、細長い杭のケースを背負った女もいる。三人は入口前で立ち話をせず、黒い膜の向こうへ順に消えた。
「あれ、大月じゃない?」
小宮佐知が声を落として言った。
瀬尾も名前は知っていた。国内順位十八位。三週間前まで、一覧のどこにもいなかった名前だ。
「見るなとは言わないけど、追うなよ」
自分に言い聞かせる意味もあって、瀬尾は全員へ言った。
「俺たちは北の既知側坑。青印の終端まで。未踏部へ出ても入らない」
「罠を見つけても、追って解除しない」
小宮が続けた。
「盾が割れる前に言う」
平井岳は新品の盾を軽く叩いた。金属板の外側へ樹脂と合板を重ねた、今の四人が買える中では一番ましな物だ。
「割れる前じゃなくて、傷が増えた時です」
森川藍が救急袋の留め具を確かめながら訂正した。
「はいはい。傷が増えた時」
三人分の返事を聞いてから、瀬尾は入域票を受付へ渡した。
四人とも、地震から四日後にステータスが発現した。
それから三週間、自治体が確保したE級訓練迷宮へ通い、二度だけD級区画の救助補助へ入った。走り方、止まり方、負傷者を二人で運ぶ方法。戦う時間より、帰る練習のほうが長かった。
B級の翠牙洞で許可されたのは、調査済みの側坑だけだった。
入口から北へ折れた通路には、青い塗料の印が一定の間隔で残っている。床は浅い泥で、天井から水滴が落ちていた。
小宮が先頭でしゃがみ、細い棒で泥を探る。その後ろに平井、瀬尾、森川。訓練の時と同じ順だった。
「右、踏まないで」
小宮が言った。
理由は一拍遅れて出た。
「泥の色が違う。下に板がある」
平井が盾を前へ出したまま、左の壁へ身体を寄せる。瀬尾も同じ足跡を踏み、森川が最後に通った。
圧板の先には、腰の高さの穴が三つ開いていた。
小宮が落ちていた石を板へ投げる。
乾いた音と同時に、三本の木針が飛んだ。
平井の盾へ、軽い音を立てて刺さる。
「おい」
「人が踏む前に、どれくらい飛ぶか見たかった」
「俺の盾で?」
「避けると思った」
平井は針を抜いた。表面に浅い穴が三つ残ったが、先端は内側の金属板まで届いていない。
「使える」
「帰ったら記録してください」
森川が穴を指で確かめ、平井の腕と頬も見た。傷がないと分かると、救急袋から手を離した。
圧板を迂回し、青い印を三つ進んだところで、小宮が止まった。
今度は理由を言わない。
瀬尾が口を開く前に、曲がり角からゴブリンが飛び出してきた。
平井が半歩前へ出る。
石斧が盾へ当たった。訓練用の木剣より重い。それでも平井の足は下がらず、盾の縁で相手の腕を外へ押した。
開いた胸へ、瀬尾が槍を突き込む。
穂先が革を抜けた。手に返った重さに腕が止まりかける。引く時は一度ひねる。教わったとおりにしても、抜けるまでが長く感じた。
「左、もう一体」
小宮の短刀が、壁際から回り込んだゴブリンの手首を切った。鉈が泥へ落ちる。
平井が一体目を盾で押さえたまま向きを変え、二体目の進路を塞ぐ。瀬尾は槍を持ち直し、喉ではなく腹を狙った。
二度目は深く入りすぎた。
抜けない。
ゴブリンが柄を掴むより先に、小宮が膝の裏を蹴った。崩れたところへ平井の盾が落ち、森川が後ろから叫ぶ。
「瀬尾さん、槍を離して」
瀬尾は手を離した。
平井が盾で首元を押さえ、小宮が短刀を突き入れる。動かなくなってから、四人で槍を抜いた。
二体。
瀬尾は荒い息を整えながら、声に出した。
「平井、盾」
「針穴三つ。新しい割れなし」
「小宮」
「刃こぼれなし。前の青印まで戻れます」
「森川」
「負傷なし。魔力、未使用」
返事がそろった。
倒せた。
その事実を飲み込む前に、奥から足音がした。
一つ、二つではない。泥を踏む軽い音が重なり、その間に金属の擦れる音が混じる。
小宮が指を折り、途中でやめた。
「六。もっといるかも」
瀬尾は倒した二体を見た。奥へ踏み込めば、素材を拾えるかもしれない。もう一体倒せば、今日の報酬は増える。
黒い狼と刀の男なら、その数でも止まらないのだろうと思った。
「戻る」
言うと、平井がすぐ盾を入口側へ向けた。
「戻る」
小宮が復唱し、森川も同じ言葉を返す。
槍から血を拭う時間は取らなかった。倒した二体の位置だけ壁の青印へ記し、圧板の手前まで同じ足跡をたどる。
追ってくる音は、曲がり角の向こうで止まった。
誰も走り出さなかった。走れば泥で転ぶ。訓練で何度も言われたことを、四人とも守った。
黒い膜を出た時、あの三人はまだ戻っていなかった。
瀬尾は入域票の帰還欄へ時刻を書き、平井の盾に残った三つの穴も報告した。職員は盾を裏返し、使用停止の札ではなく、帰還後点検の黄色い札を付ける。
二体倒したことより先に、四人の名前へ帰還済みの印が押された。
瀬尾はその印をしばらく見ていた。
通り過ぎていった男の順位は、まだ遠い。
それでも今日は、誰の名前も欠けていなかった。




