第三十話 ゴブリン
最初に飛んできたのは、刃物ではなかった。
拳ほどの泥の塊が、千景の頭へ向かってくる。身体を傾けて避けた千景の横を抜け、白い茸の傘へ当たった。
薄緑の粉が、壁際で一気に膨らむ。
「右へ」
千景が短く言い、息を止めて泥蔓を槍の石突で押さえた。沈んでいた蔓が二本、靴を狙って跳ね上がる。その先を鋼糸が絡め取り、地面へ縫い止めた。
俺は天羽々斬を抜いた。
暗がりから出てきたのは八体だった。背丈は俺の胸より低く、粗末な革と板を身体へ巻き、欠けた鉈や石斧を持っている。先頭の二体だけが通路へ出て、残りは奥に組まれた木柵の後ろから石を投げていた。
一体目が鉈を振り上げる。
振り下ろされる前に、胴を斜めに断った。
遅い。
二体目の石斧は刃を合わせる必要もなく、踏み込んだ肩ごとすれ違いざまに切れる。刃に返ってきた抵抗は、骨兵より軽かった。
けれど、倒れた二体の後ろで泥が弾けた。
残り六体のうち三体が木柵を越え、左右へ散る。一体は千景の背へ回り、ケースから覗く黄色い杭へ鉈を向けた。
千景は泥蔓を押さえたまま動けない。
俺は杭を狙った個体の前へ入り、横薙ぎで首を落とした。倒れた身体が千景へ当たりかけ、足で向きを変える。
ケースが揺れたが、杭は折れていない。
右から回った二体には、ガルが先に届いていた。
一体の手首を噛んで石斧を落とし、そのまま振り回さず地面へ押し倒す。もう一体が背中へ鉈を打ち込もうとした時だけ身体を沈め、空振りした腕へ横から噛みついた。
俺が近づく前に、二体とも動かなくなった。
残り三体は木柵の向こうにいた。
柵に見えたものは、丸太を横へ渡し、割った板を縦に並べただけの粗い作りだった。中央に隙間があり、その奥で短弓を引く影が見える。
矢が放たれるより先に、次の軌道が視界の端へ浮いた。
頬の右を通り、背後の千景へ届く。
俺は左へ半歩ずれ、丸太の端へ天羽々斬を振り下ろした。
木なら切れる。
そう判断するまでに、千景へ声をかける間はあった。
それでも、口より先に腕が動いた。
太い丸太が斜めに落ち、縦板ごと三体の足元を崩した。短弓を持った個体が前へ転がる。胸を突いて一体、起き上がろうとした二体を続けて切った。
八体目の首が泥へ落ちるまで、長くはかからなかった。
その直後、壁の向こうで水の音が大きくなった。
「在真さん、下がって」
丸太のあった場所から、濁った水が噴き出した。
木柵ではなかった。奥の水路を支え、こちらへ流れ込む水を板の裏へ逃がしていた。支えを失った板が連続して外れ、泥水が足首へぶつかる。
俺は倒れたゴブリンを踏み越えて戻った。
水は右の窪みへ流れ込み、千景が押さえていた泥蔓を根から浮かせる。解けた蔓が流れに乗り、白い茸の群れへ絡んだ。
傘がいくつも潰れた。
薄緑の粉が、来た道へ広がっていく。
千景は袖で口元を覆いながら、鋼糸を切った。残った糸を入口側の支柱へ回し、身体ごと引く。
「その板、起こせる?」
「できる」
「切らずに」
俺は刀を鞘へ戻した。
泥へ沈みかけた板を両手で持ち上げる。水を吸った板は見た目より重かったが、持ち上がらないほどではない。千景が下へ石を噛ませ、流れの向きを左へ変える。
ガルは水際を往復し、流れてきた泥蔓を前脚で踏んだ。蔓が絡もうとするたび爪で押さえ、俺たちの足元へ届かせない。
一本目を固定し、二本目を斜めに立てる。崩れた水路の底へ落ちていた平たい石を並べ、板の隙間へ泥を詰めた。
戦闘より時間がかかった。
水の勢いが弱まっても、毒胞子はすぐには消えない。千景は来た側の壁へ赤い布を結び、その下に油性ペンで書いた板を打ちつけた。
毒胞子流入。現在通行不可。
「入口へは戻れる」
千景は粉の広がった道を見たまま言った。
「でも、ここはもう、ほかの人が通れる道として残せない」
「杭は?」
「無事。でも、来た道は使えなくなった」
俺は、白い粉の上へ目を落とした。
八体とも倒れている。俺にもガルにも新しい傷はなく、千景が背負った杭も全部無事だ。それなのに、背後には毒胞子が広がっていた。
俺は泥のついた手袋で、固定した板をもう一度押した。
木柵に見えた。切れば早いと思った。実際、早く終わった。
千景は赤い表示を確かめてから、粉の届いていない奥の硬い地面へ二本目の杭を置いた。
「ここを次の基準点にする。帰りは左の高い縁。足幅がないから、ガルは最後」
黄色い光が溝へ入った。
千景は立ち上がり、俺の背負い袋を指した。
「預けた二本、まだ持てる?」
「持てる」
「じゃあ進む。次に木を切る前は、三秒でいいから待って」
三秒で足りるのかとは聞かなかった。
ガルが濡れた前脚を一度振り、俺の横を通った。泥が登山靴へ飛ぶ。
倒した数より、背後の赤い布のほうが目に残った。




