第二十九話 奥多摩へ
四月二十五日、午前六時五十分。
ガルは玄関に置いた黒い肩帯を見て、外へ続く扉を見た。
「つけないなら、今日は車に乗れない」
命令ではなく、外へ出る条件として言った。
ガルは鼻先で肩帯を押し、俺の手から一度落とした。けれど玄関へ座ったまま動かない。拾い直して近づけると、今度は前脚で払わなかった。
首輪のように首へ巻かず、左肩から胸の前へ斜めに通す。毛を挟まない位置で留め具を閉じた。強く引けば外れる。文字と反射材が増えただけで、ガルの能力は何も変わらない。
ガルは身体を震わせ、帯を外そうと後脚を上げた。二度掻いても取れず、俺を睨む。
「帰ったら外す」
低く鼻を鳴らしたところで、対魔物輸送車が来た。
昨日決めた規則どおり、俺とガルが後部区画、千景は運転席側の同乗席へ乗る。二重扉を順に閉め、耐魔力隔壁が収納されていることを確認してから出発した。
車内には、基地から借りた装備箱が固定されていた。
中には耐切創インナーと厚底の登山靴、頭灯と予備電池、それに空の回復薬ポーチが入っている。どれも試供品で、使い切る物以外は帰還後に状態を報告することになっていた。
回復薬は入っていない。
自宅裏で手に入れた二本は、もう使い切った。負傷した時は止血と撤退が先になる。
俺は登山靴の紐を締め、天羽々斬の固定帯を確かめた。預かった黄色い杭二本は、刀と逆側の背負い袋へ入れてある。
車体が登り坂へ傾いた。止まるたびにガルが顔を上げる。端末の経路図には車の現在地も表示されていた。片側だけ通れる道と二つの検問を過ぎ、車は封鎖車両用の脇道へ入っていた。一般車両の列とは分かれたらしい。
窓のない車内では景色が見えない。カーブのたびにガルの爪が床を擦り、俺の膝へ体重が寄る。
二時間近くして、車が止まった。
扉の向こうは、旧採掘場の資材置場だった。錆びたベルトコンベアと、半分崩れたコンクリート壁。その手前に仮設の受付と洗浄槽が置かれている。
千景は先に車を降り、六本の杭を入れた細長いケースを背負った。短槍と鋼糸もある。昨日の紙地図だけを持っていた時より、身体の左右へ道具が増えている。
「肩帯、つけたんだ」
「外へ出る条件だって言った」
「帰ったら外してあげてね」
ガルは千景の横を通り過ぎ、地面の匂いを取った。
受付で書いたのは、俺、千景、主契約従魔ガルの入域記録と、午後四時の前進停止予定だった。職員は俺の名前を見て一度顔を上げたが、国内十八位を認定する印はどこにもなかった。
試供装備の貸出票と、入域記録へそれぞれ署名した。
旧採掘場の金網からダンジョン入口まで、四十七メートル。千景は歩数と距離計を見比べ、黒い膜の手前で一本目の杭を地面へ打った。
杭の溝へ淡い黄色の光が入る。
「ここが地上側の安定地点。帰路標は、まだ歩いてない中へ先回りして置けないから」
「二本目から中か」
「置けるところまで、まず歩く」
黒い膜を越える。
空気が湿り、土と腐った木の匂いへ変わった。元の採掘坑に似た支柱が続いているが、壁の一部は緑色の根に覆われ、天井の高さも一定ではない。
入口から百歩ほどは、調査済みの青い印が壁に残っていた。
千景が前、俺が中央、ガルが最後尾を歩く。千景は早く進まない。床の沈み、支柱の傾き、靴底へつく泥を一つずつ確かめる。
最初の分岐が見えたところで、千景が片手を上げた。
左の壁際に、白い傘の茸が群れている。傘の裏が呼吸するように開閉し、そのたび薄い緑の粉が落ちた。
右の泥には、蔓が沈んでいる。葉はない。靴が近づいた時だけ、細い先端がこちらへ向いた。
その奥から、金属を叩く音がした。
一つではない。
ガルが前へ出て、鼻先を低くした。
暗がりの中で、小さな目がいくつも光る。
俺は天羽々斬の柄へ手を置いたが、まだ抜かなかった。
千景が二本目の杭を打てる場所は、毒胞子茸と泥蔓の向こうにあった。




