第二十七話 地図を売る人
千景が指定したのは、峰守町から車で四十分ほど離れた山岳救助の共同詰所だった。
午前の現場から戻ったばかりらしく、駐車場の隅で長靴の泥を落としている。薄い上着の背中まで土が跳ね、右手には短槍、腰には細い鋼糸を巻いた器具があった。
「ごめん。十分遅れた」
「俺が来たのも今だ」
ガルは連れてきていない。一般の車では運べず、俺一人なら自転車と電車で来られた。ガルは家の縁側で、黒い肩帯と一緒に留守番を選んだ。
千景は長靴を脱ぎ、詰所の一番奥へ俺を通した。
壁一面に地図が貼られている。山道や林道だけでなく、地震で崩れた斜面や、新しく見つかった小型迷宮の入口まで描き込まれていた。赤い線と青い線が重なり、端には手書きの数字が並んでいる。
机の上では、小さなプリンターが紙を吐き出している。
「売ってるのか」
「うん。紙とデータ、両方」
千景は乾きかけの地図を取り、机へ広げた。
「自治体の測量もやってる。あとは救助と、迷宮入口までの案内。中の地図だけは、自分で歩いて確かめたところしか出してない」
料金表がファイルに挟まっていた。地図一枚だけなら高くない。現地同行は時間と危険度で変わり、救助になれば別の見積もりになる。
俺は同行料金から、地図一枚の欄へ目を戻した。
「案内なしで入るやつも、これを買うのか」
「そういう人に使ってほしくて始めた。企業の隊しか知らない経路じゃ、外から来た人は困るから」
新しい紙が出てきた。千景は端を持って取り上げ、俺の前の地図へ重ねず、空いた机へ置く。
「専属の案内を雇えなくても、戻る道くらいは買えるようにしたい」
今朝の崩落路の地図は、避難用として無料で出したという。千景が足元の箱へ料金表をしまう時、折れた杭が三本と、泥水に浸かった携帯端末が見えた。
「修理代も、かかりそうだな」
「うん。全部ただで配ってたら、こういうのを直す金までなくなる」
インクや耐水紙、車の燃料、鋼糸と、地図を一枚作る前から金がかかる。俺は広げられた紙の、青い線の先を見た。
「地形が変わったら」
千景の指が止まった。
「変わったら、調べ直す」
「その前に入った人は」
「古い版のまま入る人が出る。買った人には変更を送れるけど、紙を譲られた人までは追えない」
答える声は変わらない。それでも、地図の角を押さえる指だけが強くなった。
今のやり方で足りているとは、本人も思っていない。
「地震の日、救助車両が一台、崩落前の情報で山へ入った」
千景は壁の古い道路図を見た。
「現地ではもう道がなくて、引き返すしかなかった。入口近くの負傷者を運び出せたのは、その翌日。その時に私のステータスが出た」
「戦ったからじゃないのか」
「違う。人を引いて、戻れる場所へ杭を打った」
千景は棚から、写真に写っていた黄色い杭を一本出した。
長さは俺の前腕ほど。先端に泥が残り、側面には細い溝が刻まれている。
「〈帰路標I〉。私が実際に歩いた場所へしか置けない。杭同士をつなぐと方向と距離、破損が分かって、その間の小さな迷宮変動を弱める」
「道を作る能力じゃない」
「うん。八本まで。九本目を置けば、最初の一本が消える。大きく構造が変われば、八本全部あっても負ける」
杭を棚へ戻すと、千景は腰の器具から鋼糸を少しだけ引き出した。
「〈緊急牽引I〉は、この糸を掛けた相手を少しだけ引ける」
糸を巻き戻しながら、千景は俺と机の間へ目を落とした。
「人を引く時は、〈導線視I〉も使う。見えるのは目の前の地形と、人が数秒後に通る線だけだけど。壁の向こうや、その先に何が起きるかまでは分からない」
俺の未来視鑑定とは違う。
敵が次に何をするかではなく、人がどこを通ればぶつかるかを見る。戦うためにも使えるが、それだけの能力ではなかった。
「三週間で取ったのか」
「一度にじゃない。道路救助のあとに一つ、小さい迷宮を見てまた一つ。鋼糸の訓練も続けてたら、順に増えた」
強い敵を倒して、一気にLvを上げた俺とは違う時間が流れている。
千景は奥多摩の地図を広げた。旧採掘場の入口から、確認済みの坑道が途中まで青く塗られている。その先は白い。
「四月二十五日に入る。仕事は、入口から旧側坑までの通行経路確認。ボス討伐じゃない」
「俺に頼む理由は」
「未確認区画の危険度が上がった。私は帰路を作れるけど、正面から止める力が足りない」
「俺が倒せばいい」
「倒したあと、後ろの人が通れなくなる壊し方は困る」
千景は俺を助けた山道でも、入口の場所を聞かなかった。ガルを初めて見た時も、何を倒したのかより、次に帰る時刻を聞いた。
今は、俺の順位ではなく、壊すものを見ている。
「条件があるんだな」
「ある。報酬も、指揮権も、撤退時刻も先に決める」
「聞く」
俺が答えると、千景は地図の白い部分を折って隠した。
「今日は入口まで。中へ入る約束は、条件が決まってからにして」
強い人を探しているのではないと、昨日の文面にあった。
目の前にいるのも、俺の帰りを待つだけの人ではなかった。




