第二十四話 洗浄済みの上着
午前九時五十八分、門の外に黒い車が一台止まった。
東條は車を離れた空き地へ移し、そこから一人で歩いてきた。紺色の上着に黒い鞄、首から下げた身分証。髪は低い位置で束ねている。画面越しに見せられた顔写真より、目の下の色が濃かった。
俺は門を開けなかった。
内側に立ち、身分証の番号と、昨日メモした照会番号を見比べる。東條は急かさず、道路側で待っていた。
「確認しました」
「ありがとうございます。昨日お伝えした通り、敷地へは入りません」
ガルが俺の後ろへ来た。
黒牙魔狼へ進化してから、座っていても頭が俺の胸近くまである。門扉の隙間から鼻先を出さず、東條の鞄と靴、それから停めた車のほうへ順に匂いを取った。
東條の視線が一度だけガルの牙へ落ちた。半歩下がりそうになった足を、その場で止める。
「その個体については、あとで確認させてください」
「ガルのことも、今日聞くのか」
「はい。上着をお預かりしてから、話せる範囲で聞かせてください」
東條はそれ以上聞かず、門の外で待った。
俺は玄関脇へ置いていた厚い袋を持ち上げた。二重にした外側の袋には、油性ペンで日付だけを書いてある。
「洗ってある。ついたのは三月二十五日」
「開けずに受け取ります」
東條は鞄から透明な収納箱を出し、道路へ置いた。蓋を開けたまま二歩下がる。
俺が門の隙間から袋を箱へ入れると、東條が蓋を閉じ、四辺の留め具を順に固定した。
「付着した相手は分かりますか」
「スケルトンナイト。大剣と黒い鎧を持ってた」
「場所は」
「言わない」
「分かりました」
東條は手元の紙へ書いた。聞き直さず、場所の欄へ一本線を引く。
「接触した時、皮膚へ直接つきましたか」
「上着と軍手。指に赤い血はついたけど、黒いのが皮膚についたかは分からない。眼科では感染らしい異常は出てない」
「現在まで、袋の膨張、発熱、臭いの変化、自力で動くような反応は」
「ない。乾きにくかっただけだ。洗って、乾かして、袋に入れた」
東條はまた紙へ書き込む。黒い液体が動いたとか、生きているとか、こちらの答えを誘う言い方はしなかった。
「洗浄済みですので、分析に必要な成分が残っていない可能性があります。これは事件の証拠品ではなく、参考試料として受領します。結果が出なくても、大月さんの申告が虚偽になるわけではありません」
「返ってくるのか」
「切り取らずに済めば返却できます。染みのある部分を使う場合は、残りを返すか、こちらで処分するかを先に確認します」
その説明のあとで、東條は受領票を門の隙間から差し入れた。
受領物は、洗浄済み上着一着。付着物はスケルトンナイト由来との本人申告。発生場所は非開示。検査項目には、組成、魔力残留、既知試料との比較とある。
俺の住所や、家の裏という言葉は書かれていなかった。
「これで政府は、俺がスケルトンナイトと戦ったことを知る」
「正確には、大月さんがそう申告し、その時に着用していた上着を参考試料として渡したことを記録します。検査前に、事実を増やしません」
「迷宮を持ってるとは」
「聞いていません」
「中へ入ったとも」
「スケルトンナイトとの接触方法は不明です」
東條は紙面の余白へ、その二つも書いた。知らないことを、知らないまま残すための記録らしい。
ガルが立ち上がった。
東條の肩がわずかに固くなる。ガルは門ではなく、収納箱へ鼻を向けた。自分も嗅いだことのある匂いが、薄く残っているのだと思う。
「名前は、ガル」
「ガル。大月さんと一緒に活動している個体、と記録しても」
「俺の主契約従魔だ。飼ってるわけじゃない」
東條のペンが止まった。
「主契約従魔という区分を、こちらはまだ法令上持っていません」
「だから別の担当を呼ぶのか」
「はい。ガルさんを危険物や野生動物の区分へ押し込む前に、契約状態と本人の意思を確認する必要があります」
さんをつけた。
ガルには通じていない。東條も、通じたとは思っていない顔をしている。
「明日、都内西部の臨時基地で、神崎という現場担当者を交えて話せます。片道は車で二時間ほどです。ガルさんを置いてくることは条件にしません」
「車へどう乗せる」
「そこから決めます。こちらの都合だけで檻や鎮静を選ばない代わりに、一般の車両と同じ扱いにもできません」
その言い方なら、聞く価値はあった。
「常設で所属する話なら、行かない」
「常設所属を断る場合の条件も、明日扱います」
東條は収納箱を持ち上げた。重さより、地面へ置いていたせいで底についた砂を気にし、鞄から布を出して一度拭く。
「午前八時に、こちらへ迎えを出してもよろしいですか」
「車両の仕様を先に送ってくれ」
「一時間以内に送ります。承諾は仕様を確認してからで構いません」
東條は最後まで門を越えなかった。
車が見えなくなってから、俺は受領票を家の中へ持ち込んだ。押し入れにあった黒い袋の場所だけが空いている。
染みの残った上着は、もう俺の所持品ではない。
代わりに、何を話し、何を話さなかったかが、一枚の紙になって手元へ残った。




