第十九話 戻る理由
朝、布団から起きるのに時間がかかった。太腿へ力を入れると、黒鎧騎士の膝が当たった場所が痛む。肩も重い。口の中は腫れていた。
鏡には、頬へ薄い青痣が残っている。冷蔵庫から保冷剤を出した。扉を閉める前に、卵の入った容器が傾く像が見えた。手を伸ばす。
何も起きない。一秒ほど遅れて、冷蔵庫の棚が軋んだ。容器が本当に傾いた。押さえる。
未来視は、戦う時だけ働くわけではないらしい。鍋の湯が跳ねる場所。流しへ置いた箸が転がる方向。ガルが水を飲んだあと、顔を上げる瞬間。
見ようとすれば、短い先が重なる。便利だと思う前に目が疲れた。ガルの傷を洗う。肩の毛を分けると、黒鎧騎士の大剣で切れた皮膚が赤くなっていた。
深くはない。右前脚には腫れが残っている。触れる前に、ガルが脚を引く像が見えた。手を止める。
少し遅れて、実際のガルも脚を引いた。
「そこ、まだ痛むか」
耳だけがこちらを向く。無理に押さえず、濡らした布を近くへ置いた。ガルはしばらく見てから、自分で前脚を寄せた。洗い終わった迷宮装備は、居間へ並べた。
手袋は縫い目を確かめ、膝当てに巻いたテープも押さえ直す。短くなったロープをその隣へ置き、天羽々斬は刃を拭いてから壁際へ立てた。
以前より重くなっているはずなのに、手から離す時だけ軽く感じた。机の端には、大学から届いた封筒がある。引っ越してから、ずっと開けていなかった。糊を剥がす。
学生証の受取方法。履修登録の期限。地震の影響で、最初の説明会はオンラインへ変更すると書かれていた。期限をスマートフォンへ入れ、ログイン用の紙も撮っておく。
昨日の帰還後、鳴海へ送ったメッセージが上に残っていた。
『戻った』
夜のうちに返事はなかった。今朝になって、一件来ている。
『今日、近くの通行止めを見に行く。起きてたら返して』
『起きてる』
送る。
十分ほどして、既読になった。
昼前、家の前で車が止まる音がした。ガルが先に立つ。勝手口ではなく、玄関へ向かった。
俺も立ち上がる。身体の痛む場所が、一度に分かった。玄関を開けると、鳴海が門の外にいた。反射ベストのポケットへ、黄色いテープと折り畳んだ地図が入っている。
鳴海の視線が俺の頬で止まった。
「また怪我してる。昨日の『戻った』だけじゃ分からないよ」
「冷やしてる。今日は休むつもりだ」
その後ろで床板が鳴り、ガルが玄関まで来た。鳴海の右足が半歩下がる像が見えた。
実際には、先に手が地図の入ったポケットへ触れた。それから半歩下がる。
「動かないで」
俺へ言ったのか、ガルへ言ったのか分からなかった。ガルは止まらない。俺の前へ出て、玄関の上がり框へ前脚を置く。喉は鳴っていない。
鼻先だけが鳴海へ向いている。
「ガル」
呼ぶと、片耳がこちらへ動いた。戻れとは言わなかった。ガルも、それ以上は出なかった。鳴海はすぐに近づかない。
門と車と玄関を一度ずつ見た。
「狼だよね」
「たぶん」
「たぶんで家に入れたの?」
「一緒に戻ってきた」
鳴海の眉が少し寄る。
「この前、一人じゃないって言ってたのは、ガルのこと?」
「そうだ」
しばらく返事がなかった。ガルが鼻を鳴らす。鳴海はしゃがまないまま、視線だけを肩へ動かした。
「ガル、怪我してる」
「さっき洗ったけど、そこはまだ触られたくないらしい」
ガルが身体の向きを変え、肩の傷が鳴海からも見えるようになった。鳴海は手を伸ばさず、少し首を傾けて傷を見る。
鳴海は門を開けなかった。ガルとの距離を残したまま、ポケットから紙を一枚出す。周辺道路の簡単な図だった。
「北側の林道は、落石でまだ通れない。救急車を呼ぶ時は、南側から入れるって伝えて」
俺が頷くと、鳴海は折りかけた地図から目を上げた。
「今、呼ぶ?」
「いや。今日は家にいる」
言う前に、鳴海が息を吐く像が見えた。実際にも同じだった。
「しばらくは、そうしててほしいけど」
鳴海は俺が庇っている脚を見ていた。
「次は、ちゃんと動けるようになってから行く」
「次も行くんだ」
俺は頷いた。黒い通路の奥には、開いた扉がある。スケルトンナイトより強いものを倒した。それでも、その先が残っている。
怖くないわけではない。黒鎧騎士に首を掴まれた感触は、まだ皮膚にある。死にたくない。だから強くなるだけだと思っていた。
今は、それだけではなかった。
「先に、もっと強いのがいる」
鳴海は待った。
「倒せるようになりたい」
口にすると、胸の奥へ収まらず、少し浮いた。
「強くなって、まだ先へ行きたい」
鳴海は道路図の端を押さえたまま、俺を見ていた。
「そんなに、先が気になるんだ」
頷くと、彼女は俺の顔から足元へ目を落とした。すぐには何も言わず、折り目を指でなぞった。
「次は、入る前に戻る時刻を送って。過ぎたら見に行く」
「分かった。戻ったら、具合も一緒に送る」
鳴海が頷くより先に、ガルが鼻先を下げた。玄関から門のところまで歩いてくる。鳴海の身体が固くなった。ガルは門を挟んだまま、道路図の匂いを嗅いだ。
黄色いテープの巻かれた指にも鼻を近づける。それだけで離れた。
「噛まない?」
「今は」
「今はって、何」
鳴海が地図を折り直す。車へ戻る前に、玄関の中を見た。机に広げた大学の書類が見えている。
「もう大学も始まる頃か」
「説明会はオンラインになった。今はそのほうが助かる」
俺が机へ目をやると、鳴海も広げた書類を見た。それ以上は聞かず、車へ乗って南の道へ曲がる。音が消えてから、ガルが門を離れた。
家へ戻る。大学の書類を封筒へ戻さず、机の上へ重ねた。その隣に、次に入る時刻を入れたスマートフォンを置く。ガルは勝手口の前へ行き、傷のある肩を下にしないよう横になった。




