第七話 黄金の都への道
第七話 黄金の都への道
第一章 地図にない道
「先生、地図にない都へ行くには、どうすればよいのでしょう」
イブン・ジュザイイが尋ねると、イブン・バットゥータは食べかけのパンを置いた。
「地図を捨てることだ」
「それでは、道がわかりません」
「地図にないのだから、地図を見てもわからんだろう」
「では、誰に道を尋ねればよいのでしょう」
「道を知っている者だ」
ジュザイイは、筆を置いた。
「先生。今日は、ずいぶんと答えが役に立ちませんね」
「旅というものは、役に立たない答えをいくつも集めて、ようやく役に立つ答えにたどり着くものだ」
老人は、残りのパンを口へ運んだ。
二人が滞在していた港町には、遠方から来た商人たちが集まっていた。船には香料、絹織物、陶器、宝石が積まれ、荷を運ぶ者たちの声が絶えなかった。
そのなかに、一人の商人がいた。
年齢は四十ほど。日に焼けた顔に細い髭を生やし、腰には使い込まれた革袋を提げている。男は、バットゥータが遠い国々を旅してきたと聞くと、食事の席へ近づいてきた。
「あなたが、イブン・バットゥータ殿ですか」
「そう呼ばれることもある」
「東方の大国へ行かれたと聞きました」
「行った」
「元の皇帝が治める国へも?」
「その国にも行った」
商人は身を乗り出した。
「では、黄金の都をご存じでしょうか」
バットゥータは、すぐには答えなかった。
「黄金の都とは、どこのことだ」
「東方の、皇帝の権威が及ぶ土地にあるという都です。城壁は高く、門は金で飾られ、街路には商人があふれ、倉庫には世界中の財宝が集められているといいます」
「ずいぶんと立派な都だな」
「ええ。しかも、その都へ至る道は、地図に記されていないそうです」
ジュザイイは、商人の顔を見た。
その話は、どこかで聞いたことがある気がした。
黄金の都。
地図にない道。
誰かが語り、誰かが聞き、誰かが書き残した話。
そして、その話を裏づける確かな記録は、どこにも見当たらない。
「その都を、あなたは見たのか」
バットゥータが尋ねた。
商人は、わずかに目をそらした。
「私は、見ておりません」
「では、誰が見た」
「私に話してくれた者がいます」
「その者は?」
「さらに別の者から聞いたそうです」
老人は、ジュザイイを見た。
ジュザイイは黙っていた。
三人の証言者がいても、商人本人を見た者がいなかった前話の事件が、頭をよぎった。
「その話を、どこで聞いたのだ」
ジュザイイが尋ねた。
「西方の市場です」
「誰から?」
「名は覚えておりません」
「その者は、黄金の都を見たのですか」
商人は首を振った。
「それは、わかりません」
バットゥータは笑った。
「なるほど。都を見た者はわからず、道を知る者もわからず、話の始まりもわからない。だが、黄金だけは、ずいぶんと確かに輝いているらしい」
商人は、困ったように笑った。
「それでも、都が存在しないとは言い切れないでしょう」
「そのとおりだ」
老人は、あっさりとうなずいた。
「存在しないと証明できないことと、存在すると証明できることは、別だからな」
ジュザイイは、その言葉を書き留めた。
黄金の都。
地図にない道。
そして、誰も始まりを知らない話。
その夜、彼は初めて、旅の目的地そのものが記録の謎になる可能性を考えた。
第二章 黄金は誰のものか
翌朝、商人は再び二人のもとを訪れた。
今度は、革袋から古い紙片を取り出した。
紙は折り目だらけで、端が黒ずんでいた。文字はアラビア語で書かれていたが、筆跡は一定していない。途中から別の筆で書き足されたような箇所もあった。
「これをご覧ください」
商人は紙片を差し出した。
「黄金の都について記されたものです」
ジュザイイが受け取ろうとすると、商人は一瞬、紙を引いた。
「ただし、丁寧に扱ってください。私の手元にある、唯一の写しです」
「原本は?」
「ありません」
「誰が写したのですか」
「それも、わかりません」
ジュザイイは、思わずバットゥータを見た。
老人は肩をすくめた。
「わからないことが、ずいぶんと多い紙だな」
「だからこそ、価値があるのです」
商人は言った。
「確かな記録がないからこそ、この紙片が重要なのです。黄金の都の存在を示す、唯一の手がかりかもしれません」
ジュザイイは紙片を広げた。
そこには、短い文章が書かれていた。
東方に、皇帝の命令が届かぬ都がある。
都の門は黄金で飾られ、道は三つの川を越える。
その道を知る者は、帰還したのち、二度と同じ道を語らない。
ジュザイイは、最後の一文を読み返した。
「帰還したのち、二度と同じ道を語らない……」
「奇妙でしょう?」
商人は言った。
「なぜ、語らないのでしょう」
「都の場所を隠すためではないでしょうか」
「それなら、最初から話さなければよいのでは?」
商人は、口をつぐんだ。
バットゥータは紙片をのぞき込んだ。
「この文章は、いつ書かれたものだ」
「古いものです」
「いつごろ?」
「おそらく、元の皇帝が栄えていたころかと」
「おそらく、か」
老人は紙片を裏返した。
裏には、薄い線がいくつも残っていた。文字を書いた跡なのか、別の紙に重ねた際についた痕なのか、すぐには判別できない。
「この紙には、何度も文字が書かれていたように見える」
ジュザイイが言った。
「ええ。古い写しですから」
「古い紙であることと、古い話が書かれていることは、同じではありません」
商人の顔から、笑みが消えた。
「あなたは、この紙が偽物だとおっしゃるのですか」
「いいえ。まだ、何もわかりません」
ジュザイイは慎重に紙片を戻した。
「ただ、紙の古さだけで、書かれた内容まで古いと決めることはできません」
バットゥータは、満足そうにうなずいた。
「よい答えだ。古い紙に新しい嘘を書くこともできる。新しい紙に古い話を書くこともできる」
「では、この紙片は何を証明するのでしょう」
商人は尋ねた。
「少なくとも、誰かが黄金の都について書いたことは証明する」
老人は答えた。
「だが、その都が存在したことまでは証明しない」
商人は紙片を革袋へしまった。
「それでも、私はその都を探します」
「なぜだ」
「見つければ、すべてがわかるからです」
バットゥータは、しばらく商人を見つめていた。
「いや。見つけたものが何であれ、お前はそれを黄金の都だと呼びたくなるだろう」
商人は何も答えなかった。
彼が立ち去ったあと、ジュザイイは記録の余白に書いた。
人は黄金を探すとき、黄金があるという証拠を集める。黄金がないという証拠は、道端に置き去りにする。
その一文を、彼は老人に見せなかった。
第三章 三つの道
商人が持ち込んだ紙片には、三つの川を越える道が記されていた。
翌日、ジュザイイは港に出入りする商人や船乗りたちに尋ねて回った。
東方へ向かう道について。
大河を越える道について。
元の領土へ入る道について。
そして、黄金の都について。
返ってきた答えは、見事なほど一致しなかった。
ある船乗りは、東方へ行くには大河を二つ越えなければならないと言った。
別の船乗りは、三つだと言った。
ある商人は、黄金の都は海の向こうにあると言った。
別の商人は、山を越えた先にあると言った。
さらに一人の老人は、都はかつて存在したが、すでに滅びたのだと語った。
「では、なぜ地図にないのでしょう」
ジュザイイが尋ねると、老人は笑った。
「滅びた都を地図に残す必要があるのかね」
「歴史を知るためには、必要かもしれません」
「歴史を知りたい者は、地図より墓を掘ることだ」
老人はそう言い残し、去っていった。
夕方、ジュザイイは集めた証言を机に並べた。
三つの川。二つの川。
海の向こう。山の向こう。
現存する都。滅びた都。
どの証言も、別の証言と矛盾していた。
「先生。これでは、道を決められません」
「決める必要があるのか」
「黄金の都を探すのであれば」
「誰が探すと言った」
ジュザイイは、言葉に詰まった。
「商人が探すと言っていました」
「ならば、商人に任せておけばよい」
「先生は、興味がないのですか」
「あるとも。人間が何を信じるのかには、いつだって興味がある」
バットゥータは、証言の紙を一枚ずつ眺めた。
「この者は、都を見たと言っていない。この者は、都が滅びたと聞いた。この者は、道を知る者から聞いたという。誰もが何かを語っているが、誰一人として、同じ場所を指していない」
「それでも、三つの川という言葉は何度も出てきます」
「同じ言葉が出てくることと、同じ事実を示していることは違う」
老人は紙を置いた。
「三つの川がある場所など、世界にはいくつもある。人は、似たものを見つけると、すぐに結びつけたがる」
ジュザイイは、証言をもう一度読み返した。
たしかに、三つの川という言葉は共通していた。
だが、川の名前は一つも書かれていない。
方角も、距離も、旅にかかる日数も、証言ごとに異なっていた。
「先生。黄金の都は、最初から一つの都ではなかったのかもしれません」
「どういう意味だ」
「別々の土地の話が、いつの間にか一つの都の話にまとめられたのではないでしょうか」
老人は、しばらく黙っていた。
「あり得るな」
「では、誰がまとめたのでしょう」
「それを知るには、話の始まりを探さねばならん」
「その始まりが、どこにもないのです」
「だから、探す価値がある」
バットゥータは立ち上がった。
「ただし、見つからなかったからといって、都が存在しなかったと決めるな。見つかったからといって、それが探していた都だとも決めるな」
ジュザイイは、深くうなずいた。
地図にない道を探すことは、地図を信じないことではない。
地図が何を示し、何を示していないのかを知ることだった。
第四章 古い書付の傷
その夜、ジュザイイは荷物の奥から、前の島で手に入れた古い書付を取り出した。
削られた名前。
その近くに残る、小さな傷。
灯火の下で、彼は紙片を慎重に広げた。
前話までに、何度も読み返した文章がある。
法官は衣服を命じた。
人々はうなずいた。
翌日、人々は以前と同じ姿で現れた。
そして、その下には別の筆跡で、問いが残されていた。
命令に従わなかったのは、人々か。
それとも、命令の意味を理解したうえで、従う必要がないと判断した人々か。
ジュザイイは、黄金の都についての紙片を隣に置いた。
一方は、名前が削られている。
もう一方は、書いた者の名も、書かれた時期も、はっきりしない。
どちらも、確かな説明を欠いていた。
だが、彼は二つの紙片に共通点があるように感じた。
それは、書かれている内容ではなかった。
どちらにも、読む者が答えを補いたくなる空白がある。
名前が消されていれば、誰が消したのかを知りたくなる。
都の場所が書かれていなければ、どこにあるのかを探したくなる。
人は空白を見つけると、それを埋めたくなる。
そして、埋めた答えを、いつしか最初からそこにあったものだと思い込む。
ジュザイイは、書付の小さな傷を見つめた。
傷は、削られた名前の跡とは違っていた。
意図してつけられたものなのか。
何かを写すときに生じたものなのか。
あるいは、長い年月のうちに自然についたものなのか。
まだ、わからない。
彼は傷の位置を別紙に写し、日付を記した。
その下に、短く書いた。
「空白は、答えではない。問いである」
書き終えると、ジュザイイは二枚の紙片を別々に包んだ。
まだ、二つを結びつける証拠はない。
同じ時代のものかどうかさえ、わからない。
だからこそ、彼は同じ袋には入れなかった。
疑うことと、結びつけることは違う。
謎を見つけたからといって、すべての謎が一つの答えにつながるわけではない。
それでも、彼の胸には、消えた名前と地図にない都が、どこか遠い場所でつながっているような感覚が残っていた。
第五章 道を知る者
翌朝、商人が再び現れた。
「黄金の都への道を知る者が見つかりました」
彼は興奮した様子で言った。
「その者は、どこにいるのです」
ジュザイイが尋ねた。
「港の外にある宿です。東方から戻ってきた旅人だそうです」
「その旅人は、黄金の都へ行ったのですか」
「そう聞いています」
「誰から?」
商人は、口を閉じた。
バットゥータは、笑いをこらえるように口元を押さえた。
「また、誰かから聞いたのか」
「ですが、今回は違います。その旅人は、都へ行った者と一緒に旅をしたそうです」
「その旅人自身は?」
「都へ行った者ではありません」
「では、やはり、都を見た者はいないのだな」
商人は反論しようとしたが、言葉が出なかった。
「先生、どうか、その旅人に会ってください」
彼は、バットゥータに向かって頭を下げた。
「あなたなら、真実を聞き出せるかもしれません」
老人は、しばらく考えてから答えた。
「会おう」
商人の顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「ただし、一つ約束してもらう」
「何でしょう」
「その旅人が黄金の都について何も知らなかったとしても、私を責めないことだ」
商人は笑顔を保ったまま、わずかに固まった。
「もちろんです」
「そして、その旅人が都を見たと言ったとしても、すぐに信じないことだ」
「……はい」
「さらに、その旅人が都の場所を教えてくれたとしても、そこへ行けば必ず黄金が見つかるとは思わないことだ」
商人の笑顔が消えた。
「先生。私は、黄金を探しているのではありません」
「ほう」
「真実を探しているのです」
バットゥータは、じっと商人を見つめた。
「それなら、なぜ最初から黄金の都と呼ぶのだ」
商人は答えなかった。
しばらくして、彼は小さく頭を下げ、宿の場所を告げて去っていった。
ジュザイイは、その背中を見送った。
「先生。あの商人は、何を求めているのでしょう」
「黄金かもしれん」
「真実ではなく?」
「人間は、自分の欲しいものを、もっと立派な名前で呼ぶことがある」
老人は歩き始めた。
「黄金が欲しい者は、富を求めていると言う。権力が欲しい者は、秩序を求めていると言う。自分の間違いを認めたくない者は、真実を守っていると言う」
「では、真実を求める者は?」
「自分が間違っている可能性を、最後まで捨てない者だ」
ジュザイイは、その言葉を記録した。
今度は、老人も消せとは言わなかった。
第六章 黄金の都への道
その日の午後、二人は港の外にある宿へ向かった。
宿は小さく、壁には海風で傷んだ布が掛けられていた。入口には、旅人の荷物がいくつも積まれていた。
宿の主人は、商人の紹介を聞くと、奥の部屋へ案内した。
そこにいたのは、痩せた男だった。
年齢はわからない。頬はこけ、目の下には深い影がある。男は二人を見ると、まずジュザイイの筆を見た。
「記録するのですか」
「必要ならば」
ジュザイイは答えた。
男は、しばらく考えてから言った。
「では、私がこれから話すことを、すべて記録してください。ただし、私の名前は書かないでいただきたい」
ジュザイイは、顔を上げた。
「なぜですか」
「名前が残れば、話が残る。話が残れば、誰かが私を探しに来る」
「あなたは、何を見たのですか」
男は、窓の外を見た。
「私は、黄金の都へ行った者を知っています」
バットゥータは黙っていた。
「その者は、都から帰ってきました。しかし、都の場所を語りませんでした。道を尋ねても、川の数を尋ねても、何も答えなかった」
「なぜです」
ジュザイイが尋ねた。
男は、ゆっくりと首を振った。
「わかりません。ただ、帰ってきた者は、以前とは違っていました」
「どう違っていたのです」
「以前は、よく話す男でした。旅の話も、商いの話も、何でも語った。ところが、帰ってきてからは、自分が見たものについて、ほとんど何も話さなくなりました」
「黄金の都には、何があったのですか」
男は、ジュザイイを見た。
「それを知りたいのですか」
「はい」
「あなたは、何を期待していますか」
ジュザイイは、答えに迷った。
黄金の宮殿。
高い城壁。
世界中の財宝。
商人が語った、輝かしい都の姿。
しかし、それらはすべて、誰かの話から生まれた想像だった。
「まだ、何も期待していません」
ジュザイイは答えた。
「何があったのかを、知りたいだけです」
男は、初めて少し笑った。
「それなら、よいでしょう」
彼は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、三本の線が描かれていた。
線は途中で交わり、また離れていた。
地図のようにも見えた。
しかし、地名も、方角も、距離も記されていない。
「これは、黄金の都への道ですか」
ジュザイイが尋ねた。
「いいえ」
男は答えた。
「これは、黄金の都へ行った者が、帰ってきてから描いたものです」
「何を表しているのですか」
「わかりません」
「描いた本人に、聞かなかったのですか」
「聞きました」
男は、紙の中央を指さした。
「その者は、ここを指して言いました。『この場所を通ったとき、私は自分がどこにいるのか、わからなくなった』と」
ジュザイイは、紙を見つめた。
「道に迷ったのですか」
「そうかもしれません」
「あるいは、記憶が曖昧だったのかもしれません」
「そうかもしれません」
「では、この紙は何の証拠にもならないのでは?」
男は、うなずいた。
「そのとおりです」
ジュザイイは顔を上げた。
「それでも、なぜ残したのですか」
男は、紙を丁寧に畳んだ。
「何の証拠にもならないものを、何の証拠にもならないとわかったうえで残すことにも、意味があるからです」
部屋の中が静かになった。
バットゥータは、男を見つめていた。
やがて、老人は尋ねた。
「その旅人は、今どこにいる」
男は、ゆっくりと首を振った。
「わかりません」
「死んだのか」
「わかりません」
「どこかへ旅立ったのか」
「わかりません」
老人は、それ以上尋ねなかった。
ジュザイイは、紙の三本の線を写し取った。
その横に、男の言葉を記録した。
黄金の都へ行った者がいたという。
その者は帰還したという。
だが、都の場所も、道の意味も、旅人の行方も、わからない。
彼は最後に、こう書いた。
「この記録は、黄金の都の存在を証明しない。ただし、黄金の都について語る者たちがいたことは記録する」
書き終えたとき、バットゥータが静かに言った。
「それでよい」
第七章 地図に残らないもの
宿を出るころには、夕日が港を赤く染めていた。
商人は、黄金の都への道がわかったかと尋ねた。
バットゥータは首を振った。
「わからなかった」
「では、あの旅人は何も知らなかったのですか」
「何かを知っていたのかもしれん。何も知らなかったのかもしれん」
商人は、不満そうな顔をした。
「それでは、何も進んでいないではありませんか」
「そうかもしれんな」
老人は、平然と答えた。
「だが、少なくとも、お前は一つのことを知った」
「何でしょう」
「黄金の都について語る者がいる。だが、その者たちが、都を見たとは限らない」
商人は黙り込んだ。
「それは、前進と呼べるのでしょうか」
「何を前進と呼ぶかは、お前が決めればよい」
バットゥータは歩き始めた。
ジュザイイは、記録した紙を確かめながら、その後を追った。
黄金の都は、まだ見つかっていない。
道も、川も、地名も、確かなものは何一つなかった。
だが、都について語る者たちがいたことは、記録に残った。
彼らの話は互いに食い違い、証言は曖昧で、紙片は出所を失っていた。
それでも、すべてを捨ててしまえば、何も残らない。
ジュザイイは、前話の記録を思い出した。
証言は一致しなかった。
ゆえに、何が起きたのかは確定できない。
ただし、証言が一致しなかったという事実だけは、一致していた。
彼は、今日の記録にも同じ考え方を当てはめた。
黄金の都が存在したかどうかは、まだわからない。
しかし、その都を語る人々が存在したことは、確かだった。
その違いを、彼は記録に残すことにした。
船へ戻ると、ジュザイイは荷物を開いた。
古い書付を包んだ布を取り出し、削られた名前と小さな傷を、灯火の下でもう一度確かめた。
名前は、戻らない。
傷の意味も、わからない。
彼は、書付を元どおりに包んだ。
黄金の都の紙片とは、まだ結びつけない。
証拠がないものを、証拠があるように書かない。
それが、今の彼にできる唯一のことだった。
その夜、バットゥータは次の旅先について語った。
新しい土地。
新しい王。
新しい市場。
そして、新しい逸話。
ジュザイイは筆を動かしながら、老人の話を聞いた。
物語は、いくらでも増えていく。
だが、道は、語られたとおりに存在するとは限らない。
地図に描かれた線は、誰かがそこを通ったという証拠にはならない。
そして、地図に描かれていない道が、存在しなかったという証拠にもならない。
ジュザイイは、記録の最後に一行を書いた。
黄金の都への道は、まだ見つからない。だが、その道を探した者たちの足跡まで、存在しなかったことにはできない。
彼は筆を置いた。
遠くの海で、波が船腹を叩いていた。
次に向かうのは、元朝の黄金要塞について語る者がいるという土地だった。
そこには、古い記録が残っているという。
そして、その記録には、あるはずのない都市の名が記されているらしい。
ジュザイイは、まだそのことを知らなかった。
ただ、荷物の奥にある古い書付の小さな傷だけが、灯火の揺れに合わせて、かすかに影を落としていた。




