第五話 モルディブの千夜
第五話 モルディブの千夜
第一章 島々は楽園の顔をしている
「先生」
イブン・ジュザイイは、船の縁に腰を下ろしたまま尋ねた。
「モルディブの島々は、先生が訪れた土地のなかでも、ずいぶん平和な場所だったのですか」
イブン・バットゥータは、海面に目を向けた。
「平和?」
「はい。争いも少なく、人々は穏やかで、暮らしにも余裕がある。そういう土地だったのかと」
「ジュザイイよ。お前は、楽園というものを信じているのか」
「記録に残る楽園なら」
「それなら、なおさら信じるな」
老人は笑った。
「楽園には門番がいる。門番がいれば、入れる者と入れない者がいる。入れない者がいれば、必ず門番を恨む者が出る。人間が住む場所で、争いがなくなるはずがない」
船の周囲では、浅い海が陽光を受けて輝いていた。遠くに浮かぶ島々は、白い砂浜と緑の木々に縁取られている。
たしかに、遠くから眺めるかぎり、そこには争いの種など見当たらなかった。
「しかし、先生。人々は魚を獲り、商いをし、家族を養っている。暮らしは質素でも、豊かに見えます」
「そうだ。だからこそ、厄介なのだ」
「豊かなのが、ですか」
「そうではない。人間は、満ち足りているときでさえ、何かを変えたがる」
老人は、ジュザイイの顔を見た。
「そして、変えようとする人間は、たいてい、自分だけが正しいと思っている」
ジュザイイは筆を取り出した。
「先生、その言葉は記録しておくべきでしょうか」
「いや」
「なぜです」
「お前が書けば、私が言ったことになる。私が言ったことになれば、誰かがありがたがる。ありがたがれば、誰かが真似をする。真似をした者が失敗すれば、私のせいにされる」
「では、何も書けません」
「だから、お前は苦労しているのだ」
老人は満足そうに笑った。
ジュザイイは筆を置いた。
師の言葉を記録することが自分の仕事だった。しかし、師の言葉をすべて記録することが、正しい仕事なのかどうかは、まだわからなかった。
荷物の奥には、前の島で手に入れた古い書付がある。
削られた名前。
そして、その近くに残された小さな傷。
ジュザイイは、誰にも見られないように荷物へ目をやった。
あの傷が何を意味するのか、彼にはわからなかった。
ただ、何者かが名前を消したあとも、別の何かを残しておこうとしたように見えた。
そのことが、気になっていた。
第二章 夜ごとに増える物語
モルディブの島に着いた夜、バットゥータは宿の主人に歓迎された。
主人は食事を用意し、客人の旅の話を聞きたがった。近所の者たちも集まり、老人の周囲に輪をつくった。
「遠い国を見てこられたそうですね」
主人が言った。
「遠い国もあれば、遠いだけで大したことのない国もある」
「では、先生がもっとも驚かれた国は?」
「驚かされた国なら、いくつもある」
「たとえば?」
「王が賢い国では、王が自分を賢いと思っていた。王が愚かな国では、王の周りの者たちが、王を賢いと思わせようとしていた」
集まった者たちが笑った。
主人も笑ったが、少し遅れて笑った。
ジュザイイは、そのわずかな遅れを見逃さなかった。
人は、自分のことを笑われたと感じたとき、周囲より半拍遅れて笑うことがある。
もっとも、それを記録に書くのは難しい。
「先生は、どんな国でも歓迎されたのですか」
別の男が尋ねた。
「歓迎されたこともある。歓迎されているふりをされたこともある」
「その違いは、どうやってわかるのです」
「食事が出てくる速さだ」
今度は、全員が笑った。
「腹を空かせた客に食事を出すのが遅い主人は、客を歓迎していない。あるいは、歓迎する余裕がない。どちらにしても、客が腹を空かせているという事実だけは変わらない」
「先生は、ずいぶん食事を大切にされるのですね」
「人間は思想で満腹にはならんからな」
宿の主人は、慌てて料理を追加させた。
その夜、バットゥータは幾つもの話をした。
ある王の気前のよさ。
ある裁判官の愚かさ。
ある商人の抜け目なさ。
ある土地で出会った学者の博識。
話が進むにつれ、集まった人々はますます熱心に耳を傾けた。
そして、話が終わるたびに、誰かが尋ねた。
「それは、本当にあったことですか」
バットゥータは、そのたびに答えた。
「私が見たことだ」
ジュザイイは、筆を止めた。
それは質問への答えになっているようで、なっていなかった。
見たことと、起きたことは、同じなのだろうか。
見た者が勘違いしていたら。
聞いた話を、自分が見たことのように覚えていたら。
あるいは、長い年月のあいだに、別の話が記憶のなかへ入り込んでいたら。
それでも、その話は「私が見たこと」になるのだろうか。
ジュザイイは、問いを口にしなかった。
旅の老人にとって、夜の物語は人を楽しませるためのものだった。
記録する者にとって、夜の物語は翌朝まで残るかどうかもわからない、頼りない材料だった。
第三章 千夜を越える話
翌晩も、人々は集まった。
その翌晩も。
バットゥータの話は尽きなかった。
一つの話が終われば、別の話が始まった。ある話のなかに、別の土地で聞いた話が入り込み、その話のなかに、さらに古い話が顔を出した。
遠い国の王が登場し、見知らぬ学者が語り、船乗りが海の怪物を見たと言い、商人が黄金の山を見つけたと主張した。
聞き手たちは驚き、笑い、時には息を呑んだ。
ジュザイイは、話を整理しようとした。
王の話は王の話として。
旅の話は旅の話として。
見聞きしたことと、誰かから聞いたことを分けようとした。
だが、整理すればするほど、話は別の形に変わっていった。
同じ出来事が、別の日には違う順番で語られる。
同じ人物が、ある夜には賢者として登場し、別の夜には愚か者として登場する。
ある土地では親切だった王が、別の話では残酷な王として現れる。
「先生」
三日目の夜、ジュザイイはとうとう尋ねた。
「同じ人物について、違う話が語られた場合、どちらを記録すればよいのでしょう」
「両方だ」
「両方ですか」
「片方だけを書けば、もう片方を知っていた者が怒る」
「では、矛盾したまま残すのですか」
「矛盾を消すために、嘘を一つ増やすよりはましだ」
ジュザイイは、その言葉を書き留めた。
今度は、老人も消せとは言わなかった。
「ただし」
バットゥータは付け加えた。
「矛盾をそのまま残すと、後世の学者が喜ぶ」
「なぜです」
「自分が賢いと証明できるからだ。昔の人間は愚かだった、記録者は無能だった、旅人は嘘つきだった。そう書けば、後世の学者は安心して眠れる」
「では、学者を眠らせないために、矛盾を残すべきでしょうか」
「いや。学者が眠れなくなれば、今度は私のせいにされる」
老人は、また笑った。
ジュザイイも笑った。
だが、彼は書き留めた言葉を見つめていた。
矛盾を消すことは、できる。
順序を入れ替えることもできる。
都合の悪い一文を省き、別の一文を加えることもできる。
そうして出来上がった記録は、以前より読みやすくなるかもしれない。
読みやすくなった記録は、人々に信じられやすいかもしれない。
そして、信じられやすい記録ほど、疑われにくい。
ジュザイイは筆を置き、灯火の向こうにいる老人を見た。
バットゥータは、すでに次の話を始めていた。
第四章 話のあいだに落ちたもの
四日目の夜、宿の主人が一人の老人を連れてきた。
その男は、長く海に出ていたという船乗りだった。顔には深い皺が刻まれ、片方の手の指が二本、失われていた。
「この方も、先生の話を聞きたいそうです」
主人が言った。
船乗りは、バットゥータの前に座ると、しばらく何も話さなかった。
やがて、低い声で尋ねた。
「先生は、昔、こちらの海を渡られたことがありますか」
「ある」
「そのとき、ある船に乗っていた男の話を聞かれませんでしたか」
「どんな男だ」
「名前は、覚えておりません」
バットゥータは、眉をひそめた。
「名前を覚えていない男の話を、私が覚えていると思うのか」
「その男は、海で遭難した者たちを助けたそうです。自分の食料を分け、船が沈むまで、ほかの者を先に逃がしたと」
集まった者たちは静かになった。
「それで?」
バットゥータが促した。
「その男の話は、誰も書き残しませんでした」
「なぜだ」
「助かった者たちは、別々の土地へ行きました。男の名を知っていた者も、やがて死にました。男がどこの生まれで、誰の息子だったのか、それを知る者もいなくなりました」
船乗りは、失われた指の跡を見つめた。
「残ったのは、男が人々を助けたという話だけです。しかし、その話も、語る者によって少しずつ違っていきました。ある者は男を船長と呼び、ある者は商人と呼びました。ある者は、男は最後まで船に残ったと言い、ある者は、男は先に逃げたと言いました」
「結局、その男は何者だったのだ」
バットゥータが尋ねた。
船乗りは首を振った。
「わかりません。私は、その男を見たことがありませんから」
「ならば、なぜその話をする」
「先生が旅の話を記録されると聞いたからです」
男は顔を上げた。
「名前のない者の話も、記録に残るのでしょうか」
バットゥータは、すぐには答えなかった。
ジュザイイは筆を持っていた。
書けば、名前のない男の話は残る。
しかし、残るのは男自身ではない。
船乗りが聞いた話。
船乗りが覚えている話。
そして、ジュザイイがそれを聞き、文字にした話だ。
そのどこまでが男の人生で、どこからが人々の記憶なのか。
「記録には、名前が必要だ」
バットゥータは言った。
船乗りの顔が、わずかに曇った。
だが、老人は続けた。
「名前がなければ、誰のことを書けばよいのか、後世の者にはわからない」
「では、名前が失われた者は」
「名前が失われた、と書けばよい」
「それだけで、残るのでしょうか」
「残らないよりはましだ」
船乗りは、長い沈黙のあと、頭を下げた。
それ以上、何も言わなかった。
その夜、ジュザイイは男の話を記録した。
ただし、男の名前を書く欄には、何も書かなかった。
第五章 記録者の眠れない夜
人々が帰ったあとも、ジュザイイは灯火のそばに座っていた。
書き終えたばかりの文章を読み返す。
名前のない船乗り。
名前を知らない船乗り。
名前が失われた男。
同じようでいて、それぞれ違う。
「まだ書いているのか」
バットゥータが声をかけた。
「はい」
「今夜は、どんな話を書いた」
ジュザイイは、書きかけの紙を差し出した。
老人は目を通し、最後の数行で手を止めた。
「この男の名前は、本当にわからなかったのか」
「船乗りは、知らないと言いました」
「ならば、それでよい」
老人は紙を返した。
「だが、ひとつ覚えておけ。名前がわからないことと、名前がなかったことは違う」
ジュザイイは、その言葉を見つめた。
「記録に名前がないからといって、その者が存在しなかったことにはならない」
「そうだ」
「しかし、後世の者は、記録にない者を、存在しなかった者として扱うかもしれません」
「後世の者は、何でもする。自分たちが読みたいものを読み、自分たちが信じたいものを信じる」
老人は寝台に向かった。
「だからこそ、お前は書けることを書け。知らないことまで、知っているふりをするな」
「はい」
「それから、余計なことは書くな」
「どこまでが余計なことなのですか」
「私が不利になることだ」
ジュザイイは顔を上げた。
老人は、すでに横になっていた。
「先生」
「何だ」
「今のお言葉は、記録してもよろしいでしょうか」
「だめだ」
「理由をお聞きしても?」
「理由まで記録されたら、ますます不利になる」
ジュザイイは笑った。
老人も笑った。
しばらくすると、部屋には寝息だけが残った。
ジュザイイは、机の上に積まれた紙をそろえた。
それから、荷物の奥にしまった古い書付を思い出した。
削られた名前。
その近くの、小さな傷。
あの書付にも、名前を知らない者の話が残されているのだろうか。
それとも、名前を知っていた誰かが、意図してそれを消したのだろうか。
彼にはまだ、わからなかった。
ただ、名前が残るかどうかは、本人の生き方だけでは決まらない。
誰が語るのか。
誰が書くのか。
誰が読み、誰が写し、誰が消すのか。
それらすべてが、名前の行方を決めてしまう。
ジュザイイは、古い書付を取り出さなかった。
今夜はまだ、書くべき時ではない。
## 第六章 千夜の終わりに
翌朝、島を離れる準備が整った。
宿の主人は、別れの食事を用意した。船乗りも姿を見せたが、昨夜の話については何も言わなかった。
バットゥータは、主人に礼を述べ、船へ向かった。
「先生」
ジュザイイが尋ねた。
「昨夜の話は、これから先も語り継がれるでしょうか」
「どの話だ」
「名前のない男の話です」
「語り継がれるかどうかは、私にはわからん」
「先生の旅行記に残るのですから、少なくとも、文字にはなりました」
「文字になったからといって、残るとは限らん」
老人は船に足をかけた。
「紙は燃える。羊皮紙は破れる。写本は失われる。文字を読める者もいなくなる。残ったとしても、読む者が意味を取り違えることがある」
「では、何を頼りにすればよいのでしょう」
「頼りにできるものがあると思うな」
老人は振り返った。
「ただし、疑うことと、何も信じないことは違うぞ」
ジュザイイは、その言葉を記録した。
今度も、老人は消せとは言わなかった。
船が岸を離れると、島はゆっくり遠ざかっていった。
白い砂浜も、緑の木々も、やがて海の向こうへ沈んでいく。
人々の暮らしも、笑い声も、昨夜の物語も、そこに残されたままだった。
ジュザイイは、書き上げた記録をひもで束ねた。
そのなかには、名も知らぬ男の話がある。
男の名前はない。
男が本当に存在したのかどうかも、確かめようがない。
それでも、誰かが男の話を語り、別の誰かがそれを聞き、さらに別の誰かが記録に残した。
その連なりだけは、確かに存在していた。
ジュザイイは、束ねた記録を荷物へしまった。
そして、もう一度だけ、古い書付のことを考えた。
あの書付には、削られた名前があった。
削られた名前のそばには、小さな傷があった。
名前を消した者は、何を残そうとしたのか。
傷を残した者は、誰に何を伝えようとしたのか。
ジュザイイには、まだ答えがなかった。
船の先では、バットゥータが次の土地について話し始めていた。
新しい王。新しい町。
新しい逸話。新しい記録。
旅は続く。物語も続く。
そして、記録されなかった者たちは、語られた者たちの物語の外側で、静かに消えていく。
ジュザイイは筆を取り、最後に一行を書き加えた。
物語は、語られたことによって残る。歴史は、語られなかったことによって形を変える。
その一行を、老人には見せなかった。




