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第四話 パンツ一丁の法官 再改訂版

第四話 パンツ一丁の法官



「ジュザイイ。ひとつ聞きたいことがある」


イブン・バットゥータは、椰子の葉が風に揺れる音を聞きながら言った。


「何でしょう、先生」


「人間が法を守らぬとき、法官はどうすべきだと思う?」


ジュザイイは筆を止めた。


「まず、なぜ守らないのかを調べるべきでしょう」


「なるほど。では、法官自身が法を守っていない場合は?」


「その法官を調べるべきでしょう」


「君は書記に向いていないな」


「なぜです?」


「世の中には、調べてはならぬ人間というものがいるのだ」


「それを決めるのも法官ですか?」


「いや。たいていは権力者だ」


老人は満足そうにうなずいた。


「よろしい。では、モルディブの話をしよう」




第一章 法を正す男


モルディブの島々は、青い海に浮かぶ緑の庭園のようだった。


椰子の木が並び、白い砂の道が続く。人々は魚を干し、貝を集め、潮風のなかで暮らしていた。


旅人を迎える人々は親切だった。


食事を分け、宿を用意し、遠い国から船でやってきた異国人を、家族のようにもてなした。


ただし、イブン・バットゥータには、どうしても見過ごせないことがあった。


「これは、いかん」


市場を歩いていた彼は、深刻な顔でつぶやいた。


「何がいけないのです?」


同行していた役人が尋ねた。


「服装だ」


市場の人々は、暑い土地にふさわしい簡素な衣服を身につけていた。なかには、腰布だけで歩いている者もいる。


ところが、遠いマグリブから来た法学者にとって、それは到底、見過ごせるものではなかった。


「私は法官だ。この島にも、正しい秩序を打ち立てねばならん」


役人は慎重にうなずいた。


「それは結構なことでございます」


「まずは人々に、もっときちんとした衣服を着るよう命じよう」


「先生」


「何だ」


「その命令を出す前に、ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか」


「申してみよ」


「この島は暑うございます」


「知っている」


「たいへん暑うございます」


「二度言わなくてよい」


「では、三度目は申しません」


イブン・バットゥータは役人をにらんだ。


この島では、正しいことを教えるにも、ずいぶん忍耐が必要らしい。


彼はそう考えた。


もっとも、島の人々もまた、遠い国から来た法官の忍耐力を試しているつもりなど、まったくなかった。


ただ、暑かったのである。




第二章 法廷の奇妙な事件


ある日、法廷に一人の男が現れた。


男は腰に布を巻いただけの、じつに簡素な格好をしていた。


イブン・バットゥータは眉をひそめた。


「ここをどこだと思っている?」


男はきょとんとした。


「法廷でございます」


「ならば、その格好は何だ」


「私の格好でございます」


「見ればわかる!」


男は困った顔をした。


「では、何と申し上げればよろしいのでしょう?」


ジュザイイが横から口を挟んだ。


「先生。質問を変えてみてはいかがですか」


「何だ」


「この男は、何の訴えに来たのでしょう」


「……そうだった」


法官は咳払いをした。


男の訴えは、隣人が自分の漁網を勝手に持ち去ったというものだった。


イブン・バットゥータは双方の言い分を聞き、証言を確かめ、漁網の持ち主を判断した。


判決は明快だった。


盗んだ者は網を返し、損害を償うこと。


男は礼を述べ、法廷を出ていった。


「先生」


ジュザイイが言った。


「何だ」


「いまの裁判では、衣服の問題は何も解決しませんでしたね」


「裁判は正しく終わった」


「はい」


「それで十分だ」


「では、衣服の問題は?」


「次の裁判で考える」


ジュザイイは筆を走らせた。


法官というものは、どんな問題にも判決を下せるわけではない。


少なくとも、本人がそれを認めるまでは。




第三章 パンツ一丁の法官


数日後、イブン・バットゥータは、思いもよらない光景を目にした。


ある役人が、腰布一枚の姿で役所の奥から出てきたのである。


法官は足を止めた。


「おい」


役人は振り返った。


「何でございましょう」


「その格好で仕事をしているのか」


「はい」


「役人であろう」


「はい」


「人々の模範となるべき立場であろう」


「おっしゃるとおりです」


「ならば、なぜそんな格好なのだ!」


役人は、しばらく考えた。


「先生」


「何だ」


「仕事をするとき、必要なのは衣服でしょうか。それとも、仕事をすることでしょうか」


イブン・バットゥータは口を開いた。


だが、言葉が出なかった。


役人は悪びれもせず、続けた。


「もちろん、衣服が必要な場もございます。先生の法廷では、先生のお考えに従いましょう。しかし、私どもが日々の仕事をするときには、この格好が都合よいのでございます」


「都合だと?」


「はい。暑さのなかで働き、汗をかき、海風を受ける。厚い衣服を着れば、それだけで仕事がひとつ増えます」


「衣服を着ることが仕事だとでも言うのか!」


「いいえ。ですから、仕事をしております」


役人は深々と頭を下げた。


礼儀正しい。


じつに礼儀正しい。


そして、法官の命令を正面から否定しているわけでもない。


イブン・バットゥータは、この男を罰する理由を見つけられなかった。


「……行け」


「ありがとうございます」


役人は去っていった。


ジュザイイが、そっと尋ねた。


「先生。あの男は、先生の命令に従ったのでしょうか」


「法廷では従うと言った」


「では、法廷の外では?」


「……仕事をしているのだろう」


「なるほど」


ジュザイイは筆を動かした。


「何を書いている」


「法官は衣服を着るよう命じた。しかし、衣服を着せることまではできなかった、と」


「消せ」


「なぜです?」


「私が敗北したように読める」


「事実と違いますか?」


「ジュザイイ」


「はい」


「君は、いつか大変な目に遭うぞ」


「先生の旅行記に名前が残るよりは、ましでしょう」


法官は、今度こそ返す言葉を失った。




第四章 記録に残るもの


夜になった。


宿の灯火の下で、ジュザイイは昼間の記録を整理していた。


老人はすでに眠っている。


机の上には、島の役人から渡された古い書付があった。法廷の判決を記したものらしい。


ジュザイイはそれを読み、眉をひそめた。


今日の事件とは関係がない。


少なくとも、最初はそう思った。


書付には、短い記録が残されていた。


「法官は衣服を命じた。人々はうなずいた。翌日、人々は以前と同じ姿で現れた」


その下には、別の筆跡で一行が加えられていた。


「命令に従わなかったのは、人々か。それとも、命令の意味を理解したうえで、従う必要がないと判断した人々か」


ジュザイイは、その一行を何度も読み返した。


単なる愚痴にも読める。


法官をからかった文章にも読める。


だが、書き手が何を意図していたのかはわからなかった。


さらに奇妙なことに、最初の書付には、記録者の名前が記されていたらしい。


紙の末尾には、名前を書くための空白が残っている。


だが、名前の部分だけが削り取られていた。


ジュザイイは灯火を近づけた。


文字が消された部分は、周囲よりわずかに薄くなっている。


しかし、その近くに、別の傷があった。


名前を削ったときにできた傷とは違う。


細く、短い。


筆先で引いた線にも見えるが、文字の一部と考えるには不自然だった。


偶然ついた傷かもしれない。


紙を扱う途中でできたものかもしれない。


だが、ジュザイイには、どうしても気になった。


なぜ名前だけが消されているのか。


そして、なぜ、そのすぐそばに意味のわからない傷が残っているのか。


彼は書付を裏返した。


裏面には何も書かれていない。


透かしてみても、文字の影は見えなかった。


ジュザイイは老人を起こそうとした。


しかし、思いとどまった。


こんなことで眠りを妨げれば、明日はきっと機嫌が悪い。


それに、まだ何もわかっていない。


彼は書付の文章を別の紙に写した。


そのあと、名前が削られた部分と、小さな傷の位置も、できるだけ正確に写し取った。


原本は布で包み、荷物の奥にしまった。


最後に、彼は自分の記録へ一行を書き添えた。


――この記録を書いた者は、誰のために名前を消したのだろう。


そして、もう一行。


――名前を消した者は、なぜ、この傷を残したのだろう。




第五章 老人は覚えている


翌朝。


イブン・バットゥータは、椰子の実の汁を飲みながら言った。


「ジュザイイ。昨日の法官の話は、書いたか」


「はい」


「よろしい。私は、あの島で実に厳格な法を施行した」


「衣服については、成功したとは言いがたいようですが」


「法とは、一日にして成るものではない」


「では、何日あれば?」


「質問が多いぞ」


ジュザイイは笑った。


老人も笑った。


二人は、いつものように言い争いながら朝食を終えた。


やがて旅の支度が整い、次の島へ向かう船が用意された。


出発の直前、ジュザイイは、荷物の奥にしまった書付のことを思い出した。


あの傷は、偶然できたものだろうか。


それとも、誰かが意図して残したものなのだろうか。


彼には、まだ判断できなかった。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


あの書付は、ただの古い記録ではないのかもしれない。


彼は包みを確かめ、再び荷物の奥へしまった。


そのときはまだ、彼にもわかっていなかった。


歴史というものは、嘘を書き加えることだけで変わるのではない。


誰かの名前をひとつ消すだけでも、変わってしまうのだ。


そして、名前を消された者は、たいてい、自分が歴史から消されたことを知らない。


船が岸を離れた。


老人は振り返り、島を眺めた。


「ジュザイイ」


「はい」


「この島の人々は、なかなか頑固だったな」


「そうですね」


「だが、よい島だった」


「はい」


「記録には、そう書いておけ」


ジュザイイは筆を取った。


「承知しました」


彼は、そう書いた。


ただし、古い書付のことは書かなかった。


まだ、書くべき時ではないと思ったからだ。


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