第十七話 大旅行記 ー 最後の一行
第十七話 大旅行記 ― 最後の一行
第一章 書き終えるということ
フェズの夜は、思いのほか静かだった。
窓の外から、ときおり人の声が聞こえる。遠くで犬が吠え、どこかの家で戸が閉まった。街は眠りにつこうとしていたが、眠ることに同意していない者も、まだ何人かいるらしかった。
私は机に向かい、羊皮紙を広げていた。
その上には、長い年月をかけて書き継いできた旅の記録がある。
タンジールを出た青年。海を渡った船。砂漠の隊商。黄金を惜しみなく配る王。見知らぬ土地の法官。遠い東方の大都。そして、地図に描かれた線の外側にある、名も知らぬ町々。
そのすべてを、私は一冊の書物にまとめようとしていた。
いや、正確にいえば、まとめたことにしようとしていた。
旅は終わった。
そう書けば、話は簡潔になる。
だが、人間の旅というものは、本人が帰ってきたからといって、きれいに終わるわけではない。本人の記憶は帰還後も変わり続けるし、聞き手の理解は聞くたびに変わる。書き手はその両方を、ひとつの文章に押し込める。
そして、文章になった瞬間、それは別の旅を始める。
「まだ書いているのか」背後から声がした。
イブン・バットゥータだった。
老人は椅子に腰を下ろすと、私の机をのぞき込んだ。
「旅は終わったはずだがな」
「旅は終わりました。記録が終わっていないのです」
「それは困ったな。記録まで旅に出てしまったら、誰が帰ってきたことにしてくれるのだ」
私は筆を止めた。
師の冗談は、時として真面目な話より始末が悪かった。笑って済ませるには何かが引っかかり、考え込むにはあまりにもくだらない。
「最後の一行を書こうと思っています」
「なら、短いほうがいい」
「なぜです」
「長い一行は、書き手が自分の話を終わらせたくないときに書くものだからだ」
老人はそう言って、満足げにうなずいた。
その言葉が本当に彼の考えだったのか、それとも長い旅のあいだに誰かから聞いた言葉なのか、私には分からなかった。
この男の口から出る言葉は、いつもそうだった。
本人が見たこと。
誰かから聞いたこと。
ずっと昔に聞き、何度も語るうちに自分の記憶になったこと。
その境界線は、砂漠の道よりも見えにくい。
私は再び羊皮紙に目を落とした。 最後の一行。
それは、この旅の終わりを告げる文章であると同時に、私たちが何を語り、何を語れなかったのかを決める文章でもあった。
第二章 消えたものの一覧
私は机の脇に、これまで集めた断片を並べた。
大都の記録にある日付と、別の記録にある日付。
黄金の要塞について語る商人の証言。
北方の長い昼について記された古い紙片。
名のない人物について書かれた覚え書き。
そして、羊皮紙の端に残る、小さな傷。
その傷は、どの文書にも同じように見えるわけではなかった。
あるものは爪で引っかいたように細く、あるものは筆先が滑った跡にも見えた。あるいは、荷物を識別するための印だったのかもしれない。
商人は、似たような印を荷に付けることがあると言った。
それは十分にあり得る話だった。
荷物には印が必要だ。持ち主が分からなくなれば、荷物は別の人間のものになる。もっとも、持ち主が分かっていても、別の人間のものになる場合はある。商売とは、ときに人間の正直さを試すために存在しているらしい。
しかし、荷の印と文書の傷が同じ由来を持つという証拠はなかった。
「これらは、ひとつの出来事につながっているのでしょうか」
私は尋ねた。 老人は机の上の紙片を眺めた。
「つながっているものもあるだろう」
「すべてが?」
「すべてがつながっていると思いたがるのは、書き手の悪い癖だ」
「では、つながっていないのですか」
「それも分からん」
老人は、まるで当然のことを述べるように答えた。
「お前は、散らばった石を並べて道を作ろうとしている。だが、石の中には道に使われたものもあれば、誰かが落としたものもある。川から流れてきたものもあろう。たまたま同じ色をしているだけの石もな」
「それでは、何も分からないではありませんか」
「何も分からないことと、何も分かっていないことは違う」
私は顔を上げた。 老人は続けた。
「大都に行ったことは覚えている。そこで見たものも覚えている。だが、すべての日付を正しく覚えているとは言わん。誰がどこにいたかも、すべて確かとは言えない。お前が集めた紙に食い違いがあるなら、その食い違いを残せばいい」
「もし、誰かが意図して記録を書き換えていたとしたら?」
「ならば、書き換えた者がいたと書けばいい。ただし、その者を知らないなら、知らないと書け」
「名前を知らない者を?」
「名前を知らないのに名前を書くのか?」
私は口を閉じた。
老人はときどき、学問のあらゆる議論を、ひどく簡単な問いで終わらせる。
それが彼の知恵なのか、議論に飽きているだけなのか、私はいまだに判断できずにいた。
第三章 記すな、と書かれた名
机の奥には、もう一枚の紙片があった。
そこには、ひとつの名前が記されていた。
その下に、別の手で短い文が書き加えられている。
「この者については、記すな」
私はその文字を何度も読み返した。
誰が書いたのか。
なぜ記すなと言ったのか。
その人物が危険だったのか、重要だったのか、それとも単に記録する価値がないと判断されたのか。
あるいは、後から紙を扱った者が、何かを隠そうとして書き加えたのか。
どれも可能だった。
どれも、まだ証明できなかった。
「この名前を、本文に入れるべきでしょうか」
私は尋ねた。
老人は紙片を見た。
「その人物について、何を知っている?」
「名前だけです」
「何をした人物なのか」
「分かりません」
「どこで生きていたのか」
「分かりません」
「なぜ記すなと書かれたのか」
「それも分かりません」
「では、名前を本文に入れれば、その人物について何か分かるようになるのか?」
私は首を振った。
「ならば、名前だけを入れても、読者に分かったような気分を与えるだけだ」
老人は紙片を私に返した。
「だが、その紙片が存在することは記してよい。誰かが、その人物について書くなと書いた。それは、お前が実際に見たことだろう」
「はい」
「ならば、それを書け」
私は紙片を別の束に移した。
名を消すことと、名を記さないことは同じではない。
名前を消す者は、そこにあったものをなかったことにしようとする。
名前を記さない者は、知らないことを知っているふりをしないために、筆を止めることもある。
そして、どちらの行為も、後世から見れば同じ空白になる。
空白だけを見て、その理由を決めることはできない。
私は、その違いを文章に残そうとした。
だが、書き始めると、また別の疑問が生まれた。
私が「分からない」と書けば、それは誠実さの証拠になるのだろうか。
あるいは、私自身が何かを隠していると思われるのだろうか。
書き手は、沈黙しても疑われる。
語っても疑われる。
どうやら、疑いというものは、記録を読む者にとって非常に便利な道具らしい。
第四章 名もなき者たち
私は、旅の記録を最初から読み返した。
王の名はある。
法官の名もある。
商人の名もあり、支配者の名もある。彼らは贈り物を与え、裁きを下し、町を治め、歴史に残る出来事を起こした。
その一方で、彼らの馬を引いた者の名はほとんどない。
荷を運んだ者も、船を修理した者も、食事を用意した者も、宿の床を掃いた者も、名前を残していない。
ある港で、私はひとりの荷運び人について書きかけたことがあった。
彼は私たちの荷物を運び、最後に手を差し出した。私は代金を払った。彼はそれを受け取り、立ち去った。
そのとき、私は彼の名前を尋ねなかった。
旅の途中では、それは珍しいことではなかった。人は出会い、仕事をし、別れる。すべての人間に名前を尋ねていたら、私は旅の大半を質問に費やし、世界を見る時間を失っていただろう。
だが、今になって考えると、私はその男のことをほとんど何も知らなかった。
どこから来たのか。
誰を養っていたのか。
その日、稼いだ金で何を買ったのか。私は知らない。
だからといって、彼に壮大な秘密があったと想像することはできない。
彼が王の密使だったという証拠はない。
誰かの名前を守るために働いていたという証拠もない。
彼がただ荷物を運び、金を受け取り、家に帰ったのだとしても、それは十分にあり得ることだった。
歴史に記されなかった人々を、すべて秘密の主人公にする必要はない。
彼らの人生は、物語の材料である前に、それぞれの人生だった。
「私たちは、彼らのことを何も残していないのですね」
私は言った。
老人はしばらく黙っていた。
「残したものもある」
「何を?」
「彼らがいなければ、私たちは旅を続けられなかった」
老人は机を指で叩いた。
「だが、誰が荷を運んだかを書かなければ、荷はひとりで動いたことになる。誰が食事を作ったかを書かなければ、食事は自然に皿に現れたことになる。旅人は、ずいぶんと都合のよい世界を歩いているものだ」
私は笑った。
老人も笑った。
それから、彼は少しだけ表情を改めた。
「すべての名を残すことはできん。だが、名を残せなかったことまで忘れる必要はない」
私はその言葉を書き留めた。
これもまた、彼が昔から考えていたことなのか、今この場で思いついたことなのか、分からなかった。
しかし、今回は、その違いを確かめる必要はないように思えた。
私は、言葉の出所が不確かであることと、その言葉について考える価値がないことは、別の問題だと知り始めていた。
第五章 老人は何を覚えているのか
夜が深くなった。 老人は眠そうに目を細め、椅子の背にもたれていた。
「ひとつ、聞いてもよいですか」
「もう聞いているではないか」
「あなたは、旅のことをどれほど正確に覚えているのですか」
老人は目を開けた。
今度はすぐに答えなかった。
「正確、という言葉の意味による」
「見たものを、見たとおりに覚えているかということです」
「見たとおりに覚えているものもある。間違えて覚えているものもあるだろう」
「誰かから聞いた話を、ご自身の記憶だと思っていることは?」
「あるかもしれん」
「では、あなたの語る旅の中には、実際には起きなかった出来事もあるのでしょうか」
老人は私を見た。
「お前は、私が嘘をついていると思うのか」
「いいえ。そうではありません」
「ならば、なぜそんなに恐ろしい顔をしている」
私は思わず自分の顔に触れた。
老人は声を立てて笑った。
「人間の記憶は、倉庫ではない。出来事を箱に入れて、年月を書き、棚に並べておけるものではない。思い出すたびに、少しずつ形が変わることもある。だが、変わったからといって、最初からすべてが偽りだったとは限らん」
「では、どこまで信じればよいのですか」
「信じることと、確かめることを混同するな」
老人は窓の外に目を向けた。
「私は多くの土地を見た。多くの人に会った。だからといって、すべてを知っているわけではない。私は自分が見たものを語る。お前はそれを聞き、書く。読む者はそれを読む。そして、それぞれが自分の理解を作る」
「それでは、同じ旅でも、読む者によって違うものになる」
「そうだ」
「ずいぶん不便なことですね」
「世界というものは、もともと読者に親切にできていない」
私は筆を置いた。
老人の言葉をそのまま記録することはできる。
しかし、その言葉を彼がどのような気持ちで語ったのかまでは、私の文章に完全には収まらないだろう。
声の調子も、沈黙の長さも、窓の外の夜の気配も、すべてを写し取ることはできない。
それでも、私は書く。
完全ではないからといって、何も残さない理由にはならない。
ただし、不完全なものを完全だと称してはならない。
そのことだけは、忘れないようにしようと思った。
第六章 最後の傷
私は、机に並べた紙片をもう一度確認した。
大都の年代記。
黄金の要塞についての証言。
北方の土地について記された断片。
名を記すなと書かれた紙。
そして、いくつかの羊皮紙に残る小さな傷。
それぞれは、同じ世界の中に存在していた。
だが、同じ事件に属していたとは限らない。
年代の食い違いは、記録の誤りかもしれない。記憶の違いかもしれない。後世の書き手が別々の出来事を混ぜたのかもしれない。
黄金の要塞は、実在した場所だったのかもしれない。誇張された噂だったのかもしれない。あるいは、複数の土地についての話が、いつしかひとつの物語になったのかもしれない。
北方の長い昼についても同じだった。
異なる人々が似た話をしたことには意味があるかもしれない。だが、それだけで彼らが同じ道を歩き、同じ秘密を知っていたと結論することはできない。
小さな傷もまた、そこにあった。
傷は消えなかった。
しかし、傷が残っているという事実と、誰かが意図して傷をつけたという判断は、同じではなかった。
私は、すべての紙片をひとつの束にまとめようとして、手を止めた。
それから、束を分けた。
年代記は年代記として。
証言は証言として。
出所の分からない断片は、出所の分からない断片として。
私はそれぞれに短い説明を添え、分からない部分には、分からないと記した。
これで謎が解けたわけではない。
むしろ、ひとつの謎だと思っていたものが、いくつもの別々の問いに分かれただけだった。
誰かが歴史を書き換えたのか。
誰かが名前を消したのか。
似た印は、同じ人間の手によるものなのか。
語られなかった出来事は、本当に起きたのか。
そして、記録に残ったことは、どこまで真実なのか。
私は、そのどれにも決定的な答えを持っていなかった。
「それでよいのか」
老人が尋ねた。
「よいかどうかは、分かりません」
私は答えた。
「だが、分からないことを、分かったことにはしないつもりです」
老人は満足したようにうなずいた。
「ならば、少なくとも、お前はひとつの間違いを避けたことになる」
「どの間違いですか」
「自分の書いたものを、世界そのものだと思う間違いだ」
老人は立ち上がった。
「さて、私は寝る。明日になれば、また何かを忘れているだろう」
「何か、ですか」
「おそらく、お前の名前もな」
「それは困ります」
「安心しろ。忘れたことも忘れていれば、誰も傷つかん」
老人はそう言い残し、部屋を出ていった。
私はしばらく、その背中を見送っていた。
彼が本当に私の名前を忘れるかどうかは、翌朝にならなければ分からない。
そして、翌朝になって彼が私の名前を忘れていたとしても、それが彼の最後の記憶違いになる保証はなかった。
第七章 最後の一行
夜明けが近づいていた。
私は新しい羊皮紙を取り出した。
これまでの旅を語る文章は、すでに十分な長さになっている。
だが、書物には終わりが必要だった。
終わりがなければ、読者はいつまでもページをめくり続ける。読者がいつまでもページをめくり続ければ、書き手はいつまでも責任を問われる。
世の中には、終わらない仕事が多すぎた。
私は最初に、こう書いた。
「ここに、イブン・バットゥータの旅のすべてを記した」
しばらく見つめてから、その一文を消した。
すべてを記した、と言い切ることはできない。
彼が語らなかったことがある。
彼が忘れたことがある。
私が聞き損ねたことがある。
聞いても理解できなかったことがある。
そして、私が理解したつもりで書いてしまったことも、おそらくある。
私は次に、こう書いた。
「ここに、イブン・バットゥータの旅について、私が聞き、記すことのできたものを記した」
それならば、嘘ではない。
完全でもないが、少なくとも完全だと偽ってはいない。
私は、その一文を残すことにした。
しかし、まだ最後の一行が必要だった。
私は窓を開けた。
夜の冷気が部屋に入り、羊皮紙の端をかすかに揺らした。
街のどこかで、朝の支度をする音がした。
パンを焼く者がいるだろう。
水を運ぶ者がいるだろう。
市場を開く者がいて、家族のために食事を用意する者がいるだろう。
その者たちの名前を、私は知らない。
彼らの仕事は、私の書物にはほとんど記されない。
それでも、彼らは今日も生きている。
王の名が記されても、王国のすべてが記されるわけではない。
旅人の名が記されても、旅のすべてが記されるわけではない。
一冊の書物が終わっても、世界が終わるわけではない。
私は筆を取り、最後の一行を書いた。
「ここに記したものが旅のすべてではない。ただ、私たちが聞き、覚え、確かめ、そして確かめきれなかったことの記録である。」
書き終えると、私は筆を置いた。
最後の一行は、思っていたほど劇的なものにはならなかった。
誰かの秘密を暴くこともなければ、すべての謎を解くこともない。
消えた名前は戻らず、小さな傷の由来も分からないままだった。
黄金の要塞がどこにあったのかも、北方の道を誰が歩いたのかも、私には断言できない。
それでも、これでよかった。
私は書物を閉じた。
表紙の上には、題名が記されていた。
『大旅行記』。
それは、ひとりの旅人が見た世界の記録であり、ひとりの老人が語った世界の記録であり、ひとりの書き手が理解しようとした世界の記録だった。
そして、読む者がそこから別の世界を想像するための記録でもある。
私は、最後にもう一度、机の上を見た。
紙片の束は、きれいにはまとまっていなかった。
同じものをひとつにまとめず、異なるものを無理につなげなかったからだ。
その不揃いな束の端に、小さな傷のある羊皮紙が一枚残っていた。
私はそれを取り上げ、裏返した。
何も書かれていなかった。
ただ、紙の表面に、浅い引っかき傷がひとつあった。
それが誰かの意図によるものなのか、長い年月のあいだに生じたものなのか、私には分からなかった。
私はその紙を、ほかの断片とともにしまった。
そして、記録を終えた。
少なくとも、私が書くべき記録は。
世界のほうは、私の許可を求めることなく、その先へ進んでいった。
【 ジュザイイーが亡くなったのは、西暦一三五六年。『大旅行記』を書き終えた年と、ほぼ同じ時期です。 伝記資料では、フェズで亡くなり、埋葬された日についても記録が伝わっています 】




