第十四話 記録されなかった人々
第十四話 記録されなかった人々
第一章 歴史に登場しない者たち
フェズの朝、市場はいつものように騒がしかった。
商人たちは布の値段を争い、荷運び人たちは道を空けろと叫び、パン屋の前には朝食を買い求める者たちが並んでいた。誰もが自分の用事を抱え、誰もが自分の一日を生きていた。
しかし、後世の歴史書に彼らの名が載ることは、まずないだろう。
王が市場を通れば、年代記は王の名を記す。
遠国の使節が訪れれば、記録係は使節の出身地や贈り物を書き留める。
だが、王の馬に水を飲ませた少年や、使節の荷を運んだ男や、道を掃除した女の名は、たいてい残らない。
それらの人々が重要でなかったからではない。
記録する者が、彼らの名を必要としなかったからだ。
イブン・ジュザイイーは、机の前でそのことを考えていた。
前夜、彼はイブン・バットゥータの話を記録し終えたあと、これまでに書いた旅の記述を読み返していた。そこには、多くの国と都市、多くの君主と法官、商人と学者が登場する。
しかし、旅人が歩いた道を整えた者は誰だったのか。
船の帆を縫った者は誰だったのか。
宿で食事を用意し、病人を看病し、旅人が眠っている間に盗賊を警戒した者は誰だったのか。
彼は、そのほとんどを知らなかった。
「何をそんなに難しい顔で読んでいる」
バットゥータが部屋に入ってきた。
「自分の書いたものです」
「それは難しい顔にもなるだろう。自分の書いたものを読んで、いつも満足している人間は、たいてい他人の書いたものを読む必要がない」
「あなたの話を記録していて、気づいたのです。旅の記録には、旅人の周りにいた人々が、ほとんど登場しません」
「そうか?」
「あなたが出会った王や学者については、何ページも書けます。しかし、あなたに食事を運んだ者の名は、ほとんど残っていません」
老人は椅子に腰を下ろした。
「それなら、そいつらの名前を聞いておくべきだったな」
「名前を聞いていないのです」
「では、今さら聞くこともできない」
あまりにも簡単な答えだった。
ジュザイイーは、机の上の羊皮紙を見た。
記録されなかった人々について書こうとしているのに、その人々の名前を知らない。知らない名前を記すことはできない。想像で補えば、今度は自分が、彼らを別の形で消してしまうかもしれない。
「せめて、彼らがいたことを書けないでしょうか」
「書くのは自由だ」
バットゥータは言った。
「ただし、いたことを書くのと、何をしたかを書くのは違う。何をしたかを書くのと、何を考えていたかを書くのも違う」
「わかっています」
「本当に?」
老人は笑った。
「お前は、私の話を正確に書こうとしている。だが、正確さを求めるほど、書けないことが増えるぞ」
ジュザイイーは答えなかった。
それでも、書けないことが増えるのなら、その増えた分を、書けないまま残す方法を探すべきだと思った。
第二章 荷を運ぶ男
バットゥータは、昔の旅について話し始めた。
ある港町で、彼は船を乗り換えるため、荷物を一人の男に預けたという。男は無口で、仕事が早く、荷の扱いが丁寧だった。
その男は、バットゥータの書物を包んだ布が緩んでいることに気づき、紐を結び直した。船に荷を積み込むときには、濡れた床を避け、箱を高い場所へ置いた。
「私は礼を言った。男はうなずいただけだった」
「名前は?」
「聞かなかった」
「出身地は?」
「知らない」
「年齢は?」
「見たところ、私より若かった」
「そのとき、あなたは何をしていたのです?」
「船主と運賃の交渉をしていた。私は旅人だったからな。荷運び人の名前より、船の値段のほうが気になった」
ジュザイイーは筆を止めた。
その男がいなければ、荷が無事に船へ運ばれなかったかもしれない。書物が濡れ、旅の記録の一部が失われていた可能性もある。
だが、男は旅の記録に登場しない。
「その男が、あなたの旅を支えたことは確かですね」
「そうだろう」
「では、彼はこの書物の一部に関わっている」
「お前は、荷運び人を学者の仲間に加えるつもりか?」
「そういうことではありません」
「ならば、書き方には気をつけろ。男は荷を運んだのであって、私の思想を育てたわけではない」
ジュザイイーは苦笑した。
確かに、名も知らぬ男を物語の中で必要以上に立派な人物に仕立てることも、別の種類の歪曲になる。
記録されなかった人々を取り戻そうとして、彼らに都合のよい役割を与えてしまえば、結局は書き手の物語に利用するだけだ。
「では、こう書きます。あなたの書物が残った背景には、名を知られない荷運び人の働きがあったかもしれない、と」
「それならよい。『かもしれない』を忘れるな」
「あなたは、私の文章にずいぶん厳しいのですね」
「私の話が後世に残るのだろう?」
バットゥータは胸を張った。
「ならば、少しくらい慎重になってもらわねば困る。私が誇張したところまで、お前が確かな事実として書いたら、後世の人間は二人分の誤りを読むことになる」
「あなたが誇張しなければよいのでは?」
「それは、旅人に翼を持つなと言うようなものだ」
ジュザイイーは笑い、男の話を記録した。
名前はない。 出身地も、家族も、後の人生もわからない。
ただ、ある港で一人の男が荷を丁寧に扱ったという話だけが、ここに残った。
それは、その男の人生の記録ではなかった。
しかし、彼が世界から完全に消えてしまうことを、ほんのわずかに遅らせる記録ではあった。
第三章 名前を持たない働き
数日後、ジュザイイーは町の書記を訪ねた。
その書記は、役所で扱われる文書について詳しかった。税の徴収、土地の貸借、商品の移動、労働の割り当て。彼の仕事は華やかではなかったが、日々の生活に関わる記録を数多く扱っていた。
ジュザイイーは、記録に名前が残らない人々について尋ねた。
書記は、不思議そうな顔をした。
「名前が残らないとは、どういう意味です?」
「たとえば、大きな建物が建てられたとします。記録には命令を出した君主や、建設費を負担した者の名が残る。しかし、石を運んだ者や、土を掘った者の名は残らないことがあります」
「それは当然でしょう。すべての労働者の名を書いていたら、建物より記録のほうが大きくなります」
「では、彼らの名は必要ないのですか」
「必要かどうかは、何を記録するかによります。賃金を支払うためなら必要です。仕事の割り当てを確認するためにも必要でしょう。後世の者が彼らの人生を知りたいかどうかは、役所の仕事ではありません」
書記の答えには、悪意がなかった。
彼はただ、自分の職務を説明していた。
記録は、目的に応じて作られる。
税を集める記録は、税を集めるために作られる。土地の所有を確認する記録は、誰がその土地を所有するのかを明らかにするために作られる。
そこに名前が残るかどうかは、その目的に左右される。
後世の歴史家が必要とする情報と、当時の役人が必要とした情報は、必ずしも一致しない。
「もし、労働者の名が記録に残っていたとしても、その者が何を考えていたかまではわかりませんね」
ジュザイイーが言うと、書記はうなずいた。
「もちろんです。名前が書いてあるだけですから」
「では、記録に名があることと、その人物を知っていることは違う」
「そうでしょうな。私の名前も、役所の文書には何度も出てきます。しかし、それを読む人が私のことを知るわけではありません」
書記は笑った。
「その文書を読んだ者が、私を立派な人間だと思うか、無能な人間だと思うか。それは、私が死んだ後の話です。できれば、どちらも困りますがね」
ジュザイイーは、彼の言葉を記録しなかった。
代わりに、覚えておこうと思った。
記録に名前がある者も、名前のない者も、その記録の外側に人生を持っている。
ただし、名のある者には、後世の人間がその人生を想像するための手がかりが残る。
名のない者には、その手がかりさえ残らないことが多い。
その差は小さくない。
第四章 ひとりの女の証言
町から戻る途中、ジュザイイーは、荷車のそばで布を繕っている女を見かけた。
彼女は、ある商人の家で長く働いていたという。ジュザイイーが古い記録について考えていると話すと、女は手を止めずに言った。
「記録に残るのは、主人の名前ばかりですよ」
ジュザイイーは足を止めた。
「あなたは、何か記録に関わる仕事をしていたのですか」
「記録を作る仕事ではありません。けれど、主人がどこへ出かけたか、誰が家を訪ねてきたか、何を買い、何を売ったか。私はたいてい知っていました」
「それなら、多くのことをご存じなのですね」
「知っていることと、証明できることは違います」
女は針を布から抜いた。
「主人が旅に出たとき、誰が家の仕事を引き受けたか。主人が帰ってきたとき、誰が食事を用意したか。主人が病気になったとき、誰が夜通し看病したか。そういうことは、主人の記録には書かれません」
「あなたの名前も?」
「書かれたことはありませんね」
「それは不公平だと思いませんか」
女は少し考えた。
「不公平かどうかは、私が決めることです。記録に名前がないからといって、私が自分の人生を知らないわけではありません」
その答えに、ジュザイイーは言葉を失った。
彼は、記録されなかった人々について考えるとき、彼らが歴史から消されているのだと考えがちだった。
しかし、この女は自分が誰であるかを知っている。
彼女は、記録に名前がないことを、人生そのものがなかったこととは考えていない。
「それでも、後世の人間はあなたのことを知ることができません」
ジュザイイーが言うと、女は針を持ち直した。
「後世の人間が、私を知る必要があるのでしょうか」
その問いには、答えがなかった。
歴史に名前を残すことは、すべての人間の望みではない。名前を残したくない者もいるだろう。自分の暮らしを、遠い未来の見知らぬ人々に語られたくない者もいるだろう。
記録に残らないことは、常に不幸なのか。
記録に残すことは、常に善なのか。
ジュザイイーは、すぐには決められなかった。
「ただ、あなたが話してくれたことは、私の記憶に残ります」
彼がそう言うと、女はうなずいた。
「ならば、覚えておいてください。主人が旅をしたことだけが、その家の歴史ではなかった、と」
ジュザイイーは、その言葉を忘れないようにした。
女の名は聞かなかった。
聞いてもよかったのだろう。
しかし、名前を聞き、それを記録することが、彼女の望みであるかどうかはわからなかった。
彼は、彼女の言葉だけを覚えて帰った。
第五章 記録の外側
その夜、ジュザイイーは自分の書きかけの文章を読み返した。
そこには、名のない荷運び人の話がある。
役所の記録に名前を残す書記の話がある。
そして、主人の旅を支えながら、自分の名は記録されなかった女の話がある。
三人は、それぞれ異なる場所に生きていた。
荷運び人については、バットゥータの記憶しかない。
書記については、役所の文書という制度がある。
女については、本人の証言がある。
どの話にも、それぞれの限界がある。
記憶は変わることがある。
役所の文書は、作成された目的の外側にある情報を残さないことがある。
証言は、語り手が経験した範囲を超えて、すべての事情を明らかにするわけではない。
それでも、どれか一つを無価値だと決めつける理由にはならない。
ジュザイイーは、記録の余白に書きつけた。
――人々は、記録に残るために生きるのではない。記録は、人々が生きたことの一部を、後から拾い上げるにすぎない。
彼は、その文をしばらく眺めた。
美しい文だと思った。
美しい文は、危険でもある。
言葉が整いすぎると、複雑な現実が、その言葉の中に収まってしまったように感じられるからだ。
彼は続けて書いた。
――ただし、記録に残らなかった人々について語るとき、彼らが何を考え、何を望み、何を恐れていたかを、根拠なく決めてはならない。
そして、もう一行。
――彼らを歴史に戻そうとする者もまた、彼らを自分の物語の中へ閉じ込める危険を持つ。
筆先が止まった。
彼は、名のない荷運び人を勇敢な英雄として描くことができる。女を、主人に抑圧された悲劇の人物として描くこともできる。役所の書記を、冷淡な制度の象徴として描くこともできる。
だが、それらは、彼らが実際にどう生きたかを示すものではない。
記録されなかった人々を語ることは、彼らに声を与えることではない。
彼らの声がどこまで残っているのかを、確かめ続けることなのだ。
第六章 誰のための記録か
翌日、バットゥータは、ジュザイイーが書き足した文章を読んだ。
「お前は、私の旅を記録するつもりだったのではなかったか」
「そうです」
「いつの間にか、私の荷を運んだ男や、商人の家で働く女の話まで書いている」
「あなたの旅は、あなた一人で成り立っていたわけではありません」
「それはそうだ。だが、私の話を聞くために書き手を雇った者が、女中の人生まで知りたがるだろうか」
「読者が何を知りたがるかは、まだわかりません」
「読者というのは、便利な存在だな。ここにいないから、何でも期待させられる」
バットゥータは文章を机に置いた。
「お前は、何を残したいのだ」
ジュザイイーは答えを探した。
旅の記録を完成させること。それは彼の仕事だった。
バットゥータが見た世界を、読者に伝えること。それも目的だった。
しかし、旅人の視点だけでは、世界のすべてを描くことはできない。旅人が目に留めなかったものは、旅人の記憶には残らない。記憶に残らなかったものは、語られることもない。
それでも、彼はバットゥータの旅を、別の誰かの人生の記録に置き換えることはできなかった。
「あなたが見た世界を残したいのです」
彼は言った。
「そして、あなたが見なかったものがあることも、忘れないようにしたい」
老人はしばらく黙っていた。
「それは難しい仕事だな」
「そう思います」
「私が見なかったものを、お前が見たわけではない。お前が見なかったものを、私が知っているわけでもない」
「はい」
「それでも書くのか」
「書ける範囲で」
バットゥータは、満足したようにうなずいた。
「ならば、私の話も書いてくれ。私が見たものも、私が見なかったものも。ただし、私が見なかったものを、見たことにしてはならない」
「わかっています」
「それから、荷運び人の話も、忘れずに書け」
「名前も知らないのに?」
「名前を知らないことまで書けばいい。お前は、そういうことを考えるのが好きなのだろう」
ジュザイイーは微笑んだ。
記録には、目的がある。
目的がある以上、何を残し、何を残さないかを決めなければならない。
すべてを残すことはできない。
だが、残さなかったものがあるという事実を、記録の外へ追いやらずに済む方法はあるかもしれない。
その方法が正しいのか、彼にはまだわからなかった。
第七章 消えた名の行方
数日後、ジュザイイーは、これまでに集めた文書の写しを整理していた。
王の名が書かれた年代記。
旅人の証言をまとめた記録。
門について記された、出所のわからない羊皮紙。
そして、役所の仕事に関する覚え書き。
一枚一枚を並べると、それぞれの紙には異なる目的があり、異なる書き手がいて、異なる事情があった。
そこに書かれた名前を、ただ一つの歴史へと並べ直すことはできる。
だが、そのとき、記録されなかった人々はどこへ行くのだろう。
歴史の外側へ押し戻されるのだろうか。
それとも、記録に名がないという事実そのものが、彼らの存在を考える手がかりになるのだろうか。
ジュザイイーは、名のない羊皮紙を取り出した。
そこには、ある名が記されなかった可能性が残っている。
しかし、名前を削られた人物がいたのかどうかさえ、確定できない。
この紙を見た後世の者が、誰かの陰謀を想像するかもしれない。
あるいは、記録の不備だと考え、何の意味もないものとして片づけるかもしれない。
どちらも、今の段階では可能だった。
ジュザイイーは、羊皮紙をほかの文書と同じ場所へ戻した。
その横に、新しい覚え書きを置いた。
――記録されなかった人々について、私たちは多くを知らない。その無知を、彼らの人生についての確かな物語で埋めてはならない。しかし、知らないという理由だけで、彼らの存在を考えることまでやめてはならない。
彼は読み返し、余計な言葉を削った。
それから、書物の続きに向き直った。
バットゥータの旅は、まだ終わっていない。
語られるべき出来事も、記録すべき都市も、名を残す君主も、これから先に現れるだろう。
その旅の記録は、きっと多くのことを伝える。
同時に、多くのことを伝えない。
ジュザイイーは、その二つを忘れないようにしようと思った。
歴史は、記録された者たちだけでできているのではない。
だが、記録されなかった者たちの人生を、後世の書き手が自由に作り上げてよいわけでもない。
その間に、狭く、歩きにくい道がある。
彼は、その道を見つけようとしていた。
そのとき、部屋の入口から声がした。
古い文書を扱う商人が、ジュザイイーに面会を求めているという。
男は、一枚の写しを持ってきたらしい。
それは、ある役所の記録から取られたものだという。
そこには、複数の人名が並んでいる。
そのうちの一つだけが、別の筆跡で書き足されていた。
そして、その名の横には、短い注記があった。
――この者については、記すな。
ジュザイイーは筆を置いた。
またしても、名があった。
またしても、記すなという言葉があった。
しかし今度は、名前そのものが残っている。
それは削られた名なのか。
削ることを命じられながら、誰かがあえて残した名なのか。
それとも、後世の誰かが、古い紙に新しい意味を与えたのか。
まだ何もわからない。
ジュザイイーは、商人を部屋へ通すように告げた。
今度こそ、名前の持ち主について何かがわかるかもしれない。
だが彼は、期待と同じくらいの慎重さを胸に抱いていた。
名が見つかったからといって、その人物の人生が見つかったわけではない。
そして、誰かがその名を消そうとしたのだとしても、消そうとした理由まで、紙の上に残っているとは限らない。




