第十三話 羊皮紙の墓標
第十三話 羊皮紙の墓標
第一章 名前のない墓
フェズの夜は、昼間よりも正直だった。
昼間には人が多すぎる。商人は品物を褒め、役人は規則を説明し、学者は自分の知識がどれほど古く、どれほど確かなものであるかを語る。誰もが何かを知っているような顔をしている。
夜になると、それらの顔は暗がりに沈む。
残るのは、灯火と、紙の擦れる音と、明日になればまた誰かが忘れるであろう話ばかりだった。
イブン・ジュザイイーは、机の上に一枚の羊皮紙を置いていた。
表には、門についての短い記述がある。ある命令が下され、ある門が開かれた。しかし、その命令を出した者の名は記されていない。
裏には、別の筆跡で一行だけ書かれていた。
――その名を記すことは許されなかった。
以前から何度も読み返している文だった。
読み返すたびに、彼は同じ疑問に戻る。
誰が、誰に、何を許さなかったのか。
そして、なぜ後世の誰かは、その禁止の事実だけを残したのか。
「その紙を、ずいぶん熱心に眺めているな」
声をかけたのは、イブン・バットゥータだった。
老いた旅人は、いつものように疲れた様子で椅子に腰を下ろした。長い旅をした男は、座るという単純な行為にも、ようやく世界から許可を得たような満足を見せることがある。
「墓を見ているのです」
ジュザイイーが答えた。
「墓だと?」
「墓標、と言ったほうが正確かもしれません。死者の名がないのに、誰かがそこにいたことだけは示している」
バットゥータは羊皮紙を覗き込んだ。
「死者なら、名がないほうが都合のよいこともある。生きている親族が相続を争わずに済む」
「あなたは、何でも相続の話にするのですね」
「旅をして学んだことの一つだ。人間は遠い国へ行くためには命を懸けるが、近くの土地を相続するためには隣人の命を懸けさせる」
ジュザイイーは笑いかけて、やめた。
この紙には、冗談で片づけるには小さすぎる何かがあった。
それは歴史を覆す大発見の気配ではない。むしろ、歴史の端に押しやられた者が、最後に爪で引っかいたような痕跡だった。
第二章 紙の下に眠るもの
翌朝、ジュザイイーは羊皮紙を光にかざした。
紙の表面には、文字のほかに浅い筋がいくつも走っている。折り目とも、筆先が迷った跡とも見える。端の一箇所には、文字を削り取ったようなざらつきがあった。
そこには、かつて何かが書かれていたのかもしれない。
あるいは、最初から何も書かれていなかったのかもしれない。
紙は人間の疑いに対して、驚くほど沈黙を守る。
ジュザイイーは以前、同じような傷を持つ別の紙片を見たことがある。モルディブについての覚え書きだった。衣服に関する命令らしき記述のそばに、名前を削ったような痕があった。
二枚の紙を並べれば、何かがわかる。
そう考えるのは簡単だった。
しかし、二枚の紙に似た傷があるということは、二枚の紙が同じ事件に関わっているという証拠にはならない。羊皮紙を削る道具は特別なものではない。筆記者が名を訂正することも、紙が傷むことも、どこにでも起こりうる。
同じ傷を見て、同じ物語を想像することはできる。
だが、想像できることと、実際に起こったことの間には、長い道が横たわっている。
「何か読めたか」
バットゥータが尋ねた。
「いいえ。読めない部分が増えました」
「それは学問の進歩だな」
「どういう意味です?」
「何も知らなかった頃は、知らないことが一つしかなかった。調べ始めると、知らないことが十になる」
「あなたの旅も、そうでしたか」
「旅はもっとひどい。知らないことを知るために出かけ、帰る頃には、知らなかった場所まで増えている」
ジュザイイーは紙を机に戻した。
この老人の話は、ときに役に立つ。ときに役に立たない。そして、どちらであるかを決めるのは、たいてい聞き手の側だった。
第三章 墓標を読む者
数日後、ジュザイイーは、古い文書の整理を手伝っていた男から一つの話を聞いた。
男は、以前、ある書記の遺品を扱ったことがあるという。書記は生前、役所の記録を写す仕事をしていた。彼の遺した紙束には、完成した記録だけでなく、書き損じや、使いかけの紙片も混ざっていた。
その中に、奇妙な覚え書きがあったらしい。
「名前を残せば、その者がいたことになる。しかし、名前を残さなければ、その者がいなかったことにされる」
男は、文言を正確には覚えていなかった。
「誰が書いたのです?」
「さあ。書記本人かもしれませんし、別の誰かかもしれません。紙束の中にあったというだけです」
「その紙は今どこに?」
「残っていません。遺品を整理した者が、不要な紙として処分したそうです」
ジュザイイーは、しばらく黙った。
失われた文書についての証言は、便利なものだ。現物がないため、誰もその文字を確かめられない。証言者が悪意を持っていなくても、記憶の中で文言は整い、余計な部分は削られ、話の意味に合う形へと変わっていく。
それでも、その話を捨てることはできなかった。
証言が不確かであることと、証言に価値がないことは、同じではない。
「その書記は、何を記録していたのでしょう」
「役所の仕事です。税や土地や人の出入り。どこにでもある記録ですよ」
どこにでもある記録。
ジュザイイーは、その言葉を頭の中で繰り返した。
王の即位は年代記に書かれる。戦争の勝敗は詩人に歌われる。遠い国の珍しい風習は、旅人の話として残る。
では、税を納めた者の名は。
門を開けた者の名は。
命令に従わなかった者の名は。
それらは、誰かが残さなければ、誰の記憶にも留まらないまま消えていく。
墓標は死者のために立てられる。
しかし、羊皮紙の墓標は、死者だけのためにあるのではない。
そこには、記録する者が、誰を記録しなかったのかという問題まで埋め込まれている。
第四章 記録係の罪
その夜、ジュザイイーは自分の机に向かい、これまでの記録を読み返した。
バットゥータの旅の話には、王の名も、商人の名も、法官の名も現れる。都市の市場や宮殿、港、寺院についても書かれている。世界は広く、登場人物は多い。
だが、彼が記録してきたのは、語られたすべてではない。
老人が話を中断したとき、ジュザイイーは次の質問をした。老人が二つの出来事を続けて語ったとき、彼はそれを一つの章にまとめた。長すぎる説明を削り、重複する箇所を整え、読者が道筋を見失わないように順序を変えた。
それらは必要な仕事だった。
もし語られたことを一字一句そのまま書きつければ、書物は終わりのない記憶の倉庫になってしまう。読む者は、どこが重要なのかを見失うだろう。
しかし、選ぶということは、選ばなかったものを生むということでもある。
ジュザイイーは筆を持ち、記録の余白に短い文を書いた。
――記す者は、残すものを選ぶ。
彼はその文を見つめた。
それだけでは足りない。
――残されなかったものが、存在しなかったとは限らない。
これも、まだ足りない。
記録に名前がないからといって、その人物が意図的に消されたとは限らない。単に名前を知らなかったのかもしれない。聞き違えたのかもしれない。名前が長く、異国の発音に慣れない書記が省略したのかもしれない。
逆に、名前が記録されているからといって、その人物が本当にそこにいたことまで保証されるわけではない。誤写もあれば、虚偽もあり、後世の書き足しもある。
記録は証拠になる。
だが、記録そのものもまた、証明を必要とすることがある。
ジュザイイーは、二つの文を消さずに残した。
そして、その下にもう一つ書いた。
――記録係の罪は、必ずしも嘘を書くことではない。真実だと思ったものだけを、世界のすべてとして残してしまうことにもある。
書き終えたあと、彼は筆を置いた。
自分が今書いた文も、いつか誰かに読まれるだろう。
その誰かが、彼を責めるかもしれない。
あるいは、彼の言葉だけを残し、彼が何を削ったのかを問わないかもしれない。
第五章 老人の記憶
翌日、ジュザイイーはバットゥータに、これまでの旅で名を記録しなかった人物について尋ねた。
「あなたが会った人々の中には、名前を聞かなかった者もいるでしょう」
「もちろんだ」
「後になって、その人物が重要だったと気づいたことは?」
バットゥータは、すぐには答えなかった。
窓の外では、荷を運ぶ者が通りを歩いていた。誰かが値段を叫び、別の誰かがそれに文句をつけている。日々の暮らしは、後世の歴史家が期待するような意味深い沈黙を、めったに与えてくれない。
「ある港で、私の荷を運んだ男がいた」
やがて老人は言った。
「私はその男の名前を知らない。彼は私の荷を運び、代金を受け取り、去った。それだけだ」
「その男のことを、今も覚えているのですか」
「荷が一つ、海に落ちそうになった。男は自分の腕を傷つけてまで、荷を引き戻した。中には私の衣服と書物が入っていた。私は礼を言い、いくらか余分に払った」
「その出来事を、旅の記録に書きましたか」
「書かなかった」
ジュザイイーは、驚いた。
「なぜです?」
「そのときは、書くほどのことだと思わなかった。荷は助かった。男には金を払った。私は次の船に乗った。それで終わりだ」
「その男が誰だったか、もう知ることはできない?」
「知ることはできないだろう。名前を聞いていなかったのだから」
バットゥータは肩をすくめた。
「だが、あの男が私の書物を救ったことは事実だ。お前が今ここで書いているものの一部は、あの男が荷を落とさなかったおかげで、ここにあるのかもしれない」
ジュザイイーは、老人を見つめた。
それは大げさな話にも聞こえた。だが、旅の記録というものは、しばしばそのような無数の小さな出来事の上に成り立っている。
道を教えた者。食事を分けた者。船を修理した者。危険を知らせた者。
彼らの多くは、書物に名前を残さない。
しかし、その名が記録にないことは、彼らの働きがなかったことを意味しない。
「今からでも、その男のことを書けます」
ジュザイイーが言った。
「名前も場所も、正確にはわからないのに?」
「名前がわからないことも含めて、書くのです」
バットゥータは少し笑った。
「お前は、私をずいぶん扱いにくい老人に仕立て上げようとしているな」
「あなたは、すでに十分扱いにくい老人です」
「ならば、せめて荷運びの男には、私よりよい人物として書いてくれ」
「それでは、また記録を歪めることになります」
二人は笑った。
だが、ジュザイイーはその会話を忘れないようにした。
男の名は残せない。
その男の言葉も、顔も、正確には残せない。
それでも、名のない男が旅の一部を支えたという事実は、語ることができる。
記録とは、すべてを知っている者の仕事ではない。
知らないことを、知らないままに示すこともまた、記録の役目なのだ。
第六章 墓標の向こう側
数日後、ジュザイイーは問題の羊皮紙をもう一度取り出した。
今度は、これを解読するのではなく、記録として扱うことにした。
誰が書いたのかは不明。
いつ書かれたのかも不明。
どの門についての記述なのかも、確定できない。
文字の一部には削られたような痕があるが、それが意図的な削除なのか、単なる損傷なのかはわからない。
裏面には、名を記すことが許されなかったという一文がある。ただし、その文が表面の記述と同じ事件を指しているかどうかも、確かではない。
彼は、わからないことをわからないまま書き留めた。
それは華々しい仕事ではなかった。
王の名を確定し、失われた都市を発見し、歴史を覆す陰謀を暴く。そうした仕事に比べれば、何も決めずに不明点を列挙するのは、学者の怠慢のように見えるかもしれない。
だが、確かでないものを確かなこととして書くのは、怠慢よりも危険だった。
ジュザイイーは、羊皮紙の写しを作った。
写しの末尾に、彼は短い注記を添えた。
――この文書は、ある名が記されなかった可能性を示す。しかし、誰がその名を禁じたのか、また、何のために禁じたのかを証明するものではない。
彼はそこで筆を止めた。
一瞬、もっと劇的な文を加えたいと思った。
名を消された者は、誰だったのか。
その名を恐れた者は、何を隠そうとしたのか。
もしこの羊皮紙が、王朝の命令や、ある都市の陥落や、名もない反逆者の死に関わるものならば。
だが、それらはすべて仮定だった。
仮定を記すことはできる。
ただし、仮定を証拠の服に着替えさせてはならない。
彼は紙を閉じ、ほかの記録とともに保管した。
墓標は、死者のすべてを語るものではない。
そこに刻まれた名は、その人が生きた年月でも、愛したものでも、犯した過ちでもない。ただ、誰かがその人を忘れまいとしたことを示している。
名のない羊皮紙も、同じだった。
誰かが、ある名について書こうとした。
あるいは、書いてはならないと記した。
その理由は、まだわからない。
しかし、わからないという事実まで消してしまえば、いつか後世の誰かが、そこには最初から何もなかったと思い込むだろう。
第七章 次の名
その晩、ジュザイイーはバットゥータの語りを記録していた。
老人は、遠い国で出会ったある役人の話をしていた。役人の名は複数の形で伝わっており、土地の者たちも、同じ人物を指しているのかどうか、意見が分かれていたという。
「一人の男が、二つの名を持っていたのですか」
ジュザイイーが尋ねた。
「そうかもしれない。二人の男が似た名を持っていたのかもしれない。私が一人の男の話を、別の男の話と混ぜた可能性もある」
「あなたの記憶が間違っている可能性を、ずいぶん簡単に認めるのですね」
「年を取ると、自分の記憶を疑うほうが、記憶に頼るより安くつく。間違いを認めるのは無料だ。間違いを認めずに暮らすには、毎日新しい嘘を買わなければならない」
ジュザイイーは、その言葉を書き留めた。
書き留めながら、ふと気づいた。
彼が今記録している役人の名は、羊皮紙に残された名のない人物とは関係がないかもしれない。
だが、両者には共通する問題があった。
名前が一つに定まらないとき、歴史家は何をするべきなのか。
一つを選び、ほかを誤りとして捨てるのか。
すべてを並べ、読者に判断を委ねるのか。
それとも、どちらも確定できないと記し、答えのない場所を残すのか。
答えは、場合によって違うだろう。
大切なのは、わからないことを無理に一つの物語へ押し込めないことだった。
ジュザイイーは、役人の名を二つとも記録し、それぞれが伝えられた経緯を区別して書いた。
そして余白に、小さく付け加えた。
――同じ名が二つの人物を指すのか、二つの名が一人の人物を指すのか、今のところ確定できない。
書き終えたとき、彼は机の隅に置かれた羊皮紙を見た。
そこには、まだ誰の名もなかった。
それでも、その紙はもう、ただの傷ついた紙ではなかった。
誰かが名を記さなかった可能性と、それを確かめられないという事実。その二つが、並んで残されていた。
記録は、忘却に勝つための武器ではない。
少なくとも、いつもそうではない。
ときには、忘却がすでに起こったことを示す、小さな墓標にすぎない。
だが墓標が残るなら、後世の者はそこに立ち止まることができる。
そして、そこに眠る者の名を知らないままでも、問いを始めることはできる。
ジュザイイーは筆を置いた。
次に書き留めるべきものが何なのか、まだわからなかった。
ただ、次に現れる名が、誰かの記録から消えた名なのか、それとも最初から誰にも知られなかった名なのか。
その違いを、彼は今までよりも慎重に考えるようになっていた。




