第十二話 誰が歴史を書き換えたのか
第十二話 誰が歴史を書き換えたのか
第一章 書き換えられた歴史
「歴史を書き換えた者がいるとしたら、そいつは、ずいぶんと暇な人間ですな」
イブン・バットゥータは、そう言って笑った。
イブン・ジュザイイは笑わなかった。
机の上には、これまでに集めた記録が並んでいた。
大都を去ったという旅人の証言。
大都に滞在していたという別の証言。
黄金要塞についての伝聞。
名前を記すことが許されなかったと書かれた羊皮紙。
そして、モルディブで見つかった、名前の削られた記録。
それぞれの文書は、異なる場所から来たとされていた。年代も、書き手も、伝承の経路も一致していない。
それでも、ジュザイイには気になることがあった。
どの記録にも、何かが欠けている。
あるものは名前を欠き、あるものは日付を欠き、あるものは文書そのものが失われていた。
欠けた部分をつなげれば、ひとつの物語が見えてくるような気がした。
しかし、気がするというだけでは、何も証明できない。
「あなたは、歴史が書き換えられたと思いますか?」
ジュザイイが尋ねた。
バットゥータは、少し考えてから答えた。
「歴史というものが、最初から一冊の本に書かれていたのなら、書き換えることもできるでしょうな」
「そうでなければ?」
「人々の記憶、商人の帳簿、役人の記録、旅人の話。それらが別々に存在しているのなら、誰かひとりがすべてを書き換えるのは難しい」
「では、歴史は書き換えられないのですか?」
「いいえ。記録は書き換えられます。記憶も変わります。語られる話も変わる。ですが、それらが変わったからといって、必ずしも誰かがひそかに歴史を改竄したとは限りません」
ジュザイイは、筆を取った。
「では、何が起きたのかを調べる必要がありますね」
「そうですな」
老人は机の上の紙を見渡した。
「ただし、犯人を探す前に、まず事件があったのかを確かめなければなりません」
その言葉は、ジュザイイの胸に残った。
彼は、まだ事件そのものを証明していなかった。
第二章 最初の疑い
ジュザイイは、記録の食い違いを一覧にした。
大都を去った旅人と、滞在していた旅人。
皇帝の命令を運んだという使者と、その命令の内容を知らない証言者。
黄金要塞について語る商人と、要塞を直接見たことのない旅人。
そして、名前の削られた文書と、文字の上に残された傷。
彼は、それらをひとつずつ分類した。
日付の食い違い。
人物の同定の不確かさ。
伝聞の出所の不明確さ。
文書の欠落。
物理的な損傷。
並べてみると、同じ問題に見えていたものが、実際には異なる種類の問題であることが分かった。
大都の記録には、日付が不足していた。
黄金要塞の記録には、直接の目撃証言がなかった。
羊皮紙には、読めない文字と傷があった。
モルディブの文書には、削られた名前があったが、誰が、いつ、何のために削ったのかは分からなかった。
これらをすべて、誰かが歴史を書き換えた証拠とみなすことはできない。
ジュザイイは、そう結論づけた。
だが、疑いそのものを捨てることもできなかった。
もし、誰かが記録を変更したのなら。
もし、ある人物の名前を意図的に消したのなら。
もし、別々の時代に生まれた記録が、ひとつの出来事を隠すために利用されていたのなら。
その可能性を検討するためには、まず、どの記録が、どのような経路で伝わったのかを調べなければならない。
ジュザイイは、一覧の一番上に書いた。
――疑いは、調査の始まりであって、結論ではない。
書き終えたとき、彼は、自分が探しているものを少しだけ理解した。
犯人ではなかった。
まず、記録の来歴だった。
第三章 同じ手によるもの
ジュザイイは、羊皮紙の写しと、モルディブの記録を机の上に並べた。
二つの文書には、いずれも文字の欠落があった。
羊皮紙には、擦れた箇所と小さな点が残っていた。
モルディブの文書には、削られた名前と、その近くに小さな傷があった。
似ている。
しかし、同じではない。
彼は、二つの文書の傷を図に写し、それぞれの位置を比較した。
羊皮紙の傷は、文字の上を横切っている。
モルディブの傷は、削られた名前の近くにある。
形も、位置も、文書の状態も違っていた。
傷が似ているというだけでは、同じ人物が手を加えた証拠にはならない。
それどころか、傷の意味を判断するには、文書の材質や保存状態、書かれた時代についても調べる必要がある。
「何か見つかりましたか?」
バットゥータが尋ねた。
「二つの文書を、同じ手によるものと判断する根拠はありません」
「それは、何も見つからなかったということですか?」
「いいえ。少なくとも、似ているように見える傷だけでは、同じ事件に結びつけられないと分かりました」
「ずいぶんと遠回りですな」
「遠回りをしなければ、間違った近道を選んでしまうことがあります」
老人は、傷の写しを見た。
「では、この傷は何を意味するのでしょう?」
「分かりません」
「その答えにも、ずいぶん慣れてきましたな」
「私も、できれば別の答えを出したいのです」
ジュザイイは、二つの図を別々の束に戻した。
まだ、関連があるかどうかは分からない。
そのことを、記録に残した。
第四章 消された名前の持ち主
モルディブの記録を読み返していたジュザイイは、ひとつの疑問に立ち止まった。
名前が削られた人物は、誰だったのか。
法官だったのか。
漁網をめぐる争いに関わった者だったのか。
あるいは、裁判とはまったく関係のない人物だったのか。
彼が持っている記録からは、それを確かめられなかった。
名前が消されているという事実は、そこに名前があった可能性を示している。
だが、名前が消された理由までは示していない。
人名を消す理由はいくつも考えられる。
その人物を記録から排除したかったのかもしれない。
書き間違いを訂正したのかもしれない。
後世の書き手が、別の目的で手を加えたのかもしれない。
あるいは、保存の過程で傷んだだけなのかもしれない。
ジュザイイは、削られた部分をじっと見つめた。
もし、この人物が歴史の中で重要な役割を果たしていたなら、その名前が失われたことには意味があるだろう。
しかし、重要だったと考える根拠は、今のところ何もなかった。
彼は、自分の考えを記録に加えようとして、筆を止めた。
名前のない人物に、勝手な役割を与えることはできない。
記録から消された人物を取り戻そうとして、存在しなかった物語を作ってしまえば、それは別の形で、その人物を消すことになる。
ジュザイイは、名前のあった場所を写した図の下に、短く書いた。
――氏名不詳。削除の有無、時期、理由は未確定。
それから、もう一行。
――当該人物の身元を特定できる別資料は、現在のところ確認できない。
書き終えたとき、彼は少しだけ気持ちが軽くなった。
名前は戻らなかった。
しかし、名前が分からないという事実は、残すことができた。
第五章 記録を変える者
その日の午後、ジュザイイはバットゥータに、ある仮定を話した。
「もし、権力者が自分に都合の悪い記録を消そうとしたら、どうするでしょうか」
「まず、記録を書いた者を探すでしょうな」
「その者が、すでに死んでいたら?」
「記録を持つ者を探す」
「記録が各地に散らばっていたら?」
「すべてを集めるのは難しいでしょう」
「では、どうするのです?」
老人は、机の上の紙を指で叩いた。
「すべてを消す必要はありません。人々が何を信じるかを変えればよいのです」
ジュザイイは、顔を上げた。
「記録を消すのではなく、記録の意味を変える?」
「そうです。ある記録だけを何度も読み上げ、別の記録を読まないようにする。ある人物を英雄として語り、別の人物を忘れさせる。人々が何を知っているかだけでなく、何を重要だと思うかを変えるのです」
「それなら、文書を破壊する必要もありませんね」
「ええ。文書はそのまま残っていても、人々の記憶から消えることがあります」
ジュザイイは、しばらく考え込んだ。
それは、文書を物理的に改変することとは違う。
記録の選択、引用、解釈、伝承。
その過程で、同じ記録が異なる意味を持つことはあり得る。
しかし、ここでも区別は必要だった。
ある記録が後世に読まれなくなったとしても、それが誰かの意図によるものとは限らない。
失われた文書もあれば、単に伝わらなかった文書もある。
人々が忘れた出来事もあれば、最初から十分に記録されなかった出来事もある。
ジュザイイは、バットゥータの言葉を記録しながら、最後に注記した。
――記録の選択や解釈が、後世の理解を変える可能性についての考察。特定の人物が実際にそのような操作を行ったことを示す証拠ではない。
「また注意書きですか」
バットゥータが笑った。
「注意書きがなければ、あなたの仮定が、実際に起きた事件として読まれるかもしれません」
「君は、私の言葉を疑っているのですな」
「あなたの言葉を記録することと、すべてを事実として保証することは違います」
老人は、満足そうにうなずいた。
「それなら、君はよい書記になるでしょう」
第六章 歴史を書き換えたのは誰か
夜になり、ジュザイイは、これまでの記録をひとつの束にまとめた。
彼は、疑問を整理した。
誰かが名前を削ったのか。
誰かが日付を変えたのか。
誰かが別々の証言を結びつけたのか。
誰かが、黄金要塞の話を作り上げたのか。
そして、誰かが、存在しなかったことにされた人々の記憶を消したのか。
どの問いにも、答えはなかった。
しかし、問いの中には、すでにひとつの仮定が含まれていた。
誰かが、意図的に何かをしたという仮定である。
ジュザイイは、そこで筆を止めた。
もし、日付が間違って伝わっただけなら。
もし、別々の旅人の話が、後世にひとつにまとめられただけなら。
もし、名前が消えたのではなく、保存の過程で失われただけなら。
その場合、歴史を書き換えた犯人はいない。
それでも、現在の記録が、過去の出来事を正確に伝えていない可能性は残る。
「誰が歴史を書き換えたのか」
ジュザイイは、紙にその問いを書いた。
しばらく見つめたあと、その下に別の問いを加えた。
――本当に、誰かが歴史を書き換えたのか。
ふたつの問いは、似ているようで違っていた。
最初の問いは、犯人がいることを前提としている。
二つ目の問いは、そもそも何が起きたのかを確かめようとしている。
ジュザイイは、最初の問いに線を引いた。
消したのではない。
問いの順序を変えたのだ。
まず、記録が何を示しているのかを調べる。
次に、記録がどのように伝わったのかを調べる。
そして、意図的な改変があったと考えるだけの根拠が見つかったとき、初めて、それを行った者について考える。
その順序を守らなければ、疑いはいつの間にか確信へと変わってしまう。
第七章 最初の一行
翌朝、ジュザイイは、これまでの調査をまとめた紙をバットゥータに見せた。
「何か分かったのですか?」
「まだ、犯人は見つかっていません」
「犯人がいることも、分かっていないのでしょう?」
「はい」
「では、何が分かったのです?」
ジュザイイは、まとめた紙を指さした。
「記録には、食い違いがあります。名前が欠けている文書があります。由来の分からない羊皮紙があります。黄金要塞についての伝聞もあります。しかし、それぞれの問題を、ひとつの陰謀として結びつける証拠はありません」
「つまり、何も分からない」
「いいえ。少なくとも、何を根拠に疑っているのかは、分かるようになりました」
老人は、紙を手に取った。
「君は、歴史を書き換えた者を探しているのではなかったのですか?」
「最初は、そう思っていました」
「今は?」
「記録がどのように歴史を形作るのかを、調べています」
バットゥータは、しばらく黙っていた。
「それでは、犯人を見つけるよりも、時間がかかりそうですな」
「そうでしょうね」
「しかも、最後まで答えが出ないかもしれない」
「その可能性もあります」
老人は、紙を机に戻した。
「それでも続けるのですか?」
「はい」
「なぜ?」
ジュザイイは、答えを探した。
「誰かが歴史を書き換えたのなら、その痕跡を残したいからです。誰も書き換えていなかったのなら、何を根拠に疑いが生まれたのかを残したいからです」
バットゥータは、ゆっくりとうなずいた。
「どちらにしても、記録するのですな」
「はい」
老人は、窓の外を見た。
フェズの街では、人々が朝の仕事を始めていた。
商人は商品を運び、書記は文書を整え、旅人は次の町へ向かう準備をしている。
その中の誰かが、今日、何かを見た。
誰かが、誰かの話を聞いた。
誰かが、それを記録するかもしれない。
そして、記録されなかったものは、いつか忘れられるかもしれない。
ジュザイイは、新しい紙を一枚取り出した。
その一番上に、こう書いた。
――歴史を書き換えた者がいるかどうかを判断するため、まず、現存する記録の来歴と相互関係を調べる。
その下には、調べるべき項目を並べた。
文書の年代。
書き手。
伝承の経路。
本文の異同。
欠落や損傷の状態。
そして、複数の記録が一致する点と、食い違う点。
最後に、彼は小さく書き添えた。
――推測を事実として記録しないこと。
筆を置いたとき、ジュザイイは、まだ何ひとつ解決していないことに気づいた。
黄金要塞は見つかっていない。
大都の旅人の時間は、ひとつになっていない。
削られた名前の持ち主も分からない。
羊皮紙の傷も、何を意味するのか分からない。
それでも、彼の手元には、疑問を整理した記録が残った。
歴史を書き換えた者がいるのか。
それとも、時間と記憶と伝聞が、歴史を別の姿に変えてしまったのか。
その答えを出すには、まだ足りないものが多すぎた。
ジュザイイは、紙を束ねた。
そして、束の一番上に、もう一度だけ問いを書いた。
『誰が歴史を書き換えたのか?』
その問いの下には、今度は答えではなく、別の一行が続いていた。
その前に、私たちは、何が書き換えられたのかを知っているのだろうか。




