第十一話 羊皮紙に残された傷
第十一話 羊皮紙に残された傷
第一章 読めない一行
フェズの朝、イブン・ジュザイイは一枚の羊皮紙を机の上に置いた。
それは、大都の黄金要塞についての記録を探していた商人が、別の旅人から譲り受けたという古い文書だった。
羊皮紙は黄ばんでいた。端は擦り切れ、何か所かに折り目がついている。文字はアラビア語で書かれていたが、途中から筆跡が変わり、最後の数行はほとんど読めなくなっていた。
「これは、どこで手に入れたのです?」
イブン・バットゥータが尋ねた。
「東方から来た商人が持っていたそうです」
「その商人は、どこで手に入れたのです?」
「それは分かりません」
「では、君は?」
「私は、別の旅人から譲り受けました」
老人はうなずいた。
「紙よりも、その紙の旅のほうが長そうですな」
ジュザイイは羊皮紙を慎重に広げた。
最初の部分には、ある都市の門について書かれていた。
次の部分には、皇帝の命令らしきものが記されている。
そして、最後の部分には、短い一文があった。
――その名を記すことは許されなかった。
ジュザイイは何度もその一文を読み直した。
名前が記されていないのではない。
名前を記すことが許されなかった、と書かれているのだ。
そこには、何者かが意図的に名前を伏せたような印象があった。
「誰の名前でしょうか」
ジュザイイがつぶやくと、バットゥータは肩をすくめた。
「分かりませんな。皇帝かもしれない。役人かもしれない。命令を運んだ使者かもしれない。あるいは、名前を記すことを禁じられた人物かもしれない」
「それでは、何も分からないのと同じです」
「そうでしょうか」
老人は羊皮紙をのぞき込んだ。
「名前がないことと、名前を記すなと命じられたことは、同じではありません」
ジュザイイは顔を上げた。
その違いは小さく見えた。
しかし、前者は記録の欠落であり、後者は誰かの判断を示す言葉だった。
ただし、この文書が本当にそうした命令を記録したものなのかは、まだ分からなかった。
文書の出所も、書かれた年代も、書き手の名も不明だった。
彼は、最初の一行を書き留めた。
――出所未詳の羊皮紙に、名前を記すことが許されなかったとする記述あり。
その下に、さらに書いた。
――記述の意味および対象となる人物は未詳。
バットゥータは笑った。
「君は、謎を見つけるたびに、謎であることを記録しますな」
「謎であることを記録しなければ、いつか誰かが答えを作ってしまいます」
「答えを作るのは、楽しいものですぞ」
「間違った答えを歴史にしてしまうのは、もっと簡単です」
老人は、それ以上何も言わなかった。
第二章 羊皮紙の表と裏
ジュザイイは羊皮紙を裏返した。
裏面には、本文とは異なる筆跡で、短い文章が書かれていた。
文字は薄く、何度か擦られたように見える。
彼は、窓から入る光の角度を変えながら、一文字ずつ読み取った。
――門は開かれた。
そのあとに続く言葉は、傷と擦れによって判読できなかった。
「表の記述と関係があるのでしょうか」
ジュザイイが尋ねた。
「関係があるかもしれませんな」
「同じ人物が書いたのでしょうか」
「その可能性もあります」
「では、別の人物が書いた可能性も?」
「もちろんあります」
ジュザイイは息を吐いた。
「あなたは、どんな問いにも、可能性を増やして答えますね」
「君は、どんな問いにも、ひとつの答えを求めますな」
「ひとつの答えが欲しいのではありません。確かな答えが欲しいのです」
「確かな答えがひとつとは限りませんぞ」
老人は、羊皮紙の端を指さした。
そこには、小さな黒い点があった。
「これは何でしょう?」
ジュザイイは顔を近づけた。
点は、本文の文字とは異なる位置にあった。インクの染みかもしれない。筆先が触れた跡かもしれない。あるいは、長い年月の間に生じた汚れかもしれない。
「分かりません」
「よろしい」
バットゥータは満足そうにうなずいた。
「分からないときに、分からないと言えるのは、悪いことではありません」
「あなたがそれを言うのですか」
「私も、ときどきは正しいことを言います」
ジュザイイは、黒い点の位置を紙に写した。
それから、羊皮紙の傷をひとつずつ記録した。
縦に伸びた擦り跡。
本文を横切る細い線。
端に残された小さな点。
それらは、現時点では、何かを証明するものではなかった。
ただ、文書が現在の姿になるまでに、文字以外の変化を受けてきたことは分かった。
ジュザイイは、その変化がいつ、どのように起きたのかを知りたいと思った。
しかし、羊皮紙は答えなかった。
第三章 消された文字
数日後、ジュザイイは、古い文書を扱うことに慣れた書記を訪ねた。
その男は羊皮紙を見て、しばらく黙っていた。
「文字が消されていますな」
ジュザイイは身を乗り出した。
「誰かが、意図的に削ったのですか?」
「そうかもしれません」
「確かですか?」
書記は顔をしかめた。
「私は、削られたように見えると言っただけです。羊皮紙は長い年月で傷みます。表面が擦れ、文字が薄くなることもある。これだけで、誰かが文字を消したと断定することはできません」
「では、消された文字を復元できますか?」
「文字が残っていなければ、難しいでしょう」
「周囲の文章から推測することは?」
「できます。しかし、推測した文字を、元の文字だったと書くわけにはいきません」
ジュザイイはうなずいた。
「もし、削られた部分に人名があったとしたら?」
「その可能性はあります」
「もし、重要な命令が書かれていたとしたら?」
「それも、可能性としてはあります」
「もし、皇帝の名があったとしたら?」
書記はジュザイイを見た。
「あなたは、この羊皮紙を読む前から、そこに何が書かれていてほしいのかを決めていませんか?」
その言葉に、ジュザイイは黙り込んだ。
黄金要塞の話。
名前のない命令。
大都を去った旅人と、そこに滞在していた旅人。
それらは、ひとつの大きな謎につながっているように見えた。
だが、つながっているように見えることと、実際につながっていることは違う。
ジュザイイは、羊皮紙を取り戻した。
「ありがとうございます」
「その文書を、どこかの記録に結びつけるおつもりですか?」
「まだ分かりません」
「それなら、ひとつだけ覚えておいてください」
書記は静かに言った。
「消された文字を探すのは、読める文字を読むよりも難しい。読めない部分には、どんな言葉でも置けるからです」
帰り道、ジュザイイはその言葉を繰り返し考えた。
空白は、何も語らない。
だからこそ、人間はそこに、自分が聞きたい言葉を見つけてしまう。
第四章 名前のない人間
その夜、ジュザイイはモルディブでの出来事を記した自分の控えを取り出した。
パンツ一丁の法官。
漁網をめぐる争い。
人々の服装についての問答。
そして、名前の削られた古い記録。
あのときも、名前は失われていた。
削り跡の近くには、小さな傷が残っていた。
ジュザイイは、その傷の位置を写した紙を見つめた。
今回の羊皮紙にも、細い擦り跡と小さな点がある。
似ている。
だが、それだけだった。
紙の材質も、文書の出所も、書かれた時代も、同じであると確認できていない。
同じ手によるものだという証拠もない。
ジュザイイは、二つの記録を並べてみた。
どちらにも、欠けた部分がある。
どちらにも、文字以外の痕跡が残っている。
しかし、欠けた部分があるという理由だけで、同じ事件の一部だと考えることはできなかった。
「君は、また傷を眺めているのですか」
いつの間にか、バットゥータが部屋に入っていた。
「はい」
「傷は、何か語りましたか?」
「何も」
「では、なぜ見ているのです?」
「何も語らないことが、何かを意味する場合もあるからです」
老人は椅子に座った。
「それは危険な考えですな」
ジュザイイは顔を上げた。
「なぜです?」
「何も語らないものに意味を与えるのは、簡単だからです。人は、沈黙にも理由をつけたがる。名前がないのは隠されたからだ。文字が消えているのは誰かが消したからだ。傷が残っているのは、何かの印だからだ」
「では、傷に意味はないのですか?」
「意味がないとは言っていません。意味が分からないと言っているのです」
老人は、モルディブの控えを指で押さえた。
「この名前が削られたのだとしても、誰が削ったのかは分からない。削った者が隠したかったのか、後世の者が別の目的で消したのか、それとも傷んだだけなのか。今の君には決められない」
「それでも、名前がないことは事実です」
「ええ。そこから始めればよいのです」
ジュザイイは、二つの記録を別々の束に戻した。
関連があるかもしれない。
しかし、今はまだ、それを記録に書くことはしなかった。
第五章 記録を読む者
翌日、羊皮紙を持ってきた商人が再び訪ねてきた。
「何か分かりましたか?」
「いくつかの文字を読み取ることはできました。しかし、文書の由来も、書き手も、正確な年代も分かりません」
「では、黄金要塞についての記録だといえるのですか?」
「現時点では、そう断定できません」
商人は不満そうだった。
「ですが、門が開かれたと書いてあるのでしょう?」
「はい」
「皇帝の命令らしき言葉もある」
「そのように読める部分はあります」
「ならば、要塞が実在した証拠になるのでは?」
ジュザイイは首を横に振った。
「門が開かれたと書かれていることは、門についての記述が存在する証拠です。しかし、その門が黄金要塞の門だったことや、その要塞が元朝の領内にあったことまでは証明できません」
「では、この文書には何の価値もないのですか?」
「そうは言っていません」
ジュザイイは羊皮紙を商人の前に置いた。
「この文書が、どこから来たのか。誰が書いたのか。何について書かれているのか。それを確かめるための手掛かりにはなります」
「答えをくれない手掛かりですか」
「答えを与える手掛かりよりも、答えを間違えないための手掛かりが必要な場合もあります」
商人はしばらく黙っていた。
やがて、羊皮紙を丁寧に包み直した。
「あなたは、物語を面白くすることには興味がないのですか?」
ジュザイイは、少し考えた。
「あります」
「では、なぜもっと大胆に書かないのです?」
「大胆に想像することと、想像したことを事実として書くことは違うからです」
商人は苦笑した。
「あなたの記録は、ずいぶん慎重ですな」
「慎重でなければ、後世の誰かが、私の想像を事実だと思うかもしれません」
商人が帰ったあと、バットゥータが言った。
「君は、後世の人間が私たちをどう読むのか、ずいぶん気にしていますな」
「私たちの記録が、後世の人間に利用されることを考えています」
「よいことです。しかし、彼らが君の注意書きを読むとは限りませんぞ」
「それでも、書いておく必要があります」
「読まれないと分かっていても?」
「読まれる可能性があるかぎりは」
老人は、ゆっくりとうなずいた。
第六章 傷の位置
その日の夕方、ジュザイイは羊皮紙の傷を、もう一度記録し直した。
最初は、文字の判読を助けるためだった。
しかし、記録を続けるうちに、傷そのものが別の情報を持つ可能性に気づいた。
傷が文字を横切っているなら、傷ができた時期と文字が書かれた時期には、何らかの順序があるかもしれない。
文字の上に擦れがあるなら、書かれたあとに表面が傷んだ可能性がある。
逆に、傷の上から文字が書かれているなら、傷ができたあとに文字が加えられた可能性もある。
ただし、これらを正しく判断するには、実物を詳しく調べる必要があった。
ジュザイイの目だけでは、確実なことは言えなかった。
それでも、彼は傷の位置を写し、文字との重なりを図にした。
どの傷がどの文字を横切っているか。
どの部分が読めず、どの部分が薄れているか。
どこに、インクとは異なる点があるか。
彼は、意味を推測する前に、見えているものを記録した。
書き終えたとき、紙には羊皮紙の姿が簡単な図として残っていた。
そこには、黄金要塞も、皇帝も、名前を隠された人物も描かれていない。
ただ、文字と傷の位置が示されていた。
バットゥータがそれを見て言った。
「これでは、誰も面白い話を作れませんな」
「それが目的です」
「何も作らないことが?」
「この紙から何が分かるのかを、あとで確かめるためです」
「君は、未来の書記に仕事を残しているのですな」
「未来の書記が、私の間違いを見つけてくれるかもしれません」
老人は笑った。
「君は、未来の人間を信用しているのか、疑っているのか、分からなくなりますな」
「両方です」
ジュザイイは図を折り、羊皮紙とは別の場所に保管した。
文書の内容と、文書の状態。
その二つを分けて残しておけば、後世の者は、彼がどこまでを読み、どこからを推測したのかを確かめられる。
それは、答えを残すことではなかった。
答えに至るまでの道筋を、残すことだった。
第七章 羊皮紙の墓標
夜が深くなったころ、ジュザイイは一日の記録を整理した。
羊皮紙の本文には、門についての記述がある。
皇帝の命令らしき言葉がある。
名前を記すことが許されなかった、という一文がある。
裏面には、別の筆跡で、門が開かれたという言葉が残っている。
そして、いくつもの傷が、文字の一部を読めなくしていた。
これらは、すべて記録できる。
だが、黄金要塞が実在したことは、まだ証明できない。
名前を伏せる命令が本当に出されたのかも、分からない。
傷が意図的につけられたものなのかも、分からない。
ジュザイイは、最後にこう書いた。
――本羊皮紙は、門と命令に関する記述を含む。ただし、出所、年代、筆者、記述対象は確定できない。本文の一部には判読困難な箇所があり、文字の欠落が意図的なものかどうかも未詳である。
そのあとに、もう一行を加えた。
――現段階では、黄金要塞の実在を証明する資料として扱うことはできない。
彼は筆を置いた。
紙の上には、結論ではなく、限界が残った。
それでも、その限界を記録することには意味がある。
何が分かり、何が分からないのか。
何を見て、何を推測したのか。
その区別を失えば、記録はいつの間にか、書き手が信じたい物語へと変わってしまう。
ジュザイイは、羊皮紙の図を、以前の記録と同じ箱に入れた。
モルディブの法官についての控え。
大都をめぐる矛盾した証言。
黄金要塞についての伝聞。
そして、今回の羊皮紙。
それぞれは、別々の記録だった。
彼は、まだそれらを一本の線で結ばなかった。
しかし、いつか別の誰かが、それらを比較する日が来るかもしれない。
その者が、ジュザイイの判断を疑い、別の説明を見つける可能性もある。
そのとき、ジュザイイが残した傷の位置や、判読できなかった文字の記録が役に立つかもしれなかった。
羊皮紙は、死者の墓標に似ていた。
そこに名前が残されていれば、その人物が生きた証しになる。
だが、名前が消されていれば、墓標は誰のものか分からなくなる。
それでも、墓標があるという事実は残る。
ジュザイイは、箱の蓋を閉じた。
「記録に残らなかった人間は、存在しなかったことになるのでしょうか」
彼は、誰に向けるでもなくつぶやいた。
答えはなかった。
羊皮紙に残された傷は、何も語らなかった。
だが、何も語らないからといって、そこに何もなかったと決めることもできなかった。
その夜、ジュザイイはひとつのことだけを確信した。
記録の空白は、歴史の答えではない。
それは、まだ答えを見つけていない者に残された、問いの形なのだった。




