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第十話 旅をした者、旅を語る者

第十話 旅をした者、旅を語る者




第一章 語られた旅


フェズの朝、イブン・ジュザイイは一冊の帳面を開き、昨日までに書き留めた記録を読み返していた。


大都を去った旅人。


大都に滞在していた旅人。


そして、その二つの記録に日付の矛盾があったと語る、名も知らぬ商人。


三つの話は、ひとりの旅人を指しているように見えた。しかし、どの話にも、その旅人を確実に特定できるだけの情報はなかった。


「まだ、その男を探しているのですか」


イブン・バットゥータが尋ねた。


「男を探しているというより、男についての記録を探しています」


「同じことではありませんか?」


「違います。男は、すでに死んでいるかもしれません。記録なら、どこかに残っている可能性があります」


「そして、記録が見つかったら、その男が何をしたか分かると?」


「分かることが増えるかもしれません」


老人は椅子に腰を下ろした。


「君は慎重ですな。私なら、その男を大都へ戻し、皇帝に会わせ、北へ旅立たせてから、もう一度大都へ連れていきます」


「記録の上でですか?」


「物語の上でです」


「それなら、簡単です」


「では、なぜそうしないのです?」


ジュザイイは筆を置いた。


「あなたの旅を記録しているからです」


バットゥータは、少しだけ笑みを消した。


「私が語ることを、そのまま書けばよいのではありませんか」


「あなたが語ったことと、あなたが実際に経験したことは、必ずしも同じではありません」


沈黙が落ちた。


ジュザイイはすぐに言葉を継いだ。


「あなたが嘘をついているという意味ではありません。旅を終えた人間が、その旅を語るとき、記憶を整理し、順序を決め、意味を与えることは避けられないということです」


「つまり、私は旅を二度するのですな。一度は道の上で、もう一度は君の前で」


「そして私は、その二度目の旅を記録します」


「では、三度目は?」


「後世の人々が、その記録を読むときでしょう」


老人は笑った。


「ずいぶん長い旅になりそうですな」


ジュザイイは、帳面に一行を書き加えた。


旅をした者と、旅を語る者。


その二人は同じ人間であっても、まったく同じ存在ではなかった。




第二章 見たものと聞いたもの


その日の午後、ひとりの商人が訪ねてきた。


商人は西方から来たという別の旅人の話を持っていた。その旅人は、大都の近くで奇妙な出来事を目撃したと語ったらしい。


「その男は、皇帝の使者が城門を通るところを見たそうです」


ジュザイイは顔を上げた。


「使者の名は?」


「知りません」


「いつのことです?」


「分かりません」


「どこの城門です?」


「大都の城門だと聞きました」


「その旅人は、あなたの知人ですか?」


「いいえ。私の知人の知人です」


バットゥータが口を挟んだ。


「では、君はその男を見たことがないのですな」


「ありません」


「その男が話したところを聞いたことも?」


「ありません」


「それなのに、あなたは彼の話を信じている」


商人は困ったように頭をかいた。


「信じているというより、面白い話なので覚えていたのです」


「それなら問題ありません。面白い話を覚えておくことは、罪ではありませんからな」


ジュザイイは商人に、使者について何を聞いたのか、順番に話してもらった。


使者は金色の装飾を身につけていた。


門番は彼を見て、すぐに門を開けた。


使者は文書を持っていたが、誰にも見せなかった。


その場にいた者たちは、使者が皇帝の命令を運んでいると考えた。


話は細部に至るほど鮮明になった。しかし、鮮明になったのは、商人が直接見た場面ではなかった。


「その旅人は、使者が文書を持っているところを見たのですか?」


「そう聞いています」


「文書に何が書かれていたかは?」


「誰も知らないそうです」


「では、皇帝の命令だったというのも、見たことではありませんね」


商人はしばらく考えた。


「確かに、そうです」


ジュザイイは記録した。


――ある商人は、大都の城門を通過した使者についての伝聞を語った。使者が皇帝の命令を運んでいたという説明は、文書の内容を確認した結果ではなく、周囲の者たちの推測として伝わっている。


彼は筆を止めた。


話の中では、使者は皇帝の命令を運ぶ者だった。


しかし、記録に残せるのは、ある使者がいたという話と、その使者が何者だったのかについての推測だけだった。


物語は、推測を事実に変えることで、滑らかになる。


記録は、その滑らかさを少しずつ削っていく。




第三章 旅人の記憶


商人が帰ったあと、バットゥータは自分の旅について語り始めた。


「私がインドにいたころ、ある役人に会いました」


ジュザイイは筆を構えた。


「どこの町ですか?」


「大きな町でした」


「町の名は?」


「もちろん覚えています。しかし、今は話の続きが先です」


「失礼しました」


「その役人は、私にこう尋ねました。西方の国々では、裁判をどのように行うのか、と」


「あなたは、何と答えたのです?」


「イスラーム法に基づいて裁判を行うと答えました。すると、その役人は、自分たちの法と何が違うのかと尋ねたのです」


「その役人の名は?」


「君は、話を細切れにするのが得意ですな」


「名前がなければ、後世の人々がその人物を特定できません」


「名前を覚えているとは限りませんぞ」


「では、覚えていない場合は、そう記録します」


老人は肩をすくめた。


「役人の名は、忘れました」


ジュザイイは、その言葉を書き留めた。


「その役人は、どのような顔をしていましたか?」


「賢そうな顔でした」


「それは、役人が賢かったからですか。それとも、あなたがそう思ったからですか?」


バットゥータは、しばらく彼を見つめた。


「君は、私の思い出から、ずいぶんと多くのものを取り上げるつもりですな」


「取り上げるのではありません。何が思い出で、何が事実として確かめられるのかを分けているのです」


「では、私がその役人を賢そうだと思ったことは?」


「あなたの感想として記録できます」


「その役人が本当に賢かったことは?」


「別の証拠が必要です」


老人は笑い出した。


「なるほど。君にかかれば、私の旅は、役人の名前を忘れた老人の感想集になりそうですな」


「それでも、旅の記録であることに変わりはありません」


「そうでしょうか」


ジュザイイは答えなかった。


老人の記憶を疑うことと、老人が旅をしたことを否定することは違う。


だが、ひとつひとつの記述を確かめようとすれば、語られた旅は、老人自身が覚えている旅とは別の姿になっていく。


ジュザイイは、そのことを理解し始めていた。




第四章 似た話、違う場所


数日後、ジュザイイは古い旅行記の写しを手に入れた。


そこには、異国の旅人が東方の都市で役人に会い、土地の習慣について語り合ったという話が記されていた。


細部は異なるものの、バットゥータが語った話によく似ていた。


ジュザイイは、その部分を何度も読み返した。


役人の名はない。


都市の名はあるが、年代は明らかでない。


旅人の出身地についても、記述は曖昧だった。


それでも、話の骨格は似ていた。


異国の旅人。


土地の役人。


法や習慣についての問答。


ジュザイイは、バットゥータにその写しを見せた。


「この話を読んだことはありますか?」


老人は目を細めた。


「ありませんな」


「似た話が、別の旅行記にもあります」


「それで?」


「あなたの話が、この旅行記から借りられた可能性はありますか?」


「私が読んでいないものを、どうやって借りるのです?」


「あなた自身が読んでいなくても、別の人から聞いた可能性はあります」


「君は、私の話がどこから来たのかを知りたいのですな」


「はい」


「それは、私がどこへ行ったかを知ることよりも重要ですか?」


ジュザイイは、すぐには答えられなかった。


もし二つの話が同じ出来事を指しているのなら、どちらかが別の記録を参照したのかもしれない。


あるいは、似たような問答が、異なる土地で何度も行われたのかもしれない。


また、後世の書き手が、別々の旅人の経験をひとつの話にまとめた可能性もあった。


似ていることは、同じであることの証明にはならない。


違っていることも、無関係であることの証明にはならない。


「まだ分かりません」とジュザイイは答えた。


「それでよいのです」


バットゥータは、意外なほど穏やかに言った。


「私が旅をしたことを記録するのなら、私の話を聞けばよい。私の話がどこから来たのかを調べるのなら、ほかの記録も読めばよい。だが、どちらか一方だけで、すべてを説明しようとしてはいけません」


ジュザイイは、その言葉を記録しようとして、手を止めた。


老人は、まるで自分が何を言ったのか、すでに忘れてしまったような顔をしていた。




第五章 写しの中の旅人


ジュザイイは、手に入れた旅行記の写しを詳しく調べた。


紙は何度も折られ、端が擦り切れていた。文字の一部は薄く、書き手が誰だったのかも分からない。


しかし、ある箇所だけは、比較的はっきりと読めた。


――その旅人は、王の都に滞在し、土地の役人と法について語り合った。


ジュザイイは、自分の記録にあるバットゥータの証言と並べた。


役人との問答。


異国の習慣。


旅人が見聞を語る場面。


共通する要素はいくつもあった。


だが、地名も人物名も、十分には一致していなかった。


彼は、写しの余白に小さな印をつけた。


確定した関係を示す印ではない。


あとで再検討するための印だった。


そのとき、彼は、モルディブの記録に残されていた小さな傷を思い出した。


削られた名前のそばにあった、あの傷。


あれもまた、何かを示しているように見えた。


しかし、何を示しているのかは分からなかった。


二つの旅行記が似ていることと、削られた名前の傷とを結びつける証拠はない。


ジュザイイは、余白に書こうとした言葉を消した。


関連があるかもしれない。


その一文は、何も説明していなかった。


関連がないかもしれない。


その一文もまた、何も説明していなかった。


彼は、代わりにこう書いた。


――類似する記述を確認。成立時期、伝承経路、相互の影響については未詳。


それは、物語としては物足りない記録だった。


だが、物足りなさを埋めるために、証拠のない関係を作ることはできなかった。




第六章 書く者の選択


夕方、ジュザイイはバットゥータの語った旅の続きを書き進めた。


彼は、老人の言葉をすべて同じ重さで扱うことができないと気づいていた。


旅人が直接見たという出来事。


旅人が誰かから聞いたという話。


旅人が後になって思い出したこと。


旅人が土地の習慣について抱いた感想。


それらは、老人の口から出ると、ひと続きの旅になった。


しかし、記録の上では、それぞれの性質を区別しなければならない。


「あなたの話を、少し整理して書きました」


ジュザイイが言った。


「どのように?」


「直接見たことと、人から聞いたことを分けました。年代が確かなものと、確かでないものも、できるだけ区別しています」


「私の話を変えたのですか?」


「意味を変えないように、順序と表現を整えました」


「その二つは、同じではありませんな」


ジュザイイは筆を止めた。


老人は、穏やかな声で続けた。


「話の順序を変えれば、聞く者が受け取る意味も変わることがあります。ある出来事を先に語るのと、後に語るのとでは、同じ出来事でも印象が違うでしょう」


「では、どのように記録すればよいのです?」


「君が正しいと思うようにすればよいのです」


「それでは、私の判断が入り込みます」


「判断をしない人間が、記録を作れると思いますか?」


ジュザイイは黙った。


老人は続けた。


「君は、私の話をすべて書き写すことはできない。どこかを選び、どこかを省き、順番を決め、言葉を整える。そのとき、君はすでに記録の一部になっているのです」


「それでも、できるだけ正確に書きたいのです」


「それでよいのです。ただし、自分が何も選んでいないと思わないことですな」


ジュザイイは、その言葉を記録した。


今度は、老人の言葉だけでなく、それを聞いた自分の考えも書き添えた。


記録する者は、語り手の影に隠れることはできない。


たとえ自分の名を記さなくても、選んだ言葉と、選ばなかった言葉の中に、その者の判断は残る。




第七章 旅の終わり、記録の始まり


夜になり、バットゥータは帰り支度を始めた。


「今日は、ずいぶんと難しい話をしましたな」


「あなたが語った旅のことです」


「私は、もっと簡単な話をしたつもりでしたが」


「簡単に語ることと、簡単に記録できることは違います」


「それは、君の仕事です」


老人は立ち上がった。


「私は旅をしてきました。君は、それを記録する。後世の人々は、その記録を読む。みな、自分の仕事をすればよいのです」


「それぞれの仕事の間には、空白が生まれます」


「ええ」


「その空白を、誰かが勝手に埋めてしまうかもしれません」


「それもまた、人間のすることですな」


「では、私たちにできることは?」


バットゥータは扉のところで振り返った。


「空白があることを、忘れないことです」


老人が去ったあと、ジュザイイは机に向かった。


彼は、今日の記録を読み返した。


旅人が見たもの。 旅人が聞いたもの。


旅人が覚えていたもの。 そして、旅人の言葉を選び、整理した書記の判断。


そのすべてが、ひとつの旅行記を形作っていた。


ジュザイイは、帳面の最後に一文を書いた。


――旅をした者と、旅を語る者は同じである。しかし、旅を記録する者は、そのどちらとも同じではない。


しばらく考えたあと、彼はさらに書き加えた。


――後世の読者は、記録された旅を読む。そのとき、旅人の声だけでなく、書記の選択にも目を向ける必要がある。


筆を置いたとき、彼は、以前から気になっていた問いを思い出した。


大都を去った旅人と、大都に滞在していた旅人。


あの二つの記録は、同じ人物についてのものだったのだろうか。


それとも、別々の旅人の話が、いつかひとつにまとめられたのだろうか。


答えは、まだなかった。


ただ、もし後世の誰かが、二つの記録をひとつにまとめるなら、その者は何を根拠にそう判断するのか。


そして、もし二つの記録を別々のものとして扱うなら、その者は何を見落とすことになるのか。


ジュザイイは、どちらの可能性も消さなかった。


彼は、記録の余白に、小さく印をつけた。


それは、結論を示す印ではなかった。


問いを残すための印だった。


旅をした者は、いつか死ぬ。


旅を語る者も、いつか死ぬ。


しかし、記録は残る。


残った記録は、後世の人々によって読み直され、比べられ、疑われ、新たな意味を与えられる。


そのたびに、旅は別の形で語り直される。


そして、ときには、誰かが書かなかった一行が、書かれた何千行よりも大きな謎を残すことがある。


ジュザイイは帳面を閉じた。


旅をした者の記憶は、旅そのものではない。


旅を語る者の言葉も、旅そのものではない。


そして、記録されたものもまた、旅そのものではない。


それでも、人間は記録を残す。


失われたものを、すべて取り戻せると信じているからではない。


失われたものがあったことまで、忘れ去られないようにするために。


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