第九話 消えた大都のタイムライン
第九話 消えた大都のタイムライン
第一章 同じ町にいた二人
フェズの午後は、紙を乾かすには少し暑すぎた。
イブン・ジュザイイは窓を開け、机の上に並べた文書を風にさらした。紙の端がわずかに持ち上がる。彼は慌てて文鎮を置いた。
「紙は逃げませんよ」
イブン・バットゥータが言った。
「逃げるのは、いつも人間です」
「では、なぜ紙を押さえているのです?」
「人間が逃げたあとに、紙だけが残るからです」
老人は笑った。笑いながら、机の上の二枚の紙を見た。
どちらにも、大都の名があった。
大都。元朝の皇帝が住む都。異国の商人が集まり、役人が行き交い、金銀と絹が動く巨大な都市。
そして、二枚の紙には、同じ旅人が登場していた。
一枚目には、こうある。
――彼は大都を去り、北へ向かった。出立の日、城門には雪が残っていた。
二枚目には、こうある。
――彼は大都に滞在していた。皇帝の役人に会い、異国の旅人について語った。
ジュザイイは二枚を並べた。
「問題は、どちらが正しいかではありません」
バットゥータが眉を上げた。
「ほう。では何が問題なのです?」
「この二枚を、同じ旅人についての記録として読むなら、彼は大都を去ったあとに、もう一度そこへ戻らなければなりません。しかし、二枚目には帰還したとも、再訪したとも書かれていないのです」
「ならば、戻ったのではありませんか」
「その記録があれば、そう考えられます」
「ないのなら?」
ジュザイイは答えなかった。
老人は片方の紙を持ち上げ、光に透かした。
「記録にない帰還は、帰還しなかった証拠にはならない。だが、帰還した証拠にもならない」
「まったく、そのとおりです」
「君は、私の言葉を記録しているのですか?」
「今のところは」
「では、余計なことを言うのはやめましょう」
「それができる人なら、旅の記録など残らなかったでしょう」
バットゥータは声を立てて笑った。
ジュザイイは笑わなかった。
二枚の紙は、どちらも古びていた。だが、古いということは、正しいということではない。
紙の上では、二つの時間が同じ場所を占めていた。
第二章 雪のない季節
最初の記録を持ってきたのは、東方交易に関わる商人だった。
彼は大都を訪れたことのある人物から、その話を聞いたという。
「その旅人は、雪が残るころに都を出たそうです。北へ向かう隊商に加わったと聞きました」
「旅人の名は?」
「聞いておりません」
「誰から聞いたのです?」
「以前、絹を扱っていた男です」
「その男の名は?」
商人は困った顔をした。
「もう亡くなりました」
「その男は、旅人を直接見たのですか?」
「そこまでは存じません」
ジュザイイは筆を止めた。
「つまり、あなたは、誰かが誰かから聞いた話を、私に話しているのですね」
「そうなります」
「それでも、あなたはその話を信じている」
「商売では、誰の話も少しは信じなければなりません。誰の話もすべて信じていたら、私はとっくに破産していますが」
バットゥータがうなずいた。
「よい商人です。信じることと、金を渡すことを区別している」
商人は礼をしたが、褒められたのかどうか分からない顔をしていた。
次に、ジュザイイは季節について尋ねた。
「雪が残っていたというのは、何年の、何月の話ですか?」
「そこまでは」
「大都を出た日付は?」
「分かりません」
「北へ向かった道は?」
「分かりません」
「その旅人が、誰だったのかも?」
商人は少し考えた。
「旅人だったことだけは、確かだと思います」
バットゥータが笑った。
「それなら、世界中の人間が容疑者ですな」
商人が帰ったあと、ジュザイイは紙に短く書いた。
――大都を去ったとされる旅人についての伝聞あり。出立の日付、旅人の名、証言の直接の出所は不明。
彼はその下に、もう一行加えた。
――雪の記述は、季節を示すが、年月を確定しない。
書き終えてから、彼は二枚目の記録を見た。
そちらには、雪の話はなかった。
ただ、旅人が大都に滞在していたと書かれている。
どちらの紙も、年月を明確には示していなかった。
時間が食い違っているように見えて、実際には時間が足りなかった。
第三章 役人の証言
二枚目の記録について話したのは、ある書記だった。
彼は若いころ、東方から来た商人の荷物を検める役所で働いていたという。
「大都にいたころ、異国の旅人について書かれた文書を見ました。皇帝の役人が、その旅人に会ったと記していたのです」
「その文書は、あなたが書いたのですか?」
「いいえ」
「書いた人物は?」
「知りません」
「文書は今もありますか?」
「ありません」
「では、何が残っているのです?」
書記は少しむっとした。
「私の記憶です」
ジュザイイは頭を下げた。
「失礼しました。では、その記憶について教えてください」
書記によれば、旅人は大都に滞在し、役人に対して西方の国々について語ったという。役人はその話を興味深く聞き、いくつかの地名を書き留めた。
「その旅人は、いつ大都に来たのですか?」
「覚えておりません」
「いつ去ったのですか?」
「そこまでは記されていなかったと思います」
「文書には、旅人の名前がありましたか?」
「確か、あったと思います」
「その名前を覚えていますか?」
書記は口を開きかけ、閉じた。
「いいえ」
ジュザイイは、書記の表情を見つめた。
記憶は、嘘をつくためだけに曖昧になるのではない。
長い年月が過ぎれば、見たものと聞いたものが混じる。読んだ文章が、自分の目で見た場面のように思い出されることもある。
それでも、彼の証言を無意味だと切り捨てることはできなかった。
彼が本当に文書を見たのなら、その文書が存在した可能性はある。
だが、その文書に何が書かれていたかを、現在のジュザイイが確かめる方法はなかった。
「その役人の名は?」
「覚えておりません」
「役所の場所は?」
「大都のどこかです」
「どこか、ですか」
「大きな町でしたから」
バットゥータが横から言った。
「私も旅先の町をすべて覚えているわけではありません。覚えていたら、旅よりも記憶の整理に人生を使うことになったでしょう」
書記は救われたような顔をした。
ジュザイイは、彼の話を記録した。
ただし、最初の一文をこう変えた。
――ある書記は、かつて大都の役所で、異国の旅人に関する文書を見たと証言した。
そのあとに、証言の出所と限界を書き添えた。
「これでは、旅人が本当に大都にいたと証明できないのではありませんか」
書記が尋ねた。
「はい」
「では、なぜ記録するのです?」
「あなたがそう証言したことは、記録できますから」
書記は黙った。
それは、証言の内容と、証言が存在したという事実を分ける作業だった。
そして、その区別は、思っていたよりも冷酷だった。
第四章 ひとつの名前、ふたつの時間
その晩、ジュザイイは二枚の紙を机に置いた。
一枚目は、旅人が大都を去ったとする伝聞。
二枚目は、旅人が大都に滞在していたとする証言。
彼は二枚目の文書を見たという書記に、もう一度話を聞きたいと思った。しかし、その男はすでに旅立っていた。
どこへ行ったのかは分からない。
人間は、記録に残らないまま町を出る。
旅人であればなおさらだった。
ジュザイイは二枚の紙の余白に、それぞれの情報を書き出した。
最初の記録。
* 大都を去ったとされる。
* 北へ向かったとされる。
* 雪が残っていたという。
* 年月は不明。
* 直接の目撃者は不明。
二番目の記録。
* 大都に滞在したとされる。
* 皇帝の役人に会ったという。
* 地名を書き留めた文書があったという。
* 年月は不明。
* 文書の所在は不明。
二つを並べても、確実な矛盾は成立しなかった。
旅人が一度去り、後日戻った可能性はある。
そもそも、二つの記録が同じ人物についてのものではない可能性もある。
あるいは、同じ人物についての話が、年月を失ったまま別々に伝わったのかもしれない。
ジュザイイは、二枚の紙の間に細い線を引いた。
それは、つながりを示す線ではなかった。
つながりがあるかどうかを調べるための線だった。
「君は、二つの記録を結びつけたいのですか?」
背後からバットゥータの声がした。
「結びつけたいのではありません。結びつくかどうかを知りたいのです」
「違いは何です?」
「前者は答えを先に決めています。後者は、答えがないことを認めています」
老人は、机に近づいた。
「だが、答えがないままでは、読者は退屈するでしょう」
「だからといって、答えを作るわけにはいきません」
「物語なら?」
ジュザイイは顔を上げた。
「物語なら、作ることができます」
「では、歴史は?」
「歴史は、作った答えを事実として売り出すことを許しません」
バットゥータは、しばらく黙っていた。
やがて彼は、二枚の紙を見比べた。
「私の旅も、同じことかもしれませんな。私が見たもの、聞いたもの、あとから思い出したもの。それらは、語るときにはひとつの旅になります」
「記録するときには?」
「ひとつの旅にしなければ、聞いている者が困るでしょう」
「そのとき、何かが落ちる」
「ええ。落ちますとも」
老人は悪びれずに言った。
「すべてを話したら、旅は終わりませんからな」
第五章 大都のない一日
翌日、ジュザイイは年代を確かめるため、別の記録を探した。
隊商の出立記録、商人の帳簿、役人の任命に関する文書。大都の名が出てくるものを選び、旅人がいたとされる時期を絞ろうとした。
しかし、必要な年月は、どの記録にも見つからなかった。
ある帳簿には、北から絹が届いたとある。
別の記録には、同じ季節に別の隊商が大都を出たとある。
それらは交易が行われたことを示していたが、問題の旅人がそこにいたことまでは示していなかった。
ジュザイイは、商人の帳簿を脇へ寄せた。
「大都に人がいたことは分かります。隊商が動いたことも分かります。ですが、この旅人がいつ、どこにいたかは分からない」
「では、調べるのをやめますか?」
バットゥータが尋ねた。
「いいえ。分からないことが、どこまで分からないのかを記録します」
「それはずいぶんと手間のかかる仕事ですな」
「あなたの旅を記録するよりは、簡単かもしれません」
「おや。私はそんなに面倒な旅人でしたか?」
「あなたは、行った場所を覚えているだけでなく、行かなかった場所についても、ときどき詳しく語りますから」
バットゥータは一瞬、言葉を失った。
その沈黙を、ジュザイイは記録しなかった。
ただの冗談だったのかもしれない。あるいは、老人が自分の旅について何かを考えたのかもしれない。
沈黙には、日付も名前もついていなかった。
その日の夕方、ジュザイイは一枚の紙に結論を書いた。
――二つの証言は、同じ旅人を指す可能性がある。しかし、人物の同定に必要な情報が不足しており、時間の矛盾を確定することはできない。
彼はその文を読み返した。
短く、慎重で、面白みのない一文だった。
それでも、今ある証拠から書けるのは、そこまでだった。
第六章 消された日付
二日後、ジュザイイは奇妙な話を聞いた。
大都から持ち出されたという古い帳簿の中に、旅人の滞在日を示す記述があったというのだ。
その帳簿を見たと話すのは、別の商人だった。
「日付が書かれていたのですか?」
「そう聞いております」
「あなたは見たのですか?」
「いいえ。帳簿を見た男から聞きました」
「その男は、今どこに?」
「分かりません」
ジュザイイは目を閉じた。
また、伝聞だった。
「日付は何年でしたか?」
「それが、変なのです」
商人は声を落とした。
「帳簿にあった日付は、旅人がすでに大都を去ったとされる日より、あとだったそうです」
「どれほど、あとですか?」
「何か月か、と」
「何か月か、ですか」
「正確な数字は聞いておりません」
ジュザイイは、机の上に二枚の紙を置いた。
もし帳簿の話が正しければ、矛盾はより大きくなる。
だが、帳簿そのものはない。日付もない。帳簿を見たという男もいない。
残っているのは、帳簿があったという話と、その中に矛盾する日付があったという話だけだった。
「その帳簿には、旅人の名前が書かれていたのでしょうか?」
「はい。そう聞きました」
「その名前は?」
商人は答えられなかった。
「ならば、その帳簿の旅人が、最初の二枚の紙に登場する人物と同じかどうかも分かりません」
「しかし、同じ旅人だった可能性はあります」
「ええ」
ジュザイイはうなずいた。
「可能性はあります」
その言葉を聞いて、商人は少し不満そうな顔をした。
人は、話を持ってきたとき、何かを発見した人間として迎えられることを期待する。
ところがジュザイイは、彼の話を否定しなかった代わりに、発見とも呼ばなかった。
商人が帰ったあと、ジュザイイは記録にこう書いた。
――問題の旅人の滞在日を記したという帳簿について、伝聞あり。ただし、帳簿の所在、記載された日付、旅人の名、証言者の身元はいずれも確認できない。
それから、別の一文を加えた。
――この伝聞を、先の二つの記録と同一の人物に結びつける根拠は、現在のところ存在しない。
書き終えると、彼は筆を置いた。
記録の中に、三つ目の時間が生まれた。
しかし、三つ目の時間もまた、誰の一日だったのか分からなかった。
第七章 時間は誰のものか
その夜、バットゥータはジュザイイの机の前に座った。
「君は、今日も何も解決しなかったそうですな」
「解決しなかったことは、記録しました」
「それで満足ですか?」
「満足はしていません」
「ならば、なぜ続けるのです?」
ジュザイイは、二枚の紙と、三つ目の証言を記した紙を並べた。
「いつか、別の記録が見つかるかもしれません。旅人の名が分かるかもしれない。年月が分かるかもしれない。あるいは、三つの話がまったく別の人物についてのものだったと分かるかもしれません」
「何も見つからなかったら?」
「そのときも、今ある記録を残す意味はあります」
「なぜ?」
「後世の人が、私たちの知らなかったことを知るかもしれないからです」
老人は、紙を一枚ずつ見た。
「君は、後世の人間をずいぶん信用していますな」
「信用しているわけではありません」
「では、何を期待しているのです?」
「私たちよりも多くの記録を持つことです」
バットゥータは、声を立てずに笑った。
「それは、期待というより、仕事を押しつけているように聞こえます」
「記録する者は、いつも後世に仕事を残します」
「そして、後世の者は、前の時代の記録を疑う」
「疑わなければ、記録を読む意味がありません」
「信じなければ、どうやって読むのです?」
ジュザイイは考えた。
「信じることと、疑うことは、同時にできます。記録が残されていることを認めながら、その内容が正しいかどうかを考えるのです」
「難しいことですな」
「簡単なら、歴史家はいりません」
「では、旅人もいりませんな。行った場所をすべて正確に覚えていれば、旅の記録など不要でしょう」
二人は笑った。
そのとき、ジュザイイはふと、別の紙のことを思い出した。
モルディブの法官をめぐる記録。名前の削られた箇所。削り跡とは別に残されていた、小さな傷。
あの傷が何を意味するのか、彼は知らない。
大都の二つの記録と、あの傷を結びつける根拠もない。
ただ、どちらも、書かれたものを読むだけでは終わらない問題だった。
何が記録され、何が欠けているのか。
そして、欠けている部分を、自分の想像で埋めてしまってはいないか。
ジュザイイは、机の隅に小さく書いた。
――不明な箇所は、不明なまま残す。
それは、謎を解くための規則というより、自分が謎を作り出さないための規則だった。
大都を去った旅人は、いつ、どこにいたのか。
二つの記録は、同じ人物についてのものなのか。
その答えは、まだ見つからない。
だが、矛盾する記録が存在することと、歴史が改竄されたことは同じではない。
その違いを記すこともまた、記録する者の責任だった。
ジュザイイは最後に、三つの証言をまとめた紙を重ねた。
その一番上には、こう記されていた。
――大都にいた旅人について、複数の証言あり。証言は互いに一致せず、年月と人物の同定は未確定。
その下に、もう一行。
――矛盾は残る。ただし、矛盾の理由はまだ分からない。
彼は紙を束ね、紐で結んだ。
歴史は、すべての時間をひとつに並べてくれるわけではない。
ときには、同じ人物が、同じ日に、別々の場所にいる。
そして、記録する者にできるのは、その矛盾を消すことではなく、矛盾が存在することを、正確に残すことだけなのだった。
大都の時間は、まだひとつにならない。
そして、その時間をひとつにしようとする者が現れたとき、記録のどこかに、また別の傷が生まれるのかもしれなかった。




