第九話 氷点下の尋問
北市場の喧騒から離れた、奉天駅外れの使われていない満鉄の資材倉庫。
隙間風が吹き込む氷点下の暗がりの中で、権藤は丸椅子に縛り付けられていた。
速水がランタンの灯りを権藤の顔に近づける。権藤の口の端からは血が滴り、折れた肋骨が呼吸のたびに激痛を呼んでいるのか、彼の額には脂汗が浮いていた。
「さて、権藤曹長。本部へ連行する前の予備尋問だ」
速水が冷酷な声で言い、権藤が盗み出した物資の詰まった背嚢の中身、手榴弾や実包の束を床にぶちまけた。
「『最初から無かったことになっている武器』……どういうことか、一から説明してもらおうか。俺は補給の人間だ。嘘を吐けば、すぐに分かるぞ」
権藤は荒い息を吐きながら、私と速水を睨み上げた。
「……てめえらみてえな下っ端が知って、どうにかなる話じゃねえんだよ」
「それは、俺たちが決める」
私は手帳を取り出し、ペンを構えた。「話せ」
権藤は観念したように、血の混じった唾を床に吐き捨てて口を開いた。
「……二重帳簿だ。俺たち輸送部隊はな、表向きは『前線への弾薬補充』って名目で荷物を運ばされる。だが、出発前に朱印が押された裏の指示書が回ってくるんだ。その荷物は前線には行かず、途中の拠点。たとえば北陵の森や、新京の外れの倉庫に下ろされる」
「荷を下ろした後の帳簿はどうなる?」
速水が問う。
「『抗日ゲリラの襲撃により輸送部隊壊滅、物資喪失』……あるいは『演習にて全弾消費』とかだ。書類の上じゃあ、その武器はとっくに消滅して立派に国のために使われたことになってる」
「なるほどな。書類上使われた武器なら、横流ししても監査には引っかからねえ」
速水が忌々しげに舌打ちをした。
「俺はな、その朱印の指示書を偶然見ちまったんだよ」
権藤が顔を歪めた。
「下っ端の運び屋には過ぎた秘密だ。しかも最近、一緒に運んでいた別の班の奴らが、次々と『名誉の戦死』を遂げている。……次は俺の番だと悟ったね。だから、消される前に少しでもおこぼれを頂戴して、大連へ高飛びしようとしたんだ」
「朱印の指示書を出している黒幕は誰だ」
私が問うと、権藤は首を横に振った。
「知るかよ。だが、補給監部の中枢にいる『化け物』だって噂だ。前線の兵士なんか、ただの数字としか見ていねえような、血も涙もねえ補給将校さ」
その言葉を聞いた瞬間、隣に立つ速水の息が、微かに止まったのを私は感じた。
(……化け物。補給監部の中枢)
速水の脳裏に、特定の人物の顔が浮かんでいるのは明白だった。だが、私はあえてそこには触れず、手帳を閉じた。
「尋問は終わりだ」
私がそう告げると、権藤は怯えたように目を泳がせた。
「……軍法会議にかけてくれるんだろうな? 刑務所の中なら、あの黒幕たちも手が出せねえはずだ!」
「長谷川さん、どうする」
速水が私を見た。
私は腕を組み、震える権藤を見下ろした。
「甘いな。軍を裏切った挙句、青幇からの借金で首が回らなくなったクズを、軍がまともに裁くと思うか?……本部に突き出せば、黒田少佐か、あるいは、あんたが恐れている『黒幕』の手先によって、明日の朝には留置所の天井から靴紐で吊るされているだろう。公式発表は『良心の呵責による自決』だ」
権藤の顔から、完全に血の気が引いた。
「じゃ、じゃあどうしろってんだ……!」
「お前は、俺たちの捕虜になる。認識票と軍隊手帳を出せ」
私は、権藤から軍の認識票と身分証である軍隊手帳を回収した。
「報告書にはこう書く。『権藤曹長は抵抗の末、北市場の裏路地で逃走。追跡班の手によって渾河に追い詰められ、発砲を受けて川へ転落』と」
「……俺を、幽霊にする気か」
「そうだ。お前は特務機関が管理する地下牢へ送る。日の光は拝めないし、博打も阿片も女遊びもできないが、命だけは保証してやる。……いずれ俺たちが、その黒幕の首根っこを掴み出すその日まで、生きた証拠として地下で反省していろ」
権藤は呆然と私を見つめた後、力なく首を垂れた。彼に拒否権など最初から無かった。
「行くぞ。夜が明ける前に、こいつを桐山のところへ運ぶ」
「了解だ」
速水が権藤の拘束を解き、乱暴に立ち上がらせる。
凍てつく夜の闇の中、私たちは「死んだはずの古参兵」を引きずりながら、奉天のさらに深い闇へと歩き出した。手帳に記された『朱印』と『補給監部の化け物』という言葉が、何かの生き物のように私の懐で静かに脈打っていた。
奉天の市街地から少し離れた、特務機関が隠れ蓑にしている貿易会社の古びたレンガ倉庫。
深夜の冷たい霧が立ち込める中、桐山は外套の襟を立てて私たちを待っていた。
「ずいぶんと厄介なモノを連れてきたな」
桐山は、雪の上に転がされた権藤を見下ろし、細く笑った。
「この男は、軍の二重帳簿と、物資を横流しする『朱印の指示書』の存在を知っている」
私が告げると、桐山の表情から笑みが消えた。
「……朱印、か。特務機関でも、阿片や武器の非正規ルートを追っていたが、その大元に繋がる『生きた証拠』は初めてだ。で、こいつを始末しようとした黒幕の正体は?」
「補給監部の中枢にいる『化け物』らしい」
私が答えると、桐山の視線が自然と隣の速水に向いた。
速水は煙草を取り出しながら、気まずそうに目を逸らした。
「こっちを見るな。思い当たるクソ野郎が多すぎて絞りきれねえんだよ」
速水はそう嘯いたが、彼の目が明らかに特定の誰かを思い浮かべていることを、私と桐山は見逃さなかった。
「いいだろう。このロクデナシは、特務機関の地下牢で厳重に保管しておく。博打は打てないが、明日の朝に靴紐で首を吊る心配はないだけマシだと思え」
桐山が指を鳴らすと、暗がりから現れた私服の男たちが二人、権藤の両脇を抱え上げた。
「頼むぜ、特務の旦那。俺はただの運び屋だったんだからな……!」
命拾いをした安堵からか、権藤は情けない声を上げながら、倉庫の奥の深い闇へと引きずられていった。
「長谷川少尉」
桐山が、振り返って私を見た。
「補給監部の中枢が絡んでいるとなれば、相手はただの将校ではない。書類一枚で人を殺せる、本当の怪物だ。……気をつけろ。猟犬が逆に狩られることになるぞ」
私は短く頷き、倉庫を後にした。
翌朝。
奉天憲兵隊本部の執務室で、黒田少佐は私の提出した報告書を忌々しげに見下ろしていた。
「北市場で逃走し、渾河へ転落……か」
「はい。夜間の追跡劇となり、遺体の回収は困難でした」
私が無表情で答えると、黒田は鼻で笑った。
「まあいい。軍の武器を盗んだ恥知らずなクズには、冷たい川底が相応しい。ご苦労だった、下がれ」
「はっ」
私は敬礼をして、退室した。
脱営兵追跡班の薄暗い部屋に戻ると、速水がだるまストーブの上で安物の珈琲を沸かしていた。
私は自分の席に座り、懐から手帳を取り出す。革の表紙を開き、真新しいページに事の顛末を書き込んだ。
しばらく、手を動かした後、珈琲の苦い香りが漂う中、私は手帳を閉じて次の獲物を待つために静かに目を閉じた。




