第八話 歴戦の古兵
脱営兵追跡班の薄暗い執務室には、郭明蘭が調合した漢方薬の匂いが漂っていた。
私はアルコールランプで温めた黒い液体を、息を止めて胃の腑に流し込む。苦味が脳天を突き抜け、まとわりついていた不意の眠気が嘘のように霧散していく。
「相変わらず、泥水みてえな薬を飲んでんな」
向かいの机で、速水が呆れたように新聞から顔を上げた。
「良薬は口に苦し、だ。……おかげで、発作の回数は目に見えて減っている」
私が答えると、速水は「そりゃけっこう」と笑い、机の上にコトリと小さな箱を投げた。
「さっき、表の詰め所に使い走りのガキがやってきて、これを置いていきやがった。俺たち宛てだそうだ」
それは、奉天の闇市でよく見かける安煙草の空き箱だった。
中を開けると、象牙でできた古びた麻雀牌が一つきり入っている。字牌の『發』。
そして、裏が煤けた紙切れに、短い乱筆でこう書かれていた。
『野良犬が俺の店を荒らしている。掃除しろ。老狗』
「鳴海健吾からのタレコミか」
私が眉をひそめると、速水は麻雀牌を指先で弾いた。
「鳴海の野郎、俺たちを黒社会の掃除屋として使う気らしいな。……だが、この『野良犬』には心当たりがあるぜ」
「誰だ」
「権藤曹長だ。シベリア出兵からの生き残りで、腕は立つが素行は最悪。阿片と博打と女に溺れ、青幇にシャレにならない額の借金を作りやがった。三日前、輸送任務中に大量の弾薬と手榴弾をごっそり盗んで姿を消した、絵に描いたようなクズだ」
私は手帳を開いた。
「軍の武器を横流しして、借金のカタにするつもりか。だが、なぜ鳴海が俺たちに情報を流す?」
「権藤が持ち込んだ武器のせいで、闇市の相場が荒れてるんだろうさ。おまけに、追いつめられた古参兵ってのは何をしでかすか分からねえ。自分のシマを荒らされる前に、憲兵(猟犬)を使って合法的に始末させようって腹だ」
速水は外套を羽織り、十四年式の撃鉄を確かめた。
「この麻雀牌は、北市場にある地下カジノの入場札だ。行くぞ、長谷川さん。古参兵の逃亡劇を終わらせてやろうぜ」
北市場は、奉天の歓楽街の中心だった。
昼間は雑多な市場だが、夜になるとネオンが灯り、阿片の煙と三味線の音、そして男たちの怒号が響き渡る魔窟と化す。
私と速水は身分を隠すため私服に着替え、入り組んだ路地の奥にある怪しげな茶館の地下へと足を踏み入れた。
扉の前に立つ屈強な中国人の用心棒に『發』の牌を見せると、無言で鉄扉が開かれた。
地下空間は、紫煙と汗の匂いが充満していた。大小の円卓が並び、牌を叩きつける音と、ロシア語、中国語、日本語の罵声が飛び交っている。
「……あそこだ」
速水が顎でしゃくった先。部屋の一番奥の卓で、軍服の襟から階級章をむしり取った初老の男が、血走った目で牌を握りしめていた。
頬はこけ、無精髭が伸び放題だが、その分厚い体躯と、背後に置かれた大きな軍用背嚢が、彼がただの客ではないことを示している。
あれが、権藤曹長だ。
私たちが卓に近づくと、元軍人の勘か、権藤はピクリと肩を震わせてこちらを振り返った。
私の刑事としての視線と、速水の鋭い眼光。
それを見た瞬間、権藤は「チィッ!」と舌打ちし、卓を蹴り上げてひっくり返した。
ガチャン! と牌と札束が宙を舞い、賭博場が一瞬にしてパニックに陥る。
「散れ! 憲兵の犬だ!」
権藤は背嚢を掴むと、懐から取り出した軍用の発煙弾のピンを抜き、ためらいなく私たちの足元へ転がした。
「伏せろ!」
速水の怒号。
シュゥゥウウッ! という激しい噴出音と共に、濃密な白煙が猛烈な勢いで吹き出した。
瞬く間に視界が白く塗りつぶされ、咽び泣くような咳と悲鳴が部屋に充満する。煙幕による目くらましだ。
(逃がさん……!)
煙の中で目を細めながら、私は床を蹴って立ち上がった。漢方の効果で神経が澄み切っているためか、混乱する群衆の足音に混じって、裏口の階段へと駆け出していく重い軍靴の音がはっきりと聞き取れた。
私は、音のする方へ一直線に走った。
東京にいた頃、数え切れないほどの逃亡者を追い詰めてきた足だ。
「止まれ、権藤!」
煙を抜け、裏口の細い階段の中腹で、私は権藤の足首に飛びついた。
「離せ、クソガキが!」
権藤が振り返りざまに軍靴で私の顔を蹴りつけようとする。
私はそれを腕で受け流し、その勢いのまま一歩階段を上がって権藤の懐に鋭く踏み込んだ。相手の体勢が崩れた隙を逃さず、階段の下り傾斜に向けて背負い投げを放つ。
鈍い音を立てて権藤が階段下まで転がり落ち。
だが、シベリア帰りの古参兵は伊達ではなかった。痛みに呻くこともなく、瞬時に受け身を取って立ち上がり、隠し持っていた匕首を抜いて私に襲いかかってきた。
「死ねやぁッ!」
殺意に満ちた刃が私の喉笛を狙う。
その時。分厚い軍靴が、背後から権藤の肋骨を蹴り砕いた。
「グァアアッ!?」
「軍の備品をこんな所で使いやがって。お前が持って行った荷物の帳尻を合わせるために、俺がどれだけ理不尽な書類仕事を押し付けられたか知らねえだろ」
速水が、白煙を纏いながら冷酷な目で倒れた権藤の背中を踏みつける。
そのまま容赦なく両腕をねじ上げ、手錠をかけた。
巨漢の古参兵も、速水の膂力と急所を的確に押さえる技術の前には、赤子のように制圧された。
「……猟犬どもが」
床に顔を押し付けられながら、権藤が血の混じった唾を吐いた。
「俺を本部に突き出して、点数稼ぎか? 笑わせるな。俺のやったことなんて、あいつらに比べりゃ可愛いもんさ!」
「あいつら、だと?」
私が息を整えながら尋ねると、権藤は狂ったように笑い出した。
「俺が盗んだ武器なんて、帳簿の上じゃ最初から無かったことになってたんだよ! 俺は、上の連中の回してるデカいシノギのおこぼれに預かろうとしただけだ!」
私は速水と顔を見合わせた。
「どういう意味だ」
「帳簿は二重になってる!」
権藤が叫ぶ。
「正規のルートから外された物資を、俺らの部隊は運ばされたんだ。……それを知ったから、俺は殺される前に荷物を盗んで逃げたんだ。どうせ俺は消される運命だったんだよ!」
私は無言で手帳を取り出した。
権藤曹長。阿片と博打に溺れた堕落した兵士。だが、彼もまた、あの『迂回ルート』という底なし沼の縁に立ち、恐怖に駆られて逃げ出した一人だったのだ。
「……長谷川さん。こいつの身柄、どうする?」
速水が低く問うた。
「連行する。だが、本部には直行させない。こいつの知っている『二重帳簿』の手口、全部吐かせる」
私は権藤の胸ぐらを掴み、冷たい声で言った。
「お前は俺たちにすべてを話し、軍法会議にかけられる。……殺されはしない。軍刑務所の中の方が、あの老狗や黒幕の刺客から身を守れるはずだ」
権藤は抵抗をやめ、絶望と安堵が入り混じったような顔で床に突っ伏した。
私たちは権藤を引き立て、北市場の裏口から冷たい夜風の中へと出た。
遠くの闇の中で、鳴海健吾がこちらを嘲笑っているような気がした。
老狗は私たちを利用し、目障りな蠅を払った。だが同時に、私たちに『二重帳簿』という新たな真実の切れ端を与えたのだ。
私は懐の手帳の重みを確かめながら、雪の降る奉天の街を歩き出した。




