第七話 過去の亡霊
翌朝。
憲兵隊本部の執務室は、重苦しい空気で満たされていた。
黒田少佐は、私たちの報告を聞き終えると、呆れたようにため息をついた。
「勝手に捜査を進めただけでなく、騒動も起こすとはな」
「…申し訳ありません」
私は硬い声で答えた。
「これで分かっただろう。貴様のような刑事上がりのやり方は、ここでは通用しない。…長谷川少尉、貴様に新たな任務を与える」
少佐は机の上の辞令を私の方へ滑らせた。
「奉天憲兵隊、脱営兵追跡班へ回れ。貴様の捜査官としての技術は、脱営兵を探し出すのに役立つはずだ」
それは、実質的な左遷であり、ていの良い厄介払いだった。
銀髪の狙撃手、裏帳簿、満鉄の利権。私が手繰り寄せていた糸が、すべて強制的に断ち切られる。
速水が顔色を変えて口を開こうとしたが、私は彼を制した。
「承知いたしました。脱営兵追跡の任、命じられた通りに遂行します」
私は静かに敬礼し、退室した。
宿舎への帰り道、奉天の空は鉛色に沈んでいた。
脱営兵追跡。それは、軍を抜け、家族の元へ帰ろうとする哀れな兵士、同じ釜の飯を食った仲間たちを、犬のように追い詰め、始末する部署だ。
組織は私に、真実を追うことを禁じ、裏切り者を裁くことにさせた。
速水が、並んで歩きながら低く言った。
「黒田の狙いは見え見えだ。長谷川さん、俺たちをあの事件から遠ざけるためだぞ。深入りされると、自分たちの尻尾が踏まれるからな」
「分かっている」
私は歩を緩めなかった。
「だが、速水。軍の論理に従うしか道がないのなら、俺は俺のやり方でやる」
「…どういうことだ?」
「脱営兵を追う。それが俺の新たな職分だ。…ただし、言われたまま上に引き渡すような真似はしない」
軍の記録には裏切り者として残る兵士の、その背後にある本当の人生を、私の手帳に刻む。それが、今の私にできる唯一の抵抗だった。
追跡という部署を利用し、この街の澱に流される者たちの最期を、私はただ見届ける。
速水は私の横顔をしばらく見つめていたが、やがてふっと笑った。
「あんたも、相当な天邪鬼だな。…追跡班の仕事が、どれだけ精神を削るか、わかってるのか?」
「さあな、仲間を地獄に送る仕事なんて、どんな気持ちでやるのか想像もつかない」
雪が舞い始めた。
それは、汚れた奉天の街を白く塗りつぶそうとするかのように、静かに、執拗に降り積もっていく。
私は懐の手帳を指でなぞった。
真実からは遠ざかった。だが、この追跡の果てにこそ、この街の輪郭があるような気がした。
私は襟を立て、灰色の雪の中を歩き出した。
奉天での、新しい、そして苦い戦いが始まろうとしていた。
奉天憲兵隊本部の地下、もっとも陽の当たらない一隅に、脱営兵追跡班の執務室はあった。
部屋を占めるのは、煤けた書類棚と、脚の長さが揃わない木机がいくつか。壁には、満洲全土の鉄道路線と、そこから蜘蛛の巣のように伸びる国境線の地図がピンで留められている。
ここに回されるのは、上層部に睨まれた頑固者か、戦意を失った無能だけだった。
「よう、長谷川さん。引っ越し祝いを持ってきたぜ」
異動初日の昼下がり、分厚い肩を揺らして現れたのは速水だった。彼の両手には、炊事場からくすねてきたと思わしき小ぶりな焼き芋が握られていた。
「速水……。お前、補給監部の仕事はどうした」
「武器庫から南部十四年式が二丁、実包と共に消えた。補給の責任者として、不逞の輩を追う義務がある。つまり、あんたの部署と合同捜査ってわけだ」
速水はにやりと笑い、私の机に熱い芋を置いた。
「少佐殿は、俺たちを引き離したつもりだろうが、脱走兵は官品を持って飛ぶことも多いからな、俺も無関係じゃないってことよ」
速水のフランクさに、胸の奥の冷え切った塊が少しだけ融けるのを感じた。
「最初の獲物だ」
私は手帳を開き、今朝手渡された手配書を速水に見せた。
「名は佐藤一等兵。農村の出身だ。三日前、歩兵連隊の警衛勤務中に、拳銃を盗んで行方をくらませた」
「ただのホームシックか、それとも何か計画があるのか」
「分からん。だが、目撃情報から推察した足取りに迷いがないのが妙だ。巡邏ルートを避けて、南大街の貧民窟へと消えているんだ」
奉天の南大街の外れは、通称「泥河」と呼ばれる、流民や荒くれ者が集まる最底辺の区画だった。
凍った泥と排泄物の匂いが混ざり合い、煤けた天幕が不規則に並ぶ。日本軍の威光も、満鉄の権力も、この泥の底までは届かない。
私と速水は外套の襟を立て、泥河の雑踏へと分け入った。
元刑事としての私の眼は、周囲の住人たちの異常な警戒心を敏感に察知していた。私たちの軍靴の音、伸びた背筋、それだけで、彼らは私たちが狩る側の人間だと見抜いている。
「佐藤の目撃情報があったのは、あの阿片窟だ」
速水が顎で示したのは、半ば崩れかけた煉瓦造りの地下室だった。
中に入ると、ねっとりとした甘い煙が視界を遮り、床には生ける屍のような男たちが転がっていた。
奥の薄暗い寝台に、軍服のボタンを全て外した若い男が横たわっていた。手配書の写真より、遥かに痩せこけ、瞳の光を失った新兵、佐藤だった。
「佐藤一等兵だな」
私が声をかけると、彼はビクリと身体を震わせ、枕元に隠していた南部十四年式に手を伸ばそうとした。
だが、それより早く速水の軍靴が彼の執念を床ごと踏みつけた。鈍い骨の音が響き、拳銃が遠くへ転がる。
「頼む、殺さないでくれ……! 俺は、俺は金が欲しかっただけだ! あの男が、銃を持ってきたら高く買ってやるって言ったんだ!」
佐藤は泥にまみれた顔を涙で汚しながら叫んだ。
「あの男とは誰だ」
私が彼の胸ぐらをつかみ、顔を近づける。
「知らねえ! 顔はいつもフードの影で見えなかった。だけど……稼業人の奴らは、あの人のことを老狗って呼んでた……!」
老狗。老いた犬。
その名を聞いた瞬間、隣にいた速水の身体が一瞬だけ、強張ったのを私は見逃さなかった。
「……速水?」
「長谷川さん、まずい。ここを出るぞ」
速水が私の腕を掴んだ、その直後だった。
ガチャン、と地下室の唯一の出入口である鉄扉が、外から乱暴に閉められ、閂が下ろされる音が響いた。
天井の隙間から、何かが液体が滴り落ちてくる。鼻を突くのは、強烈な揮発油の匂い。
「口封じか……!」
速水が扉に体当たりをしたが、鉄の塊はびくともしない。
マッチが擦られる音が、扉の向こうから聞こえた。瞬く間に、鉄扉の隙間から赤い炎の舌が這い入ってくる。
阿片の煙と、ガソリンの黒煙が狭い地下室に満ちていく。呼吸が詰まり、視界が急速に狭まっていく。
極限の恐怖と酸欠。そのストレスが、私の脳の決壊を呼び起こした。
(まずい!)
視界の端が白く滲み、足元がぐらりと揺れる。ナルコレプシーの発作が、この燃え盛る地獄の中で私を眠りの底へ引きずり込もうとしていた。
私は狂ったようにポケットから薬を取り出そうとしたが、指先が痺れて動かない。
「長谷川さん!」
速水の叫び声が、遠い異界の音のように遠ざかっていく。
その時だった。
ズガァン!と、激しい爆破音が地下室の奥の壁を粉砕した。
崩れ落ちた煉瓦の向こうから、冷たい夜風と共に、一人の男が姿を現した。
古びたロシア製の外套を羽織り、頭には毛皮の帽子。手には、泥に汚れた一本の頑丈な鉄杖を握っている。
年齢は四十前後。無精髭を生やしたその顔には、厳しい訓練に耐え抜いた者だけが持つ、独特の強靭さがあった。だが、その瞳は軍人のものではなかった。深淵を見てきたような底の知れない硝子のような眼。
「おい、死にたくなければこっちへ来い。猟犬ども」
男は、低く、濁った声でそう言った。
彼が崩した壁の向こうは、奉天の複雑な地下排水路へと繋がっていた。
速水が私を担ぎ上げ、男が開けた穴へと飛び込む。私もまた、冷たい外気を吸ったことで、かろうじて意識の糸を繋ぎ止めた。
背後で、阿片窟が激しい炎と共に崩落していく。
薄暗い排水路の奥、男は鉄梃を肩に担ぎ、私たちを振り返った。
「……あんたが、手引きしたのか」
私が壁に寄りかかり、荒い息を吐きながら問うと、男は皮肉を孕んだ薄い笑みを浮かべた。
「手違いだよ。あの新兵が、俺の名前を勝手に使ってアヘンを仕入れようとしたんでね。黒幕の連中が焦って、トカゲの尻尾を切りにきたのさ」
男は帽子を少し上げ、私を凝視した。
「俺の名は鳴海健吾。軍の書類にゃ、三年前に戦死したと書かれているはずだ」
鳴海健吾。伝説の脱営兵。
彼こそが、奉天の裏社会の半分を支配すると囁かれるフィクサー老狗の正体だった。
「憲兵、お前、いい手帳を持ってるな」
鳴海は私の懐を指差した。
「この街で生き残りたいなら、よく記録しておくこった。……これから、もっと多くの血が流れるぞ」
男は背を向け、暗闇の奥へと足音もなく消えていった。
手帳を握る私の指先は、恐怖ではなく、奇妙な高揚感で震えていた。左遷されたはずの泥泥の部署で、私たちは、奉天の闇の心臓部へと直結する足跡を見つけてしまったのだ。




