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第六話 夜会の邂逅

 帳簿を上官に提出してから数日が経過した。

 奉天の街に冷たい風が吹き荒れ、煤けた路地の屋台の灯が揺らめいている。

「長谷川さん。以前の案件は『脱営兵をやむ無く射殺』ということで片付けられちまった。しかも、撃ち殺したのは俺だとよ。だが撃った真犯人はまだ野放しだ」

 速水は包子パオズに齧りつきながら、路地裏の瓦屋根を見上げた。

「…放っておいたら、また血を見るだろうな」

 私は短く応じた。

 狙撃現場に残された痕跡。女物の靴跡、銀色の毛髪、そして夜会を思わせる香水。

 あの記憶が脳裏から離れない。

「この事件の黒幕を追う手掛かりは?」

「三つだ」

 速水は指を折った。

「ひとつ、素人の仕事じゃない。奉天で銃を扱えるのは軍人か、裏社会の連中か、そいつらに武器を流してる連中だ。ふたつ、現場に残された女の痕跡。夜会に出入りできる女だとすりゃ、ただの商売女じゃない。みっつ、誰が得をするか。脱営兵の口を塞いで得するのは、補給の不正に関わってる連中だ」

 私は顎に手をやり、考えをまとめた。

「つまり、軍需物資の横流しに関与し、なおかつ社交界にも顔を出せる人間。狙撃手を使うほど、慎重で周到な相手だ」

 その時、薄闇の中から少年が駆け寄ってきた。先日、兄を失った少年である。

「憲兵さん…!」

 彼の手には、折りたたまれた紙切れがあった。震える声で言う。

「背広の男の人が、これを渡せって…」

 背広の男。桐山のことだろう。

 紙を広げると、達者な筆跡で簡潔に用件が記されていた。

鄭勇烈てい・ゆうれつが夜会に出入りしている…』

 私は息を呑んだ。密輸業者の頭目であり、奉天の裏社会では有名な男の名だった。

 速水が眉をひそめる。

「やっぱり出てきやがったな。鄭勇烈。奴の背後には抗日だの、軍の影だのが入り乱れてるって噂だ」

「そして、狙撃犯は鄭勇烈と繋がっている?」

「桐山が提供した情報によれば、繋がっているということだな」

 夜の路地を風が吹き抜け、遠くで犬が吠えた。

 私は拳銃の冷たい重みを確かめながら思った。

(真相に触れるには、生きたまま狙撃犯を捕らえ、吐かせるしかない)

「速水中尉」

「なんだ」

「俺はまだ『見習い』だ。憲兵としても、奉天の住民としても。だから、狙撃犯を追うのに、あんたの知恵と腕を借りたい」

 速水はにやりと笑った。

「いいだろう。だが覚えとけよ。奉天で一人の下手人を探すってのは、針の山から目当ての針を一本探すようなもんだ」

 速水の笑顔の奥の眼は鋭く、既に街の地下に潜む影を睨んでいた。

 

 奉天の夜は、別の顔を持っていた。

 昼間の煤煙と怒号の中では隠れていた色と欲望が、ネオンの灯に誘われて表通りに溢れ出す。

 私と速水は身分を秘匿するため軍服を脱ぎ、目立たない仕立ての背広に身を包んでいた。

 通称「舞踏会通り」。ここには軍人、商人、密輸業者、果ては特務機関の影までもが混ざり合う。

「場違いだな」

 私は外套の襟を立て、煌びやかな建物を見上げた。二階の窓からはジャズの音色が流れ、シャンデリアの光が外まで洩れている。

 速水は飄々と肩を揺さぶり、胸元のネクタイを指で整えた。

「腹を満たすための場所じゃねえ。射倖心を煽る場所だ。だが、腹の探り合いもここで行われる。…それに、あの時の匂いも微かに漂っている」

 入口には燕尾服を着た中国人の用心棒が二人、冷たい眼で客を選別していた。

 速水が封筒をひらりと見せると、用心棒は無言で頷き、扉を開ける。

 私は一瞬、その封筒に何が入っていたのか気になったが、速水は肩越しに「地獄の沙汰もなんとやらってな」と笑ってみせた。

 中は甘い煙草と香水の匂いが充満し、絹のドレスが揺れ、グラスが打ち鳴らされる音が響く。

 舞台では碧眼の歌姫がシャンソンを歌い、客席では軍服を着た男たちが女の腰を抱いていた。

 この街の「秩序」とは、憲兵の悪名だけでなく、こうした享楽の場によっても保たれているのだ。

「長谷川さん、あそこだ」

 速水が顎で示したのは、奥の個室へ続く階段。

 そこを上がっていった女の背中を、私は見逃さなかった。

 漆黒のドレス、肩にかかる銀色の髪。あの夜、屋根瓦に残された毛髪と同じ色。

 そして、すれ違いざまに漂った香水の甘い匂い。忘れようにも忘れられぬ香り。

 胸の奥に冷たい針が刺さる。

(間違いない、現場に残された匂いだ…)

 速水が小声で囁いた。

「今は動くな。尻尾をつかむために、もう少し泳がせる」

「だが」

「殺しの証拠も、横流しの帳簿も、全部繋がってる。ここで派手にやれば、奴らの思う壺だ」

 私は拳銃を握る手を緩め、盆からグラスを取った。

 緋色の液体が揺れる中、階段の上で女が振り返った。

 一瞬、目が合う。

 薄い笑みを浮かべ、彼女はゆっくりと奥へ消えていった。

「狙撃手かどうかは分からんが、重要参考人には違いないな」

 私は低く呟いた。

 速水はグラスを掲げ、氷を鳴らしながら答えた。

「いろんな意味で興味深い人物だな」

 しかし、腑に落ちないことも多い。

「なにかチグハグだ」

 階段を上がっていく女の背に視線を奪われながらも、私は胸の奥に違和感を覚えていた。

 銀の毛髪。女物の靴跡。夜会を思わせる香水。

 確かに、あの夜の痕跡と符合する。だが、あまりにも整いすぎてはいないか。

 銃撃の正確さと、薬莢をきっちり回収する用心深さ。その緻密さと、毛髪や靴跡を無造作に残す雑さが、どうにも噛み合わない。

 まるで「ここに女の狙撃手がいた」と誰かに信じ込ませるための舞台装置のように。

 速水がグラスを傾け、氷の音を鳴らした。

「どうした、顔色が悪いぞ。惚れたか?」

「いや…」私は短く首を振る。

「あまりにも露骨すぎる。これは罠かもしれん」

 速水は口角を上げてみせた。

「なら、俺たちは撒き餌に群がるダボハゼか?」

 速水の言葉はあながち間違っていないかもしれない。

 彼女が狙撃手である可能性は高い。しかし同時に、得体の知れない怪物が暗闇で糸を引いているような気がしてならなかった。

 不意に、背後から静かに英語の声がした。

「Gentlemen. May I have a word?(紳士諸君、少しよろしいかな?)」

 振り向くと、そこに一人の英国紳士が立っていた。

 中年、痩身、仕立ての良いスーツに白いチーフ。

 灰色の瞳は冷ややかで、微笑みながらもどこか測るような光を宿している。

 彼は軽く礼を取り、流暢な日本語で続けた。

「失礼、あなたがたは憲兵隊の方と伺いました。お噂はかねがね」

 速水は口の端を上げ、返す。

「やっぱり、申し訳程度の変装じゃバレバレみたいですね。そちらは?」

 英国紳士は手袋を外し、名刺を差し出した。

「アーサー・グレイと申します」

 名刺には英語の他に漢字で『英領東亜商会』と印字されている。だが、どうもただの商人には見えない。

 視線、立ち居振る舞い。そこには、速水のような猛禽類を思わせる猛々しさはない。

 別種の生物。蜘蛛や蛇のような毒々しさが滲んでいた。

「日本の軍人諸氏はお行儀が良いですな。英国の軍人は既に三人、深酒した後に女性を巡って揉めて争い、今はテーブルの下で前後不覚になっておりますよ」

 速水が軽く肩をすくめた。

「そりゃあ羨ましい。こっちは一杯飲むのにも、書類に上官の印鑑がいくつもいる」

「Ha! Discipline above all(規律こそすべて). 実に admirable(立派)ですな」

 アーサーはそう言って笑い、グラスを傾けた。そして、声を落とし、こう続ける。

「もっとも、我々、少なくとも私は、酒と争いより、紅茶と平和を愛しておりましてね」

 にこりと笑った口もとが、言葉を紡ぐ。

「まあ、紅茶の葉も、平和も、摘み取る時は誰かの血で赤く染まるものです」

 アーサーは微笑を崩さずに言った。

「ですからね、私は熱いうちに飲むようにしているんですよ。冷めると、苦味しか残りませんから」

 一瞬、空気が静まった。

 背後の楽団が奏でるワルツの旋律が、かえって冷たく響く。

「おっと、失礼。英国式のジョークというやつです。日本の方々はブラックティーよりもグリーンティーのほうがお好みでしたかな」

 アーサーの声は朗らかだった。だが、灰色の瞳の奥には冷たい光が宿っている。

 速水が、少し眉を上げて笑った。

「紅茶と皮肉は英国の二大輸出品ってわけか」

 アーサーは嬉しそうに目を細めた。

「ええ、そしてどちらも、熱いうちに出すのが礼儀です」

 私はそのやりとりを黙って見ていたが、つい余計なことが口から出た。

「もう一つ忘れてませんか?」

「ほう?」

 アーサーが小首を傾げる。

阿片アヘンですよ。英国のもっともホットな輸出品」

 速水が口を抑え、酒を吹き出さないように堪えた。

 アーサーの灰色の瞳が僅かに揺れた。

 だが次の瞬間、それを楽しむように、低く笑い声を漏らす。

「お見事。阿片は我々の『輸出品』でしたな。今でもこの国を蝕んでいるようです。どうやら、まだ冷めてはいないようだ」

 アヘン戦争で負けた清王朝は、南京条約で英国へ香港を割譲した。

 この不平等条約の代償は、王朝が滅びてもなお消えることなく、いまもこの大地の血脈を通して払い続けられている。

 速水が私の肩を強く叩く。

「一矢報いた。いや、一杯食わしたってやつだな」

 私は何も言わず、ただグラスを軽く傾けた。

 緋色の液体が夜会の灯を受け、血にも似た光を反射して揺れた。

 アーサーはグラスを空にし、優雅な仕草で帽子を取った。

「愉快なお話をありがとう。では、今夜はこれで失礼いたします」

 微笑を浮かべたまま、踵を返して人混みの中に消えていく。その背中を見送りながら、速水が口笛を吹いた。

「紅茶の国の紳士ってやつも、意外と俗っぽいな」

 喧騒の向こうでは、管弦楽が軽やかに調べを変え、女たちの笑い声が夜会を満たしていく。

 だが、私の耳にはそれらが遠く、まるで別の世界の音のように響いていた。

 その時、会場の奥でざわめきが起こった。

 振り向くと、一組の男女がゆっくりと入ってくる。

 男は桐山拓海。黒い燕尾服を着て、背筋を伸ばしていた。

 その隣を歩くのは、銀糸のドレスをまとった女。先ほど階段を上がっていった女だ。

 白系ロシア人の血でも引いているのか、肌は雪のように白く、長い睫毛の奥の瞳がこちらを一瞬だけ見た。確か沈静香チェン・ジンシャンという、この店の歌姫だったはずだ。

 ジャスミンと煙草が混じった香りが風に流れる。

 速水が低く口笛を鳴らした。

「おう、桐山。ずいぶん華やかなお供じゃないか」

 桐山はちらりとこちらを見やった。

 隣の女が艶めいた声で囁く。

「タクミ、あなたの友人?」

「仕事仲間だ」

 その言葉に感情の揺らぎはなかった。

 しかし、彼女を庇うような立ち位置が妙に印象に残った。

 桐山は私と速水の前に立った。

「こんな場で会うとはな。むしろ都合がいい」

 速水が笑う。

「まさか祝儀でも持ってきたんじゃないだろうな」

 桐山の表情は動かない。

「厄介な報せを持ってきた。密輸の件だ。裏で動いているのはただの密輸業者じゃない」

 桐山の声には独特の冷気が混じっていた。

 沈静香は桐山の腕に触れた。

「難しい話はあとにして。少し、踊りましょう?」

 桐山は視線を彼女に向けてから、私達に断った。

「少し時間をくれ」

 速水が小声で言う。

「女が絡むと、桐山は途端に話が遅くなるんだ」

 私は無言で頷いた。

 香水の匂いが薄れていく。その奥に、桃のような香りが混じっていた。

 半時ほど過ぎ、桐山が戻ってきた。

「ここでは話せない。外でだ」

 速水が杯をいっきに干し、私の方を見た。

「了解。行こう、長谷川さん」

 私はグラスを置いた。

 我々は音楽と笑い声を背に、店の出口へ向かう。

 夜会の灯を背に、私たちは通りへ出た。

 空気が一気に冷え、吐く息が白く立ちのぼる。

 石畳の上を三人の靴音が響いた。

 背後にはまだ、楽団の音が微かに流れている。

 速水が肩をすくめる。

「まったく、あの店の匂いだけで酔いそうだ。アーサー・グレイとかいう英国人の商人が近づいて来たが、何か知ってるか?」

 桐山は店から早く離れたいようで、外套の襟を立てて歩き続けた。

「その英国人はおそらく、MI6。英国の諜報員だ。何か話したか?」

「他愛も無い雑談さ。ここじゃ諜報員が大っぴらに飲み歩いてるのか?」

「情報蒐集だ。あそこは各国の情報部員達が入り乱れている」

「まさに百鬼夜行の会だな」

 私は口を開いた。

「密輸の件、『ただの密輸業者じゃない』とはどういうことだ?」

 桐山の歩みが止まる。

 街灯の下で、彼の横顔が鋭く浮かび上がった。

「背後にいるのは、中国人でもロシア人でもない。日本人だ。軍内部、それも補給関係の高官の一部が関与している。補給の経路が利用された痕跡があった」

「補給物資と密輸品が同じルートで動いていると?」

「そうだ。表では物資輸送、裏では阿片を含む違法な密輸品の運搬と売買。だから、経由地点が本来のルートより多くなる。『迂回』だ。一見、誰も損をしない形になっている」

 速水が口の端を上げた。

「そりゃあ見事な算盤勘定だ」

 その言葉の直後だった。

 電灯のガラスが粉々に砕け散って、破片が降ってくる。

 空気を裂く鋭い破裂音が、夜の奉天を切り裂いた。

 反射的に私は壁際へ飛び込んだ。

 速水と桐山も同じ動作で伏せる。二発目、瓦が割れる音に遅れて発砲音が響く。

 狙撃手だ。我々に警告を発している。

 最初から殺すつもりなら、今の狙撃で死体ができただろう。

「いったいどういうつもりだ!」

 速水が、誰に問うでもなく叫ぶ。

「前と同じだ。毛髪や匂いを残したように、わざと外して何かを伝えようとしている」

 私は、姿勢を低く保ちながら答えた。

 辺りを観察すると、銃声の方向は繁華街の突き当たり、そこから西に伸びる狭い路地だ。

 屋根瓦が割れたところを見ると、狙撃手はまた高所を使っているのだろう。

 桐山は狙撃されているにも関わらず冷静に言った。

「貴様等は、こんな寒空の下で銃撃されるのが日課なのか?」

「言ってる場合か。どうする?」

「まあ、活劇物なら発射位置を特定して、狙撃手を追い詰める作戦を立てるとこだが」

 桐山の言葉に速水が鼻を鳴らした。

「特務機関はいつから映画の会社になったんだ。奴さんの位置を見た瞬間に、それが最後の光景にならない保証は無いぞ」

 桐山は自分が始めた映画の件は無視して、具体的な作戦を立てた。

「安全な場所まで逃げるか。ここで身を隠しているか。幸い街中であの発砲音だ。騒ぎになる。根比べにもならないな」

 しかし、この当てる意思が感じられない銃撃は何の意味があるのだろうか。

 風が吹いた。

 その風は、少しだけ甘い香りがした。

 香水の匂い。

 あの夜の、あの屋根の上の匂いと同じだった。

 私の背筋を何かが静かに這い上がる。

 銃声の余韻は、街路のどこかでまだ震えていた。

 桐山は外套の裾を押さえ、低く呟いた。

「狙いは正確…だが、殺す気なら一人はもう転がってる」

「つまり、脅しだ」と速水が言う。「タチが悪いな」

 私は息を整えながら、路上の影を見渡した。

 街灯が割れたことで、路地は半分闇に呑まれている。闇は静かに呼吸して、こちらをうかがっているみたいだった。

「動くな。また、くる」

 速水は地面に手をつき、猫のように身を伏せた。

 次の瞬間、鋭い破裂音が闇を貫いた。

 次の弾丸は、私の頭上を通り抜け、背後の壁を粉砕した。

 石片が頬をかすったが、熱さも痛みも感じなかった。

 ただ、胸の奥で何かが冷たく収縮した。

「動くなら今だ」

 速水の声は妙に透明で、冬の空気にしっかり溶け込んでいた。

 桐山は既に状況を読み切っているらしく、私の腕をつかむと一気に横の路地へ引っ張った。

「行くぞ」

 その直後、再び銃声が上から降ってきた。

 弾丸は石畳をえぐり、粉じんの白い煙が舞い上がる。

 我々は、できるだけ身体を低くして駆け抜けた。

 靴音が乾いた路地に滑り、煤けた旗布の影がゆらゆらと揺れる。

「速水、位置は?」

「屋根の斜面、南西。銃声からして、脱営兵が撃たれた時の銃と同じモノだな」

「同一犯か?」と桐山。

「さあな」

 速水が吐き捨てる。

 しかし、正確な狙撃の感触が、耳の奥にずっと残っている。

「こっちだ」

 桐山が狭い裏路地に滑り込み、急な階段を示した。

 古いレンガ造りの建物の隙間に、ほとんど迷路のような抜け道がある。

 この街の薄暗い裏道を熟知している者だけが知る道筋だ。

 我々は一段飛ばしで駆け上がり、背後を確認した。

 銃声はもう追ってこない。

 狙撃手は、こちらが逃げることを読んでいたかのようだった。

「…警告射撃ってやつか」

 速水が息を整えながら呟いた。

「何を伝えようと?」と私。

「簡単だ。『いつでも殺せるぞ』ってことだ」

 桐山の声は冷たく乾いていた。

 まるで、すべてを既に承知している人間の声音だった。

 彼は外套からハンカチを取り出し、額の汗を拭った後、少しだけ乱れた襟元を整えた。

 まるで狙撃されるのが日常茶飯事であるかのように。

「とにかく、場所を変えるぞ。まだ十分に距離をとれたわけじゃない」

 速水が空を仰ぐ。

 青黒い夜空に、ひび割れた電灯の残骸がぶら下がっていた。

 その横を、風に押されるように薄雲が流れてゆく。

「…茶でも飲みてぇな」と速水がぼそりと言った。

「こんな時にか?」桐山が眉をひそめる。

「言ってみただけだ」

 私は深く息をついた。

 砕けたガラスの音、火薬の残り香、冬の夜気。

 それらが混ざり合って、どこか懐かしい匂いになっていた。

「…お前ら、よくこんな街で生きていられるな」

 私がそう言うと、速水が笑った。

「慣れれば悪くねぇさ」

 桐山もほんの少し、口元で笑った。

「生き残れば、な」

 三人はほとんど同時に歩き出した。

 背後の暗がりには、まだ狙撃手の気配が残っている気がした。だが、振り向く者は誰もいなかった。

 奉天の夜風が、ゆっくりと路地を横切っていった。

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