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第五話 眠りの病

 憲兵本部中隊に報告を済ませて、初動捜査を引き継いだ。

 市警と合同捜査ということになるらしいが、まあ、うまくはいかないだろう。

 夜の奉天は、煤煙と雪解けの泥とで息苦しいほどに重かった。

 宿舎へと向かう道。速水と並んで石畳を踏む。足音が規則正しく響く中、私は無意識に手帳の角を指先でこすっていた。

「長谷川さん、またいじってるぞ」

 速水が苦笑交じりに言う。

「ああ…」

 返事をしようとした瞬間だった。

 視界の端がじわりと滲み、灯火の輪郭が柔らかく崩れ落ちる。

 どこかで犬が吠えているはずなのに、その声が深い井戸の底から響いてくるように遠ざかる。心臓の鼓動が不意に重くなり、足元の段差が曖昧に溶けた。

 ――眠気が襲う。

 訓練で徹夜を重ねた夜とも、東京で捜査に追われた疲労とも違う。意思では抗えない、体の芯を切り落とされるような急激な眠気。

「おい、どうした!」

 速水の声が近くなる。私は返そうと口を開いたが、舌が痺れ、声にならない。

 膝が石畳に落ち、視界が暗転する。その刹那、街灯の光が斜めに流れ、記憶の底からあの東京駅の赤煉瓦が閃いた。送別の汽笛、託された帳簿、血に染まった石畳、そしてあの兵士の「嫁の顔が見たかった」という最期の言葉。

 意識が遠のき、私は泥濘のような眠りに沈み込んだ。

 夢か現実か、声が重なって聞こえる。

「……おい」

 速水の低い声が確かに響いた。肩を強く揺さぶられる。私は薄く目を開き、滲んだ視界に速水の顔を認めた。

「大丈夫か?」

 返事をしようとしたが、喉から漏れたのは掠れ声だけだった。身体は重く、まるで鉛を抱え込んだように動かない。

「…すまん、急に…」

 それだけ言葉を搾り出すと、呼吸が乱れた。

 速水は私を片腕で支え、背後を鋭く見渡した。

「敵に撃たれたかと思ったぜ。この街でそんな隙を見せるのは命取りだぞ」

 私は必死に頷き、息を整えた。

 

 宿舎に戻る道すがら、速水は黙っていた。やがて、深いため息とともに言った。

「…眠気、にしてはひどいな。身体が勝手に落ちた。そういう質か?」

 私は苦く笑って答えた。

「…昔から、極度の緊張や疲労の後に泥のように眠ることはあったが、急に落ちるように眠るのは初めてだ」

「眠り病、か」

 速水が呟いた。

「なるほど。慣れない異境の地で殺人事件を立て続けに目撃すりゃ、緊張も疲労も限界だろうな。まあ心配するな。良い医者を紹介してやるからよ」

 そう言って豪快に肩を叩いた。

 私は唇を噛みしめた。

(弱さを晒すわけにはいかない。この街では、一瞬の隙が命取りになる)

 だが、速水の言葉には不思議と元気づけられた。

 夜更け。机に突っ伏したまま、私はまたしても短い眠りに落ちていた。

 不意に訪れる発作。目を開けると、手帳が頬に押しつけられている。

「…またか」

 思わず呟いた声に、隣で読書をしていた速水が本から顔を上げる。

「なあ、長谷川さん。あんた、このままじゃマズいぞ」

「……」

「任務中に寝落ちしてみろ。敵に的を晒すようなもんだ。下手すりゃ、仲間も道連れにしちまう。…さっき言ったように、俺の知り合いに腕のいい医者がいる。診てもらえ」

 速水は大口を開けて欠伸をしながらも、真剣な眼差しをしていた。

「医者?」

郭明蘭カク・メイランって女医だ。表向きは民間の診療所で働いてるが、満洲の王族の末裔らしくてな。西洋医学にも明るい。長谷川さんみたいな症状にも詳しいかも知れない」

 私は首を傾げる。

「軍医じゃなく、民間の医者にか」

「軍医は『使いものになるかどうか』でしか判断しねえ。診せたところで、しっかり飯食って、ちゃんと寝ろって言うだけ。下手すると使えねぇってんでクビだ。郭なら、患者の利益を考えて診る」

 速水の声音には、珍しく敬意が混じっていた。

 翌日、速水に案内され、私は市の外れにある診療所を訪れた。

 煉瓦造りの小さな建物。庭先には冬枯れの花壇があり、氷に閉ざされた土から細い芽が顔を覗かせていた。

 扉を押すと、白衣の女性が振り向いた。

 長い黒髪をきちんと結い上げ、瞳は深い湖のように澄んでいる。だが、その佇まいには威厳が漂っていた。

(誰かに似ている…)と思ったが、記憶の蓋を開けて探り当てることは出来なかった。

「こいつが例の患者だ」

 速水が軽く顎をしゃくる。

 女性は私を見据え、落ち着いた声で言った。

「郭明蘭と申します。…あなたが長谷川少尉ですね」

 私は思わず背筋を正した。彼女の眼差しは、不思議な冷気を湛え、私という人間を見抜いているように思えた。

「どうぞ、お掛けください」

 明蘭は木の椅子を示し、診察を始めた。

 脈を取り、瞼の動きを観察し、問診を重ねる。

 私は不本意ながらも、自分の発作のこと、この地へ来てから続く突然の眠りについて語った。

「極度の緊張や、精神の高ぶりの後に起きやすいのですね」

 私は静かに頷いた。

「長谷川少尉、あなた、夜はよく眠れていますか?」

 唐突な問いに、私は言葉を失った。

「眠ってはいる…と思う。ただ…」

 口にするのも憚られたが、思わず続けていた。

「勤務中に急に意識が途切れる。一分から十数秒程か。気づいたときには周囲が動いていて…俺は取り残されている」

 明蘭の瞳が鋭く光った。

「…おそらく、ナルコレプシー。発作性睡眠症、とも呼ばれます」

 その言葉に、私は眉をひそめた。

「なるこ…?」

 彼女は淡々と説明を続ける。

「日中に強い眠気が突然押し寄せ、本人の意思に関係なく眠り込んでしまう病です。心身の疲労、過度な緊張、あるいは体質。いくつかの要因が重なって起こると考えられています。まだ研究途上の症例ですが、欧州の医学誌には何例か報告があります」

 私は拳を握った。

「ここにくるまでは、そんなことはなかったんだが」

「激しい環境の変化で症状が顕在化したのでしょう。兆候はあったはずです」

 確かに、今までも制御できない程でなくても、他の人間よりも睡眠時間は多い傾向だった。

「…軍務に差し障るな。治療法は?」

 明蘭は一拍置いてから、静かに首を振った。

「完全に治す方法はありません。ただ、規則的な休養と、刺激物を避けること。それと…理解してくれる仲間の存在が必要です」

 速水が小さく鼻で笑った。

「つまり、俺が見張ってりゃ大丈夫ってことだな」

 だが私は笑えなかった。軍人にとって「突発的な眠気」は致命的だ。

 しかし同時に、明蘭の声は、冷たい診断というより、哀しみを帯びた慰めのように響いていた。

「病は恥ではありません」

 彼女は私の眼をまっすぐに見た。

「ただし、軍人という仕事上、致命的であることも事実です。あなたは、この街で生き残るために、自分の弱さを受け入れて対処しなければなりません」

 その言葉は、軍隊の論理とはまるで正反対のようで、どんな状況であろうと創意工夫して生存を継続するという精神においては軍隊と通ずるものがあった。

 そして、妙に胸に沁みた。

 私は思わず身を乗り出した。

「対処……?」

「まずは規則正しい睡眠を心がけること。そして、発作の兆しを自覚したら、すぐに安全な姿勢を取ることです」

 彼女は付け加えるように続ける。

「対症療法的ですが、効果のありそうな漢方を私の方で用意させていただきます。次回の受診の際にお渡ししましょう」

 こうして次回の受診日を決めて、私と速水は帰途についた。

 診察室を出たとき、外は薄曇りであった。

 奉天の街並みは石畳の上に煤煙を被り、どこも同じ灰色に沈んでいる。それなのに、私の胸中はそれ以上に重く、濁っていた。

(ナルコレプシー。発作性睡眠症、だと)

 明蘭の声が耳に残っている。

 治せぬ病。人並みに眠っていても、日中に容赦なく襲ってくる眠気。軍人にとっては命取りとなる欠陥。

 私はこれまで、それを「疲労」や「気の緩み」と自分に言い聞かせてきた。だが、病名を突きつけられた瞬間、それは否応なく背負った業の重みを帯びた。

 横を歩く速水が軽口を叩いた。

「気にすんな。寝たら俺が叩き起こしてやるさ」

 だが、その言葉すら慰めにはならなかった。

 軍という組織は、弱者を庇う場ではない。戦場で、捜査の現場で一瞬でも眠れば、それは「仲間を危険に晒した裏切り」に等しい。

 もし上層部に知られれば、私は即座に「任務不適格」として放逐されるだろう。

 歩きながら、ふと脳裏にあの兵士の最期が甦る。

『嫁の顔が見たかった…子どもが七つに…』

 彼もまた、組織から見れば「脱走兵」でしかなかった。だが、私の目に映ったのは、ただ家族を想った一人の人間だった。

(自分も、同じように『壊れた歯車』として切り捨てられるのか)

 拳を握る。冷たい風が頬を打ち、目が覚めるような痛みを与えた。

 だが、次の瞬間にはまた、不意の眠気が瞼を押し下げようとする。

「…くそっ」

 小声で吐き捨て、私は歩を早めた。

 速水が横目でちらりと見たが、何も言わなかった。

 明蘭の言葉が、再び胸の奥で響く。

『病は恥ではありません』

『この街で生き残るために、自分の弱さを受け入れて対処しなければなりません』

 果たして私は、この病を「受け入れ」「対処する」ことができるのか。

 答えはまだ出なかった。

 ただ一つ確かなのは、この病とともに、奉天という街で生き残らねばならないということだ。

 宿舎の広間は石炭の匂いと干してある湿った洗濯物の臭気で満ちていた。外は雪混じりの風が吹いているらしく、窓枠の隙間から冷気が忍び込み、裸電球の明かりを揺らしていた。

 靴を脱ぎ、腰を下ろした途端、鉛のような疲労が全身を覆った。

 だが、眠りに落ちることへの恐怖が、私の眼を無理に見開かせていた。

 脱走兵の最期と、明蘭の診断が、頭の中で渦を巻いて離れない。

(病だと知られれば、俺は)

 思考を遮るように、背後から湯気と共に声が飛んできた。

「ほらよ」

 振り返ると、速水が軍用の鉄マグを二つ持って立っていた。中身は濃い茶で、渋い香りが広間に漂う。

「辞めるだのなんだの、まだ考えてんだろ」

 速水は乱暴にマグを置き、椅子を引き寄せて腰を下ろした。

「…軍隊は福祉団体じゃねえ。だが、俺たちは仲間だ。長谷川さんが潰されそうになったら、俺も道連れさ」

 私は黙って茶を啜った。苦みが舌に残り、胸の奥にまで沁みる。

 速水は煙草を一本取り出し、火をつけながら続けた。

「上の連中は、都合の悪いもんは全部難癖つけて処理したがる。先日の脱走兵もそうだ。ただ」

 速水は煙を吐き、鋭い目でこちらを見据えた。

「俺にとっては、組織の理屈より仲間の方が大事だ。忘れんな」

 言葉は粗野だが、その眼には迷いがなかった。

 私は茶碗を握る手に、じわりと熱を感じた。

(もし俺が倒れても、この男がいる)

 その安堵に一瞬身を委ねかけたが、すぐに別の恐怖が喉を締めつけた。

 この病が、いつか速水さえ巻き込み、この男の命を脅かすことになるのではないか。

 外で風が唸り、宿舎の壁を揺らした。

 数日後の受診日。

 再び診療所を訪れると、明蘭は机に広げた薬草の束を前に、静かに筆を走らせていた。

 白衣の袖から覗く指先は、紙の上を舞うように動き、その横には乾いた根や葉が几帳面に並べられている。

「来ましたね、長谷川少尉」

 彼女は顔を上げ、軽く微笑んだ。

「例の病…『ナルコレプシー』は西洋でも研究が進んでいません。ですが、投薬で症状を和らげることはできるはずです」

 私は思わず身を乗り出した。

「…どんな薬だ」

 彼女は頷き、棚から陶器の壺を取り出した。

「これは『人参』と『茯苓ぶくりょう』を主体にしたもの。脳と心を養い、余分な水分を捌いて頭を軽くする効果があります。それに『遠志おんじ』と『酸棗仁さんそうにん』を加えれば、不眠や不安を鎮める。あなたのように昼夜の眠りが乱れる方には合うはずです」

 乾いた根を乳鉢に入れ、棒で軽く砕きながら説明する姿は、まるで学者のようだった。

「即効性はありません。ですが、続ければ身体の調子が整い、突発的な眠気もいくらか和らぐでしょう」

 私は壺を受け取りながら、半信半疑の思いを抱いた。

「軍の薬局では、こういう処方はまず出ないな」

「だからこそ、私が処方するのです」

 明蘭は静かに言った。

「西洋の診断と東洋の療法。こういうのはあなたの国では和魂洋才というのでしょう?」

 その眼差しは、凛とした強さを湛えていた。

「…谢谢你(感謝します)」

 言葉が自然に口をついて出た。

 明蘭は小さく頷き、処方箋を差し出した。

「ただし、薬よりも大切なのは、自分の身体と向き合う覚悟です。あなたがそれを忘れぬ限り、この処方も意味を持ちます」

 明蘭の言葉は冷静でありながら、不思議な温かみを帯びていた。

 私は受け取った壺の重みを感じながら、深く頭を下げた。

 その日の夜。

 宿舎の炊事場の片隅で、私は明蘭から渡された処方箋を紙の上に広げた。乾いた根と葉が混じった独特の香りが漂い、煤けた室内に異国の空気を持ち込んだようだった。

 湯を沸かし、薬草を投げ入れると、ほどなくして苦みの強い匂いが立ち込める。

「おいおい…何の煮物だ、それ」

 背後から速水の声がした。椅子を引き寄せ、煙草をふかしながら鍋を覗き込む。

「糧食の乾パンでも浸して食うのかと思ったら…草か?」

「…漢方薬だ」

 私は真面目に答えた。

「明蘭医師が調合してくれた。これで少しは発作が和らぐかもしれん」

 速水は大袈裟に鼻を鳴らした。

「はは、なるほど。郭のお点前を頂戴するわけか」

 私は黙って湯呑みに煎じ薬を注いだ。

 液体は黒く濁り、表面に泡が浮かぶ。鼻をつく苦みの匂いが喉を塞ぐようだった。

「飲めるのか、そんなもん」

 速水は片眉を上げたが、私は意を決して口に運んだ。

 苦い。舌の奥が痺れるほどの苦味が走り、思わず咳き込みそうになる。だが、喉を通ると奇妙に温かさが広がり、胸の奥で落ち着く感覚があった。

「どうだ?」

 速水が面白そうに尋ねる。

「…悪くない」

 私はゆっくりと息を吐いた。

「少なくとも、苦味で目が覚めた」

 速水はしばらくこちらを見ていたが、ふっと笑った。

「まあ、効くなら何でもいいさ。薬だろうが毒だろうが」

 煙草の煙がふわりと舞い、漢方の苦みと混ざり合った。

 その時、不思議な安堵が胸をよぎった。

 速水進一。郭明蘭。

 この街の煤煙と闇に押し潰されても、まだ支えてくれる者がいる。

 そのことがとても心強かった。

 服薬を始めて数日が経過した。

 夜の宿舎は、相変わらず石炭の匂いと湿気に沈んでいた。

 机の上の紙包みから、苦い薬草を煎じた湯気が立ちのぼる。初めは悪心を催すほどだったその匂いも、数日繰り返すうちに、不思議と馴染み始めていた。

 湯呑みに口をつける。舌の奥に広がるえぐみは相変わらずだが、その直後に胸の奥を満たす温もりは、確かに存在していた。

(…そういえば、昨日は巡邏中に一度も落ちなかった)

 それに気づいた瞬間、心の奥にかすかな安堵が芽生えた。

 発作そのものが消えたわけではない。だが、以前のように不意に意識を攫われる頻度は、少しだけ減った気がする。

 その「少し」が、軍務に就く者にとっては死と生を分ける可能性を持つ。

 速水が向かいで腕を組み、私を見てニヤリと笑った。

「おい、長谷川さん。顔つきが前よりマシになったぞ。まさか、草の汁が効いてんのか?」

 私は苦笑しながら湯呑みを置いた。

「…効いているのかもしれん。少なくとも、体調はよくなった」

「そりゃ上等だ」

 速水は煙草をふかし、紫煙を天井に吐いた。

「漢方で持ち直す憲兵少尉なんざ、後にも先にもお前くらいだろうな」

 からかうような口調の裏に、どこか安心の色が滲んでいた。

 私は黙って頷き、窓の外に目をやった。

 雪混じりの風が街を洗い流し、灰色の空に明るい月が浮かんでいる。

(まだ、やれる――)

 苦い薬草の余韻を胸に、私は小さく息を吐いた。

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