第四話 密輸業者の頭目
夜警の見廻り勤務中のことであった。
夜の奉天は、昼間の喧騒を忘れたかのように、細い路地に煤けた灯火だけが漂っている。
本来、尉官たる者は警衛司令として本部で管理業務を行うものだが、私は着任早々ということもあり、現場の勝手を掴むためにひと通りの巡回任務に同行させてもらっていた。
「触るな!」
奉天市警察の巡査が声を張り上げ、人垣を押し返す。
中国人の商人、朝鮮人の労働者、日本人の酔客が入り混じり、好奇と不安の目を光らせていた。
「はぁ、なんか厄介ごとですかね。長谷川少尉。自分はこのまま市警に任せるのが吉かと思いますが」
同行していた今井伍長が、大儀そうに横目で騒ぎを見る。
この男、思想統制を専門にする憲兵の割に、職務に対する義務感が薄いように思われる。
「まあ、一度様子を見てから決めるか。どちらにしても報告しないといけないし、今、横着すれば、後で割を食うハメになる」
「よりにもよって、俺の上番中に…」
ブツブツと文句を言う今井伍長を尻目に、私は奉天市警察の巡査に声をかけた。
巡査は、まだ若い中国人であった。制服はくたびれ、制帽も傾いているが、眼だけは鋭く光っている。
私の肩章と階級章を認めた瞬間、彼は一歩退き、かしこまったように敬礼した。
「…憲兵少尉殿。こちらにて、殺しがありました」
「殺し、だと」
奥を覗き込むと、薄暗い灯火に照らされて、男がうつ伏せに倒れていた。背に大きな血の染み。もう動く気配はない。
周囲には野次馬のざわめきが重なり合い、煤煙と酒と血の匂いが鼻を刺す。
今井伍長が肩をすくめた。
「…厄介ごと確定ですねぇ」
「被害者は誰だ?」
私が問うと、巡査は低く答えた。
「名は金と申す者。朝鮮人です。密輸の噂がありました。酒や薬を扱っていたようですが…詳しいことはまだ」
密輸業者。奉天の闇市では珍しくもない存在だ。だが、殺されたとなれば話は別だ。
私は屈み込み、死体の背を検めた。刃物で深々と刺された痕。
うっすら雪が積もった石畳には血が流れ、夜風に黒く固まり始めている。
ふと、死者の手が半ば握り締めていた紙片が目に入った。血で汚れた油紙の切れ端だ。そこには粗い漢字で、こう書かれていた。
『茶 二十斤 進貨。 墨 分十點 市內散貨』
茶を二十斤仕入れた。墨を市内で売った。
思わず眉をひそめた。
茶はおそらく密輸品の隠語、そして墨は…。
「長谷川少尉」
今井伍長が、面倒くさそうに息を吐いた。
「これは市警だけじゃ収まりませんよ」
「だな」
私は頷き、人垣を見渡した。そこには異様な緊張が漂っていた。
中国人の商人は口を噤み、朝鮮人の労働者は怒りとも恐怖ともつかぬ眼でこちらを睨み、日本人の酔客はただ騒ぎを肴にしようとする。
「目撃者と犯人の痕跡を探せ」
私は巡査にそう告げ、今井伍長には死体を覆う布を手配させた。
その時、群衆の中で小さな声がした。
「父ちゃん…」
声の主は、十歳ほどの小柄な少年だった。顔立ちには死者の面影が残っている。
少年の眼は涙で濡れていたが、その言葉ははっきりと耳に届いた。
私は胸の奥に重いものを感じた。東京でも同じ思いをしたことがある。
受け入れ難い現実が被害者の家族に唐突に突きつけられる瞬間を見るのは、どこであろうが辛かった。
「今井伍長」
「はいはい」
「この件、俺達が初動を行う。速水中尉を呼んでくれ。あと、子どもは保護しろ」
「やっぱり面倒ごとに首突っ込むんですね、少尉殿は」
今井伍長のぼやきを背に、私は血に濡れた紙片を死者の手から引き取った。紙片の匂いを嗅いでみる。
甘ったるく、喉にねばりつくような匂い。私は即座に察した。
「阿片、か…」
まだ疑念の段階だが、この密輸業者は阿片を取り扱っていた可能性が高い。
紙片にある『墨』という単語は阿片の隠語だと聞いたことがあった。
夜の奉天の空は一層冷たく澄み渡り、肌を刺す寒気は痛いほどである。
死体は石畳の真ん中に横たえられたまま。
巡査たちは慌てて縄を張り、人垣を押し戻そうとするが、野次馬は遠巻きに声を上げ、後ろからまた別の人間が押し寄せてくる。
靴音が乱れ、石畳はすでに踏み荒らされていた。
「これじゃあ、現場保存どころじゃないな」
私は呟き、死体の周囲を確認した。血溜まりは南の路地に向かって細く流れ、刃物の切っ先が深々と背後から腹部まで貫いた跡が残っている。
即死ではない。しばらくもがき苦しみ、這いずるようにここまで来たようである。
「傷は深い。軍用の銃剣か、あるいは匕首だろう」
知らせを受けておっとり刀で駆けつけた速水が、屈み込んで血に濡れた衣服をめくった。
「この内臓を狙うのは、苦しみを与える殺し方だ。…見せしめ、か」
私は頷き、死者の布袋を検めた。中身は空で、口紐が乱暴に切られている。おそらく、取引の最中に襲われたのだろう。
今井伍長が人垣に向かって声を張り上げた。
「おい! こいつについて何か知っているものはいないか!」
しかし群衆は押し黙り、互いの顔を伺うばかりだった。
しばしの沈黙を破ったのは、小柄な老婆だった。
「昼過ぎに、市場の角で揉めていたよ。憲兵と…いや、違う、軍服の男とだ」
老婆はすぐに口を押さえ、恐怖の眼を巡らせた。
「軍服の男…?」
私は問い返した。
「顔は見たのか」
老婆は首を横に振る。
「黒い外套を羽織ってた。言葉は日本語のように聞こえたが…」
その証言に、速水が小声で呟いた。
「軍関係者の影があるってことか」
そのとき、背後から市警の警部が現れた。背は低いが、声はやけに大きい。
「ここは市警の管轄だ! 憲兵は口を出すな」
彼の背後には数名の巡査が並び、野次馬たちがまた、ざわめきだした。
「市警の管轄だと?」
今井伍長がうんざりしたように言う。
「軍が関わる疑いのある案件なら、それは俺たちの仕事だろう」
私は両者の間に立ち、簡潔に続けた。
「軍医に死体を検めさせてもらう。報告義務がある。市警には後で情報を共有する」
警部は不満げに鼻を鳴らしたが、渋々と頷いた。
「せいぜい初動をしくじるなよ。時間がかかれば、それだけ犯人から遠ざかるからな」
言葉に棘があった。この街では、市警も憲兵も互いに牽制し合っているようだ。
私は再び死者の顔を見下ろした。
凍りついた瞳は、まだ何かを訴えているように見える。
速水は現場を離れると、その足で密輸に関わる業者の一覧を洗い出し、被害者が所属していた組織を素早く割り出した。補給監部で横流しの噂に通じている彼だからこその早業だった。
速水が示す目的地は、南大街の外れにあるという小さな飯店。夜になると密かに酒を出す店で、地元の顔役や密輸の仲介役が出入りすると囁かれている場所である。
私は少年の保護と検死の段取りを今井に指示し、速水の後を追った。
路地を抜けると、夜風に混じって煤の匂いがした。
雪解けで湿った靴裏が石畳に吸い付くような感触が足に伝わる。
飯店は、表向きは静かな店構えだった。だが奥の間の障子一枚の向こうでは、酒や情報が回される。速水は入口の係と仕草で合図を交わし、奥へと案内された。私は一歩遅れて後に続き、客たちの並びを見回す。
卓には四、五人の男が座っていた。どの顔も泥臭く、しかし目だけは冷たい。頭目と見られる男は、眉間に皺を寄せた朝鮮人だ。顔立ちは厳格で、短く刈り込んだ髪に薄茶の革製のジャケットを羽織っている。彼の膝元には皮袋があり、中から金属の器具が覗いていた。
「鄭勇烈か」
速水が低く声をかけると、部屋の空気がほんの一瞬固まる。頭目の目がこちらに向き、わずかに笑った。
「憲兵さんか。こんな時間に珍しいな」
速水は凄みのある笑みを浮かべた。
「死体が出た。お前らの縄張りだろう。ちょいと訊きたいことがあってな」
頭目、鄭勇烈の笑みが消え、顔に陰が差す。彼は周りを見回し、口を小さく開いた。
「金は、ちょっと前まで青幇の連中と取引していた。奴は最近、仕入れの量が減っていたらしい。上の者がしわ寄せを受けてた」
「今日、あいつから『墨』を買ったのは、商人、百姓、あんたらの同業者。あと、珍しいことに西洋人の女も来てたよ、銀髪の女が」
話を進める中で、鄭勇烈は小声で付け加えた。
「金の袋に、変な印があった。満鉄の通行印に似ていたと聞く」
その言葉で、私は少し息を呑んだ。満鉄。奉天を縦横に動く列車と貨物、それを管理する巨大組織の利権に手を出すことは、単なる街の密輸とは次元が違う。
私は速水と視線を合わせる。速水の顔には薄く覚悟の皺が寄っていた。
「袋は誰が見た?」
「見たのは運び屋の一人だが…」
鄭勇烈は言葉を濁した。
「これ以上は話せない。下手すりゃ俺の首が、文字通り飛ぶ」
そこへ桐山の名前が話題に上った。速水がぽつりと言ったのだ。
「桐山があの界隈に顔が利くって話を、聞いたぞ」
鄭勇烈は一瞬顔を強張らせ、すぐに取り澄ました。
「桐山か。あの男は…気に食わん。表向きは金貸し、貿易、なんでもござれの青年実業家。裏では青幇やら得体の知れない連中と繋がりのある怪物だ。だが、奴のやり方は筋が通ってるし、損をする奴が少ない。腕は確かだ」
私は内心で緊張した。桐山、士官学校時代の速水の同期。
任務遂行のためなら手段を選ばない特務機関の犬。いや、狐と言った方がしっくりくる。
桐山が関わるとなれば、単純な密輸の一件では収まらないだろう。
飯店を出ると、冷たい空気が頬を刺した。路地の出口に差し掛かった瞬間、私は背後の影に気づく。
黒い外套が夜風にそよぎ、路地の先で止まったままこちらを伺っている。女の輪郭だ。銀色の髪が月光に僅かに光る。
私はその場で息を止めた。記憶が呼び起こされる。狙撃、屋根に残された髪、飯店で言われた銀髪の女。
影は一度、軽く肩をすくめるような仕草をしてから、闇に溶けるように去った。
速水が静かに、口を開いた。
「奴さんは密輸組織の上に立ってる奴らとも繋がってる。だが、一番面倒なのは『符牒』を扱える連中だ。あれが使えるのは、軍のお偉いさんか、満鉄の上層部。俺らの手に余る案件だぜ」
あの血染めの帳簿、補給の記録。そこにあった妙な連番の飛び方。桐山が言っていた「迂回」の痕跡。
闇は深まるばかりだ。だが一つだけ、確かなことがある。奉天の闇は、一枚の紙切れから、列車の連番まで絡まり合い、どこまでも長く続く。
私たちは、その糸を手繰り寄せなければならない。だが、手繰る時の手は、確実に狙われているのだ。




