第三話 脱営の兵士
その報せは、夕刻の宿舎に飛び込んできた。
「補給監部所属の兵が脱走したとのことです!」
伝令の兵が駆け込んできたとき、広間にいた全員の顔が一斉に曇った。
脱営。軍隊においては重罪である。だが奉天という土地柄、それはただの「脱営」以上の意味を持っていた。軍の情報、弾薬庫の位置、部隊配置。一人の兵士が抱えている情報は、敵に渡ればすべて脅威となる。
上官の命令で、私は速水と二人で捜索に出ることになった。
「腹ごなしにしては重い仕事だな」
速水は冗談めかして腰の拳銃を確かめ、肩を竦めた。だがその目は口調とは裏腹に、鋭く光っていた。
奉天の街はすでに宵闇に沈みかけ、路地には煤煙が溜まっていた。市場の灯りは消えかけ、残ったのは露天の灯火の赤だけ。
「目撃証言だと、奴は軍服を脱いで外套を羽織り、南大街に逃げたらしい」
私は地図を手に呟いた。
「補給の物資や弾薬が消えている件と関係があるかもな」
速水が歩調を早めながら低く言った。
「糧食や弾薬を狙うのは素人じゃねえ。売るあてがある。…つまり、裏社会の奴らとつるんでいる可能性が高いってことだ」
狭い路地を抜けた先、雪解けの泥に足跡が残っていた。片方は革靴。もう片方は私達と同じ軍靴。
「追うぞ」
速水が息を弾ませながら駆け出した。
私はその背中を追いながら、不意に胸の奥に警察時代の記憶が蘇る。
思想犯として逮捕された留学生。彼を追って拿捕したのは私だった。
曲がり角を抜けた瞬間、月明かりに照らされて一人の影がよろめいていた。片割れを失ったもの同士の靴、泥に汚れた外套。振り返ったその男の目は、極度の恐怖に見開かれていた。
「動くな!」
私が声を上げるより早く、速水が飛びかかった。
二人は泥にまみれてもみ合い、やがて速水がその首根っこを押さえ込んだ。
荒い息の下で、男は叫んだ。
「待て! 俺は横領なんかしていない。記録を持ち出しただけだ! 補給の記録を!」
速水と私は思わず顔を見合わせた。
「記録だと?」
「見ろ、この帳簿を! …上官が物資を横流ししてたんだ! 俺はそれを告発しようと」
その言葉が終わるより早く、兵士は腹部を押さえて崩れおちる。
遅れて石畳に銃声が反響した。
血が指の隙間から溢れ、兵士の衣服を濡らしていく。
遠距離からの狙撃である。
「おい、しっかりしろ!」
狙撃の射線から逃れるように、速水が兵士を物陰に引きずり込む。私もそれに続いた。
兵士の瞳は虚ろに揺れながらも、まだ理性の火が残っていた。唇が震え、掠れた声が零れる。
「これが、証拠だ…頼む」
兵士は血に染まった帳簿を私に差し出した。
「わかった」
私は短く答えた。
血で濡れた唇から、途切れ途切れに声が漏れる。
「みんな、すまねぇ。俺は、本当は帰りたかっただけなんだ。嫁の顔が…もう一度、見たかった…子どもが…七つになったはずで…『父ちゃん』って呼んでくれるのを、聞きたかったんだ」
声は震え、意識はもう途切れそうだった。
私はその手を握り、必死に答えを探した。だが、組織の論理に従えば、脱営兵は裏切り者でしかない。
それでも、私の目に映るのは、ただ家族を想った一人の男だった。
兵士は微笑もうとした。しかし、その微笑みは血泡にかき消され、暗闇の底へ沈んでいった。
兵士の瞳から光が消えるのと同時に、速水は顔を上げた。
「…畜生、やられたな」
低く吐き捨てると、すぐに周囲に視線を走らせる。
石畳に反響した銃声の余韻はまだ耳の奥に残っている。だが、敵の姿はどこにも見えない。
「狙撃は五時の方向の屋根だ。距離、二五〇から三〇〇…」
速水が素早く方角を見定める。だが既に、月明かりに浮かぶ屋根に人影はなかった。
私は咄嗟に拳銃を抜き、屋根に銃口を向けた。だが引き金を引くあてを見失っていた。
「くそっ…」
声が喉の奥で途切れる。
速水は私の手から帳簿を受け取り、雑嚢に押し込んだ。血で汚れたページの感触がまだ手に残っている。
「…脱営者は脱営者だ。だが、帳簿は本物かもしれん」
その声音には一片の情もなく、ただ現実を見据える冷たさがあった。
冷えた指先に残る力を感じながら、心の奥で問い続けていた。
(軍は彼を裏切り者と呼ぶだろう。だが、家族を想って死んだこの男を…俺はそんな風には思えない)
遠くで犬が吠え、夜風が路地を抜けていく。
速水が立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。
「行くぞ、長谷川さん。撃った奴はまだ近くにいる」
私は顔を上げた。しかし、狙撃手の影は既に闇に溶け、月光の下に残るのはただ凍てついた石畳と、兵士の血の跡だけだった。
速水と私は、銃声が響いた方向へ駆け出した。
石畳を蹴る音が夜に弾け、煤煙の匂いが鼻を刺す。
狭い路地を抜け、屋根伝いに影を追った。月光に照らされる瓦の上には、つい先ほどまで誰かがいた痕跡が残っていた。雪解けの泥を踏んだ靴跡、瓦に擦れた布の繊維。
「…女物の靴、だな」
速水が屈み込み、足跡を指でなぞった。細く、踵の形がやけに華奢だった。
その横で、私は銀色に光る毛髪を見つけた。拾い上げて掌に乗せると、一尺ほどの長さがあった。
速水の目が細くなる。
さらに、風に乗って微かな香りが漂ってきた。安物の石鹸や香水ではない、どこか瀟洒な夜会を思わせる甘く鋭い香り。
私は無意識に鼻をひくつかせた。
「…女か」
その言葉に、速水は口角をわずかに上げた。
「狙撃手にしては、小洒落た匂いをさせてるじゃねえか」
屋根の先は闇に溶け、匂いの主の姿は消えていた。
「薬莢でも、落ちていればと思ったがな。さすがに回収したか」
口惜しそうに速水が言った。
だが、足跡、毛髪、香り。三つの痕跡は確かに「そこに彼女がいた」ことを示していた。
私は血に濡れた帳簿の重みを思い出す。そして、犯人を見つけ出すことを密かに誓った。
夜風が吹き抜け、屋根瓦の上で月影がひとつ、幻のように揺らめいた。
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翌朝、灰色の雲が垂れ込める奉天憲兵隊の本部。
石造りの建物の一室で、私と速水は上官の前に立っていた。机の上には昨日受け取った血染めの帳簿が置かれている。
上官は無表情で書類を繰り、冷たい声で言った。
「…脱走兵は、追跡の後、射殺された。以上で良いな」
横領の証拠となる帳簿が黙殺されるのを目の前にして、私は思わず口を開きかけた。
「この帳簿には―」
「長谷川少尉」
上官の声が鋭く遮った。
「軍の兵站に関する一切の記録は、軍機に属する。お前の職分ではない」
机の上の帳簿を指先で叩きながら、上官は目を細める。
「余計な詮索はするな。これは然るべき部署で処理される。貴様らは脱走兵を追って対処した。それで終わりだ」
速水が横から口を挟んだ。
「黒田少佐。…承知しました。帳簿の数字を管理するのは自分達の仕事でありません」
何気ない一言だった。だが、その裏に「深入りするな」という忠告が潜んでいることは分かった。
私は唇を噛みしめた。血に濡れた帳簿の数字、兵士の「嫁の顔が見たかった」という言葉が脳裏に浮かぶ。
だが、それを口にすれば、自分もまた「組織に刃向かう者」として処分されるだろう。
そんなことは東京で散々味わった。
「…了解しました」
絞り出すように答えるしかなかった。
黒田少佐は満足そうに頷き、帳簿を脇に置いた。
「よろしい。脱走兵は『敵に内通しようとした不忠者』として処理する。書類はそれで統一しろ」
部屋を出ると、速水が背伸びをしながらぽつりと漏らした。
「ま、こんなもんだろ。ここは軍隊だ。何が正しいかより、組織の都合が先なんだよ」
私は黙って頷いたが、胸の奥にはどうしても拭えぬ苦さが残っていた。
「不正があるのは仕方がないとしても、それに向き合うのが俺たちの仕事じゃないのか。何のための憲兵だ」
そんな呟きに、速水が応じることはなかった。
血に染まった帳簿の一頁が、今も脳裏に焼きついて離れない。
速水と私は憲兵隊本部を後にし、石畳を踏みながら沈鬱な空気の街を歩いた。
屋台の鍋からは立ちのぼる湯気が冷たい空気に溶け、香辛料の匂いが鼻を刺す。
しかし、今は何も喉を通らないくらい、行き場のない重苦しさが胸を圧迫していた。
「なあ、長谷川さん」
速水が煙草を口にくわえ、火を点けた。
「あの証拠、どう処理されるかは見えたろ。本番はこれからだ」
「これから?」
私が問い返すと、速水は煙を吐き、薄く笑った。
「物資横流しの話が事実なら、関わってるのは一人や二人じゃない。兵站に手を突っ込める連中なんざ限られてるからな。…となりゃ、探られて黙ってるわけがねえ。昨日の狙撃もわかりやすい口封じだ」
速水の言葉は、冷たい奉天の空気よりも鋭く突き刺さった。
あの女の痕跡。足跡、毛髪、香り。あれは偶然の産物ではなく、なんらかの「意図」を示していた。
その時、雑踏の中から小走りに駆けてくる影があった。少年だ。まだ十二、三と見えるが、憲兵の制服を目印にするように、周囲を伺いながらこちらへ向かってきた。
「憲兵さん…!」
息を切らした少年の手には、風呂敷に包まれた小さな包みが握られていた。
「これ…兄ちゃんから預かったんです。もし自分に何かあったら、これを届けてくれって…」
胸が詰まった。少年の顔立ちには、昨夜絶命した兵士の面影が残っていた。
包みを開くと、中には二枚の写真と手紙が入っていた。一枚の写真には、妻らしき女性と幼子が並び、笑っている。もう一枚は昨日狙撃された兵士の写真だった。
手紙には震える字でこう記されていた。
『もし俺が戻れなかったら、この写真だけは家に届けてくれ。帳簿は桐山拓海という男に渡して欲しい』
私は速水にも聞かせるように手紙を読み上げた。
「桐山拓海だと」
男の名前を言った速水の頬に浮かぶ影は、いつもより暗かった。
「知っているのか?」
「士官学校時代の同期だ。他にもいろいろと因縁があってな」
「最近は、青幇絡みの内偵で、何度か同じ卓についた。腕は本物だ。だが、あいつが絡んでいるってことは、特務機関の案件だな」
「会えるのか」
「会える。手筈を整えよう」
私は片膝をついて、少年と視線を合わせた。
「お前の兄は、立派だった」
少年は唇を噛んだまま頷き、震える手で写真を前に出した。
「これは、兄ちゃんの家に、届けてください」
速水が横から手を添えた。
「必ず届ける。名前と住所を書けるか」
煤けた軒下の木箱を机代わりに、少年は拙い字で故郷の村名を書いた。
字がにじむ。私はその字を見つめながら、不意に脳裏へ一枚の画布が浮かんだ。『最後にお父さんを見たのはいつ』。遠い国の寓話のようなその問いが、紙の上で乾かぬ涙の輪郭と重なった。
(残された子にとっての父は、いま、写真の中にしかいない)
私は速水から写真を受け取り手帳の中へ、そっと滑り込ませた。手帳は少し厚みを増し、その重みが掌へ移った。
「行くぞ」
速水が短く言い、少年の肩を一度叩いた。私たちは雑踏の背を割るように市場を抜けた。背後で栗を煎る鍋が、乾いた音を立てて爆ぜる。冬の陽が低く傾き、露天の天幕に薄い金色が流れた。
夕刻、とある茶房。木の間仕切りに薄絹が張られ、街の匂いに混じって茶葉の甘い香が立つ。二階は通りに面しており、格子窓の外で馬車の軋みが途切れ途切れに届いた。
「速水、相変わらずだな」
先に座っていた男が、湯気の向こうから笑んだ。座っていても分かる堂々とした体躯。だが、顎は細く、瞳の奥に乾いた光。一見、フランス映画の俳優に見えなくもない二枚目だ。軍服ではなく、地味だが仕立ての良い背広を着ている。
しかし、小壁に架かっている黒の外套は軍の官給品だった。
「桐山」
速水は腰を下ろす。私も向かいに座り、卓上の茶杯を引き寄せた。桐山は私の肩章と目を順番に見たあと、さして驚いた様子もなく頷いた。
「刑事上がりの憲兵さんだな」
「長谷川哲也、少尉だ」
「桐山拓海、大尉だ。で、『土産』は?」
速水が雑嚢から写真の束を取り出す。
実はあの夜、証拠の帳簿が隠滅されるのを危惧した速水は、上官に提出する前に動いていた。以前、桐山から調達したという小型カメラを使用し、記録を残していたのである。薄暗い宿舎で私がページを押さえ、速水が素早くシャッターを切ったものだ。
桐山は手袋をはめたまま、めくる音さえ立てぬ慎重さで写真を繰った。筆致、検印、荷札番号、倉庫印。桐山の目が数字を追い、ところどころで微かに唇が歪む。
「念の為、お前に最新技術のカメラを渡した甲斐があったな…これは、いい」
低い声で言った。
「『横流し』より、『迂回』のほうが気になるな。正式の経路に見せかけ、途中で通る経由地を変えている。ここの連番の途切れ方、見えるか?」
指先で叩かれた数字の桁が三つ、妙な跳び方をしていた。帳簿の柱の影に、鉛筆でごく薄く付けられた×印。私は身を乗り出す。
「倉庫側の印綬と、補給出納の照合が合わない。…誰かがいじった」
「『できる』役職は限られる」
そう言って、速水が茶杯を取り、口に運んだ。
「補給監部の業務に習熟した書記官、あるいは監督将校。軍需と民需の境い目に立てる人間だ。なあ、桐山」
「口に気をつけろよ」
桐山が卓を軽く指で叩いた。笑っていた目が、少しだけ冷える。
「俺の耳にも届く噂はある。だが、情報は噂の段階で口にするのは危ない。ここは魑魅魍魎としてるからな。自分が不利になるような煙を立てている奴がいるとわかったら、火元ごと消しにくる」
桐山は写真を二枚だけ抜き取り、残りを私達に返した。
「これは預かる。それから狙撃された脱走兵だが」
桐山はそこで、鼻先をわずかに動かした。
「俺の協力者だった。公にはできないが、家族になんらかの補償は出すつもりだ」
補償。書類上、裏切り者の脱営者ということにされた男の家族は、これから、どのように生きていくのだろうか。
「家族に荷物を送るなら、この写真も一緒に送って欲しい」
私は手帳に挟んだ写真を取り出し、少年が書いた住所のメモもつけて桐山に渡した。
「内地の家族には、作戦行動中に戦死という風に伝える。売国奴の家族になってしまえば、生きづらいだろうからな」
もしかしたら、桐山は自分の都合で男を死なせてしまったという負い目を感じているのかもしれない。
桐山は視線を落とし、人差し指で写真の縁をなぞった。しかし、そこに宿るごくわずかな逡巡は、すぐにいつもの乾いた光の奥へ沈んだ。
「俺の封印で運ぶ。それなら、途中で割られない。それと、長谷川少尉」
「なんだ」
「これは、仕事の上で起きたことで必要なことだった。仕事であれば戦う。利用できる奴は利用するし、殺す。そして必要があれば死ぬ。日本でも、ここでも変わらない。俺らの仕事はそんなもんだろ?」
茶房の階を降りると、外は宵の気配を帯びていた。
通り風が、貼り紙の端をめくり上げる。銀髪の踊り子の笑顔が、白い紙片のきしみに合わせて一度だけ歪んだ。
「そう言えば、狙撃犯が残していった毛髪も、こんな色の銀髪だったな」
速水が思い出したように言った。
「ロシア人の女か」
桐山が、鼻先を動かした。
「お、女と聞いて目の色が変わったな」
速水が軽口を叩く。
「まあ、興味がそそられる話ではあるな」
どうやら、桐山は好色なようだった。
「桐山は、軽薄なようだが、頼りになるし、信用できる。女が絡むと面倒だが、まあ、心配ないだろう」
速水の耳打ちに、私は曖昧に頷き、手帳の角をなでた。
「お、その癖が出るってことは、ちょっと不安になってるな」
「そんなことはない」
「長谷川さんって、嘘が下手だね」
速水と私のやりとりを見て、桐山は顔を上げた。
「長谷川少尉、あんたはよく手帳に記録をとっているようだな」
私は、再び、無意識に手帳の角へ指をやった。それを見た桐山が薄く笑う。
「ここでは、それが武器にもなるし、枷にもなる。覚えておいたほうがいい。このあたりじゃ、人の手帳を覗き見るなんて、みんな日常茶飯事だ」
その言葉に改めて、この地の魑魅魍魎具合を実感させられた。
「これからどうするんだ?」
「やることは二つ、一つ目は狙撃犯の捜索。二つ目は物資輸送経路の捜査。お互い他に業務も抱えていることだし、時間は限られている。二人は狙撃犯の捜索を頼む」
桐山が、簡潔にまとめた。
「それにしても」
「二人とも、よく、こんなことに首を突っ込む気になったな」
桐山は半分呆れ、半分感心したように言った。
「兵站がいいように弄られてちゃ、俺も面白くないんでね」
速水が珍しく、怒りを表に出す。
「俺は…、あの兵士みたいに、組織にいいように使われて、都合が悪くなったら物みたいに処分される人間を見たくないんだ」
初めて思っていることを話したような気がする。
東京では、こんな素直に自分の気持ちを言うことはなかった。これも、異境の地に来た影響なのだろうか。
「この案件は上層部が絡んでいる可能性が高い。秘密保持に神経使えよ」
警察官の頃から、その手の義務には慣れっこだが、肝に銘じておこう。
「承知した。桐山大尉」
「桐山でいい。俺はできるだけ身分を秘匿したいし、見たところ、そちらのほうが目上のようだしな」
確かに、三十手前の私より、速水と桐山はいくつか若いようだった。
「わかった。桐山」
それでいい、という風に桐山は薄く笑う。
速水が肩で笑い、私たちは、散るように背を向けた。 降り始めた雪が音を吸い、街の輪郭を白く形作っていく。
白い息を細く吐くと、風に千切れて消えていった。




