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第二話 奉天の街

 翌朝、起床ラッパが鳴った。

 まだ外は薄闇に沈み、石の壁の冷気が容赦なく肌を突き刺していた。

 点呼を終えて、顔を洗いに行くと、洗面所の水は氷のように冷たく、指先が痺れる。顔を拭った手拭いを絞ると、途端に凍りつきそうな音を立てた。

 食堂に入ると、煤けたストーブが一つ、赤く口を開けているだけで、広い空間を暖めきれてはいなかった。

 麦飯と薄い汁物の匂いが漂い、木の椅子に兵士たちが散らばって座っている。私は空いた席を見つけ、静かに腰を下ろした。

 目の前に座っていた若い将校が、豪快に飯をかき込んでいた。肩幅が広く、軍服の胸元が今にも張り裂けそうだ。飯をかきこむ音がやけに朗らかに響く。

 私の視線に気づいたのか、彼は口元を拭い、にやりと笑った。

「新顔だろ。東京から来たって聞いたぜ。長谷川少尉、だったか」

 声は低いが、調子は軽やかだった。

 私は頷いた。

「そうだ。昨日、着任したばかりだ」

「俺は速水進一。補給を任されている、階級は中尉だ」

 上官にあたる男は自分の胸を拳で軽く叩き、また飯に箸を突っ込んだ。

「ここじゃ糧食も弾も油も、全部俺の目を通る。まあ、俺はなにかっていうと、食い物のほうに気が向くが」

 大口で笑い、どんぶりを傾けると、あっという間に米粒を平らげた。

 その食べっぷりと人懐っこい笑顔に、私は不思議な温かさを感じた。奉天という冷たい土地の中で、この男だけが別の温度を持っているようだった。

「東京じゃ刑事だったんだって?」

 速水が、汁をすすりながら言った。

「憲兵になるなんて、物好きだ。…いや、物好きってより、不運か」

 私は返事をせず、ただ椀の飯を口に運んだ。

 速水はそれ以上追及せず、肩をすくめて笑った。

「ま、腹いっぱい食っとけよ。ここじゃ食事が一番の楽しみだからな」

 その言葉が、妙に真実味を帯びて聞こえた。

 私は麦飯を噛みしめながら、この速水という男が、ただの大食漢以上の存在である予感を覚えた。

 長机に兵士たちが肩を並べ、食器をガチャガチャ鳴らしながら飯をかき込んでいる中、速水の豪快そのものの食べっぷりに、周囲の兵士が思わず笑いを漏らす。

「おい速水の中尉殿、三杯目かよ!」

「糧食の米は、みんなあんたの胃袋に消えるんじゃないか?」

 からかい混じりの声に、速水は涼しい顔で応じた。

「腹が減ってる奴がいる部隊は、まず補給から疑われる。孫子に載ってたぜ」

「それに、軍隊は星の数より飯の量だろ?」

 場がどっと笑いに包まれた。しかし、冗談の奥に鋭さが潜んでいるのが聞き取れた。

 やがて速水は飯碗を置き、ふいに私の方へ視線を向ける。

 にこりと笑った口元には米粒が貼りついたままだったが、その眼差しは意外なほど冷静だった。

「長谷川少尉。あんた、昨夜はろくに眠れてねえな」

 唐突な指摘に、私は眉をひそめた。

「なぜそう思う」

「手帳の角。さっきから親指でずっとこすってるだろ。十分眠れてる時はそんな癖、初対面の人間の前では出ない。それに目の下のくま。ここに来たのが昨日の今日なんだから、警衛勤務はしてないはずだ」

 速水の声音は軽いが、その観察眼は鋭利だった。

「…人の癖をよく見ている」

「兵站ってのはそういうもんだ。兵の腹具合、顔色、残った飯の量。言葉より、そういうことのほうがよっぽど物を言う」

 速水はまた飯を口に運び、頬張ったまま肩をすくめて笑った。

「ま、俺の癖は悪食と大食だな」

 周囲の喧騒の中で、私はふと気づいた。

 この男は、豪放に見えて底の読めない目をしている。と。

 兵舎へ行き朝礼を終えた後、奇しくも私は速水に案内をしてもらうことになった。

「長谷川さん。どうせ嫌でもここで働くんだ。最初に腹を括っておいた方がいい」

 速水は、分厚い肩を揺らして歩きながら、片手で軍帽を小さく直した。部下である私を「さん」付けで呼ぶあたり、彼が階級や建前にこだわらない気質であることが窺える。

 彼に導かれる形で廊下を進む。廊下の床板は冷たく、石炭の匂いと人いきれが入り混じる。すれ違う下士官や兵卒は一様に直立不動の姿勢で敬礼し、その視線には畏れと緊張が混じっていた。

「ここが執務室。各案件の報告が山積みになる場所だ。思想犯、密貿易、脱営、殺人…何でも転がり込んでくる」

 速水が扉を押し開けると、室内には分厚い帳簿や木箱が整然と並んでいた。壁際には地図。赤や青のピンが刺さり、補給路や監視区域が細かく記されている。

「数字の一つひとつが兵士の命に繋がる。飯が届かなきゃ士気は下がるし、銃弾が足りなきゃ戦闘の継続は難しい。…まあ、何もしなくても腹が減るがな」

 速水は冗談めかして笑い、机の端に置かれた乾パンをつまみ食いした。

 次に案内されたのは、兵舎の裏手にある倉庫。

 木の匂いが濃く漂い、兵士たちが荷を担ぎ、木箱に印字を押していた。

「ここが補給庫だ。米、缶詰、ちり紙、医薬品…、武器と車両以外は全て一元管理される。物資の流れを追えば、不正や裏切りも浮かび上がる。不正は数字に痕跡が残るもんだ」

 速水の目は、倉庫の影で汗を拭う兵士や、荷札に印をつける下士官を射抜くように観察していた。

 速水はただの兵站屋ではない。数字と物資を通して、人間の心まで読み取るのだ。

 最後に案内されたのは、石造りの地下室だった。

 分厚い扉を開くと、中は暗く湿っており、鉄格子の奥からかすかな呻き声が聞こえた。

「ここが取り調べ室。…まあ見ての通りだ」

 速水の声は、急に重く低くなった。

「俺たちの仕事は、秩序を守ることだが、同時に恐怖を与えることにもなる。あんたが東京でやってきた犯罪捜査とは、勝手が違うだろうな」

 私は冷気に肩を震わせながら、部屋の奥を見つめた。

 鉄格子の向こうに、やせ細った影が背を丸めて座り込んでいた。彼の存在が、この街での「秩序」が何を意味するのかを雄弁に物語っていた。

 階段を上り直す途中、速水が小さくつぶやいた。

「…まあ、深く考えるな。俺たちが生き残るためには、まず腹を満たして、自分の仕事をすること。それが奉天で生き残る秘訣だ」

 その言葉は軽口のようでありながら、兵舎全体を包む重圧の中で真実味を帯びていた。階段を上りきり、再び明るい廊下に出たとき、外の風が窓から吹き込み、冷気が頬を打った。

 以前いた場所はまだ建前があった。ここでは、法よりも命令が先にあり、任務よりも政治が先にある。そんな露骨さが、建物全体の匂いにまで染みついていた。

 速水は歩調を崩さず、振り返りもせずに言った。

「どうだ、長谷川さん。刑事上がりの目で見て、ここのやり方はどう映る?」

 私は言葉を選んだ。

「…犯罪を防ぐための組織というより、秩序を保つための装置としての役割が強い、と感じた」

 速水が口角を上げる。

「正解だ。そして、俺たちは軍の歯車だ。歯車が回るためには、軸の言うことを聞かないといけない。気に入らんだろ?」

「…気に入らないな」

 つい本音が漏れた。

 すると速水は短く笑い、壁に立てかけられた木銃を軽く指で弾いた。

「その気持ちを捨てなくていい。むしろ残しておけ。ここにいる奴らの大半は命令で動く。だが、命令に従うだけじゃダメな時もある。…あんたはあんたの仕事をして俺たちを補うんだ」

 その言葉で、私は初めて速水という男に触れたような気がした。

 食い意地の張ったただの兵站屋ではない。彼もまた、この奉天の街で自分の仕事をして生き延びている。

 廊下の突き当たりに窓があった。そこから街並みを見下ろすと、夕暮れの奉天が一望できた。

 煙突から立ち上る黒煙、凍った道を行き交う馬車、角ごとに立つ憲兵の姿。

 そのすべてが、私に無言の圧力をかけてくる。

(…これが、俺の新しい街か)

 ポケットの中の革張りの手帳を指先でなぞる。東京で記してきた記録の断片が、今もそこに眠っている。

 だが、この街で同じように記録を重ねても、それは果たして、何かの役に立つだろうか。

 速水が窓辺で欠伸をかみ殺しながら言った。

「腹が減ったろう。食堂に行くか。ここじゃ飯が唯一の楽しみだ。少なくとも、俺にとってはな」

「長谷川さんも食ってよく寝れば、その顰めっ面も多少マシになるだろう」

 そう言って笑う彼の横顔には、兵士である前に一人の人間の素顔が覗いていた。

 私は小さく頷き、足を前へ進めた。


 それは、食堂から兵舎へと戻り、夜の終礼に向かう途中のことだった。

 唐突に、そしてはっきりと現れた。

 階段を降りる速水が前を歩き、足音だけが規則正しく響く。

 コン、コン、コン――。

 一定の間隔で刻まれる音に、私は歩調を合わせる。踏み替えるたび、靴裏がわずかに滑り、段の縁に体重が集まった。鼻腔には兵舎の匂いと石炭の匂いが混じり、呼吸が少しだけ重くなる。

 半ばまで降りた頃、音がいきなり遠のいた。

 速水の踵が段を打つ乾いた音が、薄い膜の向こうに移ったように感じられる。視界の周縁が滲み、段差の輪郭がわずかに柔らかく崩れる。

 瞬きを一つ。間に小さな空白が挟まる。次の段が、思っていた場所から半足ずれて現れた。

「大丈夫か?」

 異変を察知した速水が短く言った。

 私は喉の奥で返事をして、指に力を込め手すりを握る。

 鉄の冷たさが掌の熱を奪う。夕日が壁に当たって反射し、白く散った。

 最後まで階段を降りると、意識が戻って来たのを感じることができた。

「長谷川さん、あんた持病でもあるのか?」

 速水が、私が安定するのを待って口を開いた。

「いや、こんな風になったのは初めてだ。一時的なものだと思うが」

 環境の変化に身体も心もついていっていないのかもしれない。

「速水中尉の言うとおり、腹いっぱい食って、たっぷり寝た方がいいかもな」

 私がそう言うと、速水も少し安心したらしい。

「そんな口が利けるようなら、大丈夫そうだな」

 石畳の道を、軍靴が小気味よく響いていた。


 翌日。私は速水に同行し、着任して初めて市街地の巡回任務に出た。

 奉天の街は、東京よりずっと混沌としている。

 日本人居留地の赤煉瓦造りの建物の並びを抜けると、すぐに市場へ繋がっていた。干した魚の匂い、石炭の煤煙、酒と汗の混じった匂いが渦を巻く。

 その中で、私の肩章はひときわ浮いていた。

 露天の老婆が籠に手を伸ばし、葡萄を勧めるような素振りを見せかけて、すぐに口をつぐんだ。男たちは、こちらを一瞥すると吐き捨てるように唾を落とすか、逃げるように足を早めた。

「憲兵」という存在が、ここでどういう意味を持つかを肌で思い知らされた。

「長谷川さん」

 背後から声を掛けられた。振り返ると、速水が片手に警棒を持ち、軽く笑っていた。

「これが奉天の日常だ」

 そう言いながら彼は焼き栗の屋台に近づき、慣れた手つきで小銭を放って袋を受け取った。

「俺は気楽にやらせてもらってるがね」

 栗を一つ口に放り込み、速水は肩を竦めた。

「憲兵は、怖がられるのも仕事のようだな」

 私の軽口に速水はなんとも言えない顔をした。

「怖がられるくらいなら、世話ないんだけどな。あんたもここの憲兵隊の噂くらい聞いたことあるだろ?」

 憲兵隊が、思想統制や犯罪捜査で被疑者を拷問にかけるという話のことを言っているのだろう。

 多少強引な取り調べは東京でも経験があったが、それとは比べ物にならないはずだ。

「聞いたことはあるが、実際立ち会いたくはないな」

 そう口にした私の言葉に、速水は栗を噛み砕きながら目を細めた。

「まあ、誰だってそう思うさ」

 彼は紙袋を私に差し出した。湯気の立つ栗を一つつまみ、口に含む。熱が舌を焼くが、その素朴な甘みが冷えきった胸にじんわりと染みた。

 速水は歩き出し、露天の間をすり抜けながら続けた。

「怖がられるってのは、便利でもあるんだ。兵が勝手に逃げ出すのも、商人が税を誤魔化すのも、全部『憲兵が来るぞ』の一言で済む」

「脅しで統制を取るのか」

「そう。だが、それだけじゃ持たねえ。締めつけが強ければ、その分反発が生まれる。兵士も市民も息吐けるとこがないと、どっかで爆発しちまう」

 彼は足を止め、振り返りながら人混みを顎で指した。

「飯の時くらいは肩の力抜いて過ごせる街になればいいな」

 その時、路地の向こうから怒鳴り声が聞こえた。

 市場の裏手、若い兵士が二人、中国人の行商を押さえつけていた。籠の中には銀色の煙草缶が転がっている。

「密売か…」

 私が足を向けようとしたとき、速水が腕を伸ばして制した。

「慌てるな、長谷川さん」

 速水は片手をポケットに突っ込み、ゆっくりと現場へ歩み寄った。

 兵士たちは速水の上官としての階級章を見るや否や、硬直して敬礼した。

「中尉殿! こいつ、禁制品を持っておりまして!」

 速水は籠の中を覗き込み、缶を一つ取り上げると、鼻先で転がした。

「上海製の煙草か…なるほど」

 彼はふっと笑い、兵士に缶を返した。

「全部押収して、報告書に書け。記録を残しておけば、次はもっとでかい案件に繋がる」

「はっ!」

 行商の男は怯えた目をこちらに向けた。

 速水は何事もなかったかのように、自分の持っていた紙袋を男の籠に放り込んだ。

「寒いだろ。帰って子どもに食わせてやれ」

 兵士たちが去った後、私は思わず口にした。

「…いいのか?」

「腹が減ってる奴に理屈は通じねえよ。孫子も言ってるだろ。兵は拠るところ食に在り。市井の連中も一緒さ」

 軽口めいたその一言に、私は言葉を失った。

 おどけているようで、その眼差しは鋭く、奉天の街に漂う欺瞞を読んでいた。

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