第一話 冬の空
一九三四年、冬、東京。
十二月の寒気が石造りの廊下を貫いていた。
庁舎の内側にいても吐く息は白く、窓硝子には霜がにじみ、隙間風が頬を刺した。
まだ、勤め人たちが職場に向かっている時刻だ。
呼び出しは唐突だった。上層部からの命令で「八時ちょうどに執務室へ来い」とのみ伝えられ、理由も知らされないままである。
長い廊下を進むたび、私の胸の奥には冷たい疑念が広がっていく。
事件の処理の不備を咎められるのか、それとも上の気まぐれか。経験的に言えば、こういう呼び出しが良い知らせであったためしは少ない。
重厚な扉を叩くと、中から低い声が「入れ」と応じた。室内は暖房が利いているはずなのに、空気は妙に冷えて張りつめている。
壁には帝国憲法の額縁が掛けられ、机の上には辞令の紙束が整然と並んでいる。その一枚を手に取りながら、上司は淡々と告げた。
「長谷川、お前は転属となった。関東軍憲兵隊、奉天勤務だ」
その言葉を聞いた瞬間、壁に架かった時計の振り子の音がやけに大きく響いたように感じた。
私は一瞬、言葉を失い、背筋だけ反射的に伸ばす。
「…憲兵、ですか」
「そうだ。すでに決裁は済んでいる。語学と犯罪捜査に長けたお前の経歴と適性を考慮した結果だ。軍は人材を必要としている」
声色は冷たく、そこに私個人への配慮は欠片も含まれていなかった。
警察官として積み上げてきた年月が、辞令一枚で無に帰すというのか。私は奥歯を噛み締めた。
「自分は…まだ警察官として、現場に出ております。未解決の案件も抱えており…」
「長谷川」
上司は鋭く言葉を切った。机に指を叩きながら、冷ややかな目を向ける。
「警部補としての働きは認める。しかし、これは命令だ。従え」
その瞬間、私の胸中に熱さと冷たさが同時に走った。抗いたい思いと、それが無力であると知る諦念が入り混じる。
私は受け取った辞令を凝視した。紙片に過ぎぬものが、一人の人生の軌道を簡単に変えてしまう。
上司は部屋から出てこうとする私の背中に言った。
「老婆心ながら伝えておこう、おまえは組織に馴染まん。だが、組織には組織の正義がある。変われ長谷川」
私は無言で退室した。
執務室を出たとき、廊下の窓から差し込む冬の日差しが、妙に白く、どこか不吉さを感じた。外の空には飛行機雲が一本、細く延びている。遠い満洲の空と地を、その白い線が結んでいるように思えた。
私はポケットから古びた手帳を取り出した。そこには今までとってきた記録があった。捜査で拾った些細な証言、気付いたこと等、事件や日常の痕跡がびっしりと書き込まれている。無意識に親指でその頁をなぞり、唇の内側でつぶやいた。
(俺は…憲兵になるのか)
冷えた空気の中で、手帳の頁だけが微かに震えていた。
―――
神田の裏路地にある場末の飲み屋。煤けた暖簾をくぐると、畳敷きの小上がりに同僚たちが既に集まっていた。
赤提灯の灯りに照らされた顔は酔いで赤く、寒気に強張った頬が緩んでいる。
「おい哲也、こっちだ」
呼ばれて、座布団に腰を下ろすと、湯気のたつ徳利が差し出された。
同僚の一人が笑いながら杯を満たす。
「まったく、奉天だなんて。難物のおまえが憲兵隊の連中に混ざってやっていけるのか?」
場が静かに笑いに包まれる。
その笑いの奥には一抹の寂しさが滲んでいた。
別の同僚が真顔で言った。
「あの帝人の件でやり過ぎたんだろ。…いや、何も言うな。俺たちもわかってる」
私は杯を口に運び、黙って酒を流し込んだ。熱い液体が喉を焼き、胸の奥まで広がっていく。
帝人事件とは、多くの財政界人が逮捕・起訴されたものの、最終的には無罪・不起訴が相次ぎ、事件そのものが『幻の経済疑獄』と呼ばれる結果に終わった。
司法は権力に屈するという不信感を広げ、同時に軍部が「政治は腐敗している」と政治介入を正当化する口実にもなった。
私も捜査に関わり、地道に証拠を集め書類を提出した。
しかし、上司から「その部分は書くな」と調書を直され、上層部からも証拠をもみ消す圧力をかけられた。
「あと、あの留学生の件も、上はお気に召さなかったんじゃないか?」
と、同期が言った。
思想犯として逮捕された中国人留学生のことを結果として庇ってしまったことがあったが、それも上司に睨まれることになった一端ではあると思う。
「それでもな」
年配の警部が、箸を置き、低い声で続けた。
「お前みたいな、証拠を大事にする奴は、俺は嫌いじゃない。…向こうでも達者でやれよ」
私は頷き、机の端に置いた革張りの手帳に視線を落とした。
黒革の表紙は幾度も開かれ、角が丸く擦り切れている。
窓の外では雪がちらつき始めていた。東京で見る冬景色も、これで見納めになるかもしれない。
杯を置き、静かに言葉をこぼした。
「…みなさんも、お達者で」
誰も何も返さなかった。ただ沈黙の中で、各々の杯が音を立ててぶつかり合った。その音が、別れの合図のように響いた。
―――
年が明けて、一九三五年一月。
東京駅の赤煉瓦の駅舎は、朝の寒気に包まれていた。白い吐息が行き交い、汽笛の音が響く。
構内は軍服と外套に身を包んだ男たちや見送りの人々であふれていた。外交官、軍属、商社員、そして満洲へ渡る移民団。荷車には大きな木箱が積まれ、子どもが泣き、老婆が線路を覗き込む。
「新天地」へ向かう者と、それを見送る者の群れだった。
私は、手にしたトランクの重みを確かめながら改札を抜けた。中には替えの軍服、書類、そして革張りの手帳が収められている。
送別会で同僚たちと酒を酌み交わした夜から今日まで身辺整理に追われる日々だった。今はただ、冷たい現実だけが待っている。
プラットホームに立つと、吐き出された蒸気が白い霧のように漂った。
軍人らしい若者が「皆さん、お元気で!」と叫び、見送る女たちが手を振る。笑顔の裏に、不安の影が濃く見えた。
私は一人、硬い木のベンチに腰を下ろしていた。
帝人事件で燃やされた帳簿。思想犯の犯人とされた青年が震えながら口にした「僕は紙を運んだだけ」という言葉。
あれらはすべて、私の記憶と手帳の中にしか残っていない。
汽笛が鳴った。乗り込む時刻だ。
私は立ち上がり、トランクを抱えて車両へ向かった。
鉄の車輪が動き始める。
窓から見える東京の街並みがゆっくりと後退していく。赤煉瓦の駅舎、煤けたビル、そして雑踏の群れ。
やがて視界に広がるのは、白く霞む冬の空と、果てしない線路だけになった。私は、奉天へ向かう長い旅路に身を預けた。
―――
満洲の大地は、灰色の布を広げたように沈黙していた。
東京から数日をかけた列車と船の旅を終え、私はようやく奉天駅のプラットホームに足を下ろした。
石炭の煙と雪解けの泥臭さが混ざり合い、吐く息さえ煤けて感じられる。
駅舎の天井は高く、鉄骨の梁に白い霜が張りついていた。構内を埋める人波は、東京とは比べものにならないほど雑多である。
日本軍の軍服をまとった兵士、厚い棉入れを着た満洲人、毛皮帽をかぶったロシア人、そして黒いマントの西洋人、声も言葉も入り乱れ、汽笛と怒号と笑い声が混沌と響いていた。
その混雑の中、憲兵の制服を見つけた瞬間、人々の視線は一様に冷えた。
露店の老婆は手を止め、売り声を潜め、子どもは母の背に隠れる。
私はその光景に、胸の奥で鈍い痛みを覚えた。
警察官であった頃、自分はこんな風に見られなかったはずだ。だが今は、彼らから恐怖の象徴として見られている。
駅前広場には、軍用トラックが何台も並び、兵士たちが荷を積み下ろしていた。銃を携えた兵士が立ち並び、街路の角ごとに監視の目を光らせている。奉天。帝国の威信と緊張とが同居する街。その空気の重さを、私は初めて全身で感じ取った。
憲兵隊の下士官が迎えに来ていた。
「長谷川少尉殿でありますな。こちらへ」
短く告げる声には、歓迎の色はなく、事務的な冷たさだけが滲んでいた。
石畳を踏みしめて車両へ向かう道すがら、私はちらりと背後を振り返った。
駅の雑踏の中で、ふと目が合った中国人の青年がいた。粗末な外套の襟を立て、何かを言いたげにこちらを見つめていたが、すぐに人波に紛れて姿を消した。
その視線には、恐怖だけではなく、怨嗟の影が宿っていた。
(ここでは、今までのやり方では通用しないかもな…)
心中でつぶやきながら、私は奉天憲兵隊行きのトラックに乗り込んだ。
奉天駅から軍用トラックに揺られること三十分あまり。
雪解けの泥に覆われた街路を抜けると、灰色の塀と鉄柵に囲まれた建物が見えてきた。正門には二人の憲兵が立ち、槍のように着剣された小銃を構えている。
彼らの鋭い視線を受けながら、私は深く息を吸い込んだ。東京の警視庁の廊下とは、まるで空気そのものが異なる。冷たさの奥に、押し殺された緊張が充満していた。
トラックが門をくぐり、砂利を蹴って停まる。
降り立った瞬間、冬の冷気が頬を刺した。兵舎の建物は煉瓦と木造を組み合わせた重厚な造りで、窓は格子に覆われ、外からは中の様子がうかがえない。
まるで「外界から切り離された砦」のように思えた。
案内役の下士官に導かれ、私は兵舎の玄関をくぐった。
中は石炭ストーブの熱で暖かいが、その匂いが鼻につく。廊下には規律正しく靴音が響き、通り過ぎる兵士たちは皆、無言のまま敬礼を寄越していった。
敬礼に応じながら、私は胸の奥に奇妙な圧迫感を覚えた。ここでは誰もが「軍人」という肩書きに縛られ、個を消している。
案内された執務室では、分厚い机の奥に上司らしき男が座っていた。
階級章は大尉。小柄だが眼光鋭く、細い指先で書類を整えながら私を一瞥する。
「東京からか。…刑事上がりだと聞いている」
「長谷川哲也、少尉、着任いたしました」
「ここは軍隊だ。警察の流儀は通じん。だが、お前の経験は役に立つだろう。奉天では事件も、思想も、謀略も、なんでもありだからな」
淡々とした口調だったが、そこに「ようこそ地獄へ」とでも言うような皮肉が混じっていた。
辞令を受け取ると、下士官が再び現れ、宿舎へと案内された。
手配された宿舎は、奉天駅から車で十分ほど離れた石造りの建物だった。
奉天憲兵隊の宿舎は、兵舎ほどの無骨さはないにせよ、どこか湿った空気をまとっていた。
木製の廊下は足音を立てるたびに軋む。石炭の煙が染みついた天井は薄く煤け、窓の外では雪解けの泥を踏む馬車の音が遠く響いていた。
私にあてがわれた部屋は二階の一隅だった。六畳ほどの板敷きに、鉄製の簡易ベッドと木机が一つ。窓際の硝子は外気を遮るには頼りなく、隙間風が吹き込んでくる。東京で使っていた革張りの手帳を机に置くと、場違いなほど小さく見えた。
隣室では、同じく転属してきた憲兵が衣服を替えながら、誰かと小声で話していた。壁越しに聞こえるのは、家族のことでも戦況でもなく、配給の米の質や、近所の定食屋の味についてだった。その平凡さがかえって胸に重く響いた。
夕刻になると、広間に全員が集められた。古い石炭ストーブの周りに粗末な机が並び、十数人が肩を寄せ合う。
食卓に並ぶのは大鍋の麦飯と塩気の強い漬物、それに薄い汁物だけ。腹を満たせるが、それだけだった。しかし、誰も不満を口にしない。むしろ、食器がぶつかり合う音がひとときの賑わいを生み、各々が笑い声を漏らした。
私は黙々と飯をかき込みながら、周囲を観察した。
北満から派遣されてきた者、東京から左遷同然に回された者、いずれも目の奥に同じ色を宿しているように見える。疲労と諦念の入り混じった鈍い光。それは東京の警視庁で見慣れたものより、いっそう濁っているように思えた




