第十話 運命の女
奉天の空から、重い鉛色の雪が降り始めていた。
追跡班の隙間風が吹き込む執務室で、速水が机の上に新たな手配書を放り投げた。そこには、あどけなさの残る若い兵士の顔写真が印刷されていた。
「三島上等兵。二十歳」
速水は、だるまストーブで手を温めながら呆れたように言った。
「所属する通信隊の金庫を破って、現金五百円を盗み出して脱営。武器を持ち出したわけでも、裏のシノギに手を出していたわけでもない。生真面目なだけの通信兵だ」
「単独の窃盗なら、大金を持って内地へ逃げる気か」
私が尋ねると、速水は首を振った。
「通信隊の連中を締め上げたら、面白い話が出てきた。三島はどうやら、ホテル街の裏にある場末のキャバレーで働く、白系ロシア人の踊り子に入れ込んでいたらしい。その女が青幇に売り飛ばされる寸前だと泣きついてきて、身請け金と大連までの切符代として、金庫の五百円を盗んだってわけだ」
速水は煙草を取り出し、トントンと机で叩いた。
「愛する女と逃避行。ロマンチックなこったが、軍法会議じゃ死刑だぜ」
私は手帳に「白系ロシア人の踊り子」と書き込み、外套を羽織った。
「大連へ向かうなら、必ず奉天駅の操車場に現れる。行くぞ」
―――
深夜の奉天駅。旅客用の華やかなプラットホームから遠く離れた貨物ヤードは、深い闇と吹雪に沈んでいた。
長距離列車の発車待ちをしている黒い無蓋貨車の陰で、身を寄せ合う二つの影を見つけた。防寒着を着込んだ若者と、大きな革のトランクを抱え、古びたショールを頭から被った女性だ。
「そこまでだ、三島上等兵」
私が暗がりから声をかけると、二人は弾かれたように振り返った。三島は顔を青ざめさせながらも、とっさに女性を自分の背中に庇い、震える手で軍用のナイフを抜いた。
「こ、こないでくれ……! エレーナには指一本触れさせない!」
その背後で、エレーナと呼ばれた女は何も言わなかった。ただ、ショールを深く被り直し、じっと私たちの動きを見ている。恐怖に取り乱す三島とは対照的な、その静けさが、かえって私の神経に引っかかった。
「無駄だ。金庫から盗んだ金でこの女を救っても、お前が銃殺されれば女はどうなる」
私が歩み寄ろうとした。三島は極度の恐怖でナイフを持つ手がガタガタと震えている。しかし、背後に隠れているエレーナの目は、怯えるどころか氷のように冷たく、私の後ろにいる速水との距離を正確に測っていた。
そして、彼女が大切そうに抱えている革のトランク。着替えが入っているにしては、彼女の腕の筋肉の張りが尋常ではない。異常に重いのだ。
「……待て、三島。お前、本当にその女の借金を払ったのか」
私が尋ねると、三島は泣きそうな顔で叫んだ。
「払ったさ! 闇市の顔役に五百円を叩きつけて、彼女を連れ戻してきたんだ!」
「おかしいな」
私は拳銃の安全装置を外し、銃口を三島ではなく、背後のエレーナに向けた。
「五百円を払って自由の身になったのなら、なぜそんなコソ泥のように貨車に潜り込む必要がある。正規の切符を買って、堂々と客車に乗ればいいだろう」
「そ、それは……俺が、軍を脱走したから……」
「違うな。明日にならなければ指名手配は検問には回らない」
私は鋭く言い放った。
「その女のトランクを抑えろ!」
速水が動いた瞬間、怯えていたはずのエレーナが、ロシア語で低く舌打ちをした。彼女は三島の背中を乱暴に突き飛ばして盾にし、ショールの下から小ぶりなブローニング拳銃を引き抜いた。
「なっ……エレーナ!?」
三島が信じられないものを見る目で倒れ込む。だが、引き金を引くより早く、速水の蹴りがエレーナの手首を正確に弾き飛ばし、そのまま彼女を雪の上に組み伏せた。
「痛えな、こいつ……!」
速水が奪い取った革のトランクの留め金を破壊し、中身を雪の上にぶちまけた。三島が息を呑む。そこに散らばったのは、女の着替えなどではない。丁寧に油紙で包まれた、数十個の黒いレンガ状の塊、極上の阿片だった。しかも、その包み紙には、見覚えのある『朱印』が押されている。前回の権藤の事件で知った、軍の横流し品の証拠だ。
「おいおい……『朱印』の阿片じゃねえか。しかもこの量、末端価格で数千円は下らねえぞ」
速水が呆れたように口笛を吹いた。
「どういうことだ……エレーナ、君の借金は……」
三島が震える声で尋ねると、雪に顔を押し付けられたエレーナは、流暢で冷酷な日本語で吐き捨てた。
「馬鹿なガキ。借金なんて最初から無いわよ。私は青幇の運び屋。この街の検問は厳しいからね……愛に狂った若い軍人の軍服と身分証を利用すれば、満鉄の荷物検査を素通りできると思っただけさ」
「嘘だ……君は、俺を愛してるって……!」
「五百円ごときで買える愛なんて、この奉天にはないわ」
三島はその場に崩れ落ち、雪を握りしめて子供のように泣きじゃくった。彼は純粋に愛する女を救うため、軍の金庫を破り、すべてを捨てた。だが、彼自身がただの「密輸のための通行手形」として利用されていただけだったのだ。あまりにも残酷な、泥濘のような現実。
「さて、長谷川さん。どうする」
速水がエレーナに手錠をかけながら言った。
「この女と阿片は、特務機関に引き渡す。横流しの大元を叩くための最高の証拠だ」
私が答えると、三島が這いつくばるようにして私の足元に縋り付いた。
「少尉殿……俺を、俺を撃ち殺してください……! 俺は、軍の金に手をつけて、こんな女のために……もう、生きて恥を晒したくない……!」
私は彼を見下ろした。軍に従えば、彼は本部に連行され、銃殺される。私はゆっくりと拳銃をホルスターに戻し、懐から自分の財布を取り出した。中に入っていた札をすべて抜き取り、三島の足元へ投げる。
「長谷川さん……?」
「三島上等兵は、密輸業者と相撃ちになり死んだ。遺体は密輸業者に回収されて行方不明。俺はそう報告書に書く」
私は三島の胸ぐらを掴み、無理やり立たせて、特務機関の手形を渡した。
「泣いている暇があったら、この金で西の国境へ向かえ。陳という男にこいつを見せれば話がつく。お前は今夜ここで死んだ。二度と、満洲の土を踏むな」
三島は信じられないものを見る目で私を見上げ、やがて札と手形を握りしめ、雪の上に深く頭を擦り付けた。彼はエレーナを一瞥することもせず、吹雪の闇の向こうへと、ふらふらと駆け出していった。
その背中が雪に紛れて消えるのを見届けながら、私は懐の手帳に指を触れた。またしても、獲物を逃がした。佐藤、権藤、そして三島。三度目だ。黒田の「運は続かんぞ」という声が、耳の奥で冷たく反響する。あの男は、追跡班が獲物を取り逃がし続けていることに、とっくに気づいている。この綱渡りが、いつまで保つのか。次に川へ落ちるのは、私自身かもしれない。それでも、目の前で泣き崩れる若者を、軍の銃殺柱へ送ることだけはできなかった。
「……甘いな、長谷川さん。刑事の勘は鋭いが、軍の犬になりきれねえのは相変わらずだ」
速水が、呆れたように煙草に火を点けた。
「あの馬鹿が金庫から盗んだ五百円の損失分は、俺がなんとか帳簿をごまかして埋め合わせといてやるよ」
「恩に着る」
―――
三島の足跡が雪に消えるのを待って、速水がエレーナを立たせようとした。
「……やれやれ。男の純情を食い物にする、とんだ毒婦だったな。おい、立て」
「大した女優だな」
私は雪の上に散らばった阿片の包みを拾い上げながら、静かに言った。
速水の手が止まった。彼は訝しげに眉をひそめる、というより、何かを確かめるような目で私を見た。
「……長谷川さん。あんた、気づいてたのか」
「速水。お前も、本当は引っかかってたんだろう。この女を組み伏せた時、抵抗が甘すぎると」
速水は短く息を吐き、苦笑した。
「……ああ。拳銃を抜くにしちゃ、殺す気のねえ手つきだった。プロの運び屋が、あんなヘマをするかってな。だが、確信はなかった」
エレーナは私を鋭く睨みつけたが、その瞳の奥に、先ほどまでの冷酷さは無かった。
「本当にあいつを利用して逃げるつもりだったなら、わざわざ自分のトランクにこんな大量の阿片を入れておくはずがない」
私は阿片の包みをエレーナの足元に投げた。
「俺たちが声をかけた時、お前は咄嗟に三島の背後に隠れ、彼を『盾』にしたように見せかけた。だが、違う。俺たちの標的を自分に向けさせたんだ。彼を、密輸の共犯にしないために」
エレーナの肩が、ビクリと震えた。
「お前が三島を罵倒したのは、彼が俺たちに『騙された哀れな被害者』だと思わせるための芝居だ。そうだろう」
吹雪の音が、三人の間の沈黙を埋めた。やがて、エレーナはふっと自嘲するように笑い、それまで堪えていたように、その青い瞳から涙を溢れさせた。
「……本当に、嫌な憲兵さんね」
彼女の流暢な日本語が、震えていた。
「あいつは馬鹿よ。本当に馬鹿。この泥沼みたいな街で、私を本気で身請けしようだなんて……でもね、私に本物の花をくれた、たった一人の馬鹿だったの」
その言葉に、私は雪の上に落ちた三島の防寒着のポケットから、こぼれ落ちていた小さな紙包みを思い出した。先ほど彼を立たせた時に落ちたものだ。拾い上げて開くと、押し花になった、名も知れぬ白い野の花が一輪。この凍てついた満洲の、どこで摘んだものか。私は黙って、それをエレーナの見える位置に置いた。
彼女は押し花を見つめ、手錠をかけられた両手で顔を覆った。
「青幇の運び屋を抜けるには、この最後の仕事を成功させて、組織に金を払うしかなかった。大連に着けば、彼と一緒に……。でも、あなたたちに見つかった時点で、もうおしまい。だったら、あいつだけは、私を恨んででも、生きて逃げて欲しかった……!」
雪の降る操車場に、彼女の嗚咽だけが響いた。嘘にまみれた運命の女が最後についた、この美しい嘘。三島は彼女を「自分を騙した悪女」として憎み、その憎しみを糧に生きていくのだろう。彼女の本当の愛を知ることはない。
「……参ったな。とんだお涙頂戴じゃねぇか」
速水が、煙草を深く吸い込み、空を見上げて長く煙を吐き出した。
「長谷川さん。この女、どうする気だ。特務機関に渡せば、待ってるのは尋問と、その先は……分かってるだろう」
私はしばらく、雪に膝をついたエレーナを見下ろしていた。彼女は三島のためにすべてを引き受けた。その覚悟に、せめて報いる術はないか。
「速水。桐山への口添えを、俺からも頼みたい。この女が吐く青幇のルートは、二重帳簿の裏を取る材料になる。……協力者として遇するなら、特務機関も無下には扱えないはずだ。命の保証と引き換えに、証言させる。それが筋だ」
「へえ」
速水が意外そうに眉を上げた。
「あんた、この女に情が湧いたか」
「情じゃない。三島を逃がした以上、この女を無駄に死なせれば、あいつの犠牲が意味を失う。それだけだ」
我ながら、下手な嘘だった。速水は何も言わず、ただ小さく笑って煙を吐いた。
「立て、エレーナ」
私は彼女の肩を抱き起こした。押し花を握りしめた彼女の手は、凍える寒さの中で、微かに温かかった。
手帳を開き、新しいページに『朱印の阿片』と、『二人の恋人たち』の記録を刻む。名前は書かなかった。この街で、この夜のことを覚えているのは、私の手帳と、遠く西へ逃げていく一人の馬鹿だけでいい。




