第十一話 追跡班の面々
追跡班に、事件のない日というものが、稀にある。
その日は、朝から鉛色の空が低く垂れこめ、雪ではなく、冷たい霧のような雨が奉天の街を濡らしていた。手配書の新しい束は届かず、追うべき獲物もない。こういう日、地下の執務室は、奇妙に間延びした時間に支配される。
私は、だるまストーブの前で、湿った外套を乾かしていた。向かいでは速水が、椅子を後ろに傾け、古い雑誌を顔に乗せて眠っている。彼の傍らには、食べかけの饅頭が三つ、無造作に転がっていた。
追跡班の顔ぶれは、多くはない。
速水と私のほかに、書記を務める老兵の宮田曹長。もう五十に手が届こうという年で、若い頃に片脚を悪くし、前線には出られない。内地の憲兵隊に長く勤め、満洲事変の折に引っ張られて渡ってきたのだという。だが、字が達者で、書類仕事を任せれば右に出る者がいない。一日中、木机に向かって手配書を清書し、報告書を綴じている。
それから、無口な伍長の柏木。まだ二十代半ばだが、笑ったところを見たことがない。彼は元々、脱営兵の一人と同郷で、幼馴染だったという。その幼馴染を、二年前、『熱河作戦』の時に彼自身が追い詰めて捕らえた。以来、この部署から動こうとしない。動けないのかもしれなかった。
そして、今井伍長。相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔で、部屋の隅の椅子で煙管をいじっている。この態度だから、ここに追いやられたのではないか。
この五人が、奉天憲兵隊の誰からも「同胞狩り」と陰口を叩かれる、脱営兵追跡班の全員だった。
昼過ぎ、宮田曹長が茶を淹れてくれた。安い番茶だが、この寒さの中では、ありがたい温もりだった。
「長谷川少尉殿は、東京のご出身でしたな」
宮田が、湯呑みを差し出しながら言った。
「ああ。警視庁にいた」
「刑事が、憲兵に。……しかも追跡班に。妙なめぐり合わせですなあ」
宮田は、しわの寄った目を細めて笑った。悪意のない笑いだった。
「わしなんぞは、もう長いこと、この仕事をしております。若い者が来ては、去っていく。耐えられんのですよ、これは。仲間だった男を、犬みたいに追う。捕まえれば、そいつは終わりだ。……何度やっても、慣れません」
私は、湯呑みを両手で包んだまま、黙って聞いていた。
「慣れないのが、正しいのかもしれませんな」
宮田は、ぽつりとそう言うと、また自分の机へ戻り、手配書の清書を始めた。ペンが紙を擦る、規則正しい音だけが、部屋に響いた。
その音を聞きながら、私は、外套の内側にいつも収めている手帳の重みを思った。
私は、逃がしてきた。組織に消されるであろう者たちを、記録し、闇へ逃がしてきた。それを、密かな抵抗だと思ってきた。
だが、その一方で、私は確かに、この部署の人間だ。脱営兵を追い、追い詰める側の人間だ。逃がした兵士の陰で、私は一体、何人の脱営兵を、粛々と本部へ引き渡してきただろう。逃がすに値すると私が「判断」しなかった者たちを。金のために逃げ、女に狂い、ただ怖くて逃げた、どこにでもいる兵士たちを。
(俺は、何様のつもりだ)
湯呑みの中で、番茶がゆっくりと冷めていく。
私は、彼らの生殺与奪を握っている。誰を記録し、誰を逃がし、誰を見捨てるか。それを決めているのは、法でも、軍規でもない。私という一人の人間の、勝手な物差しだ。それは、前線の兵を数字として切り捨てる「化け物」と、本質的にどう違うのか。
答えは、いつものように、出なかった。
夕刻、柏木が黙って外套を羽織り、部屋を出ていこうとした。
「柏木」
私が声をかけると、彼は足を止めたが、振り返らなかった。
「どこへ行く」
「……墓です」
短い答えだった。
「昨日が、命日だったので」
それだけ言うと、柏木は霧雨の中へ出ていった。彼が追い詰め、捕らえ、そして銃殺された幼馴染の墓へ、彼は毎年、その日に通っているのだと、後で宮田が教えてくれた。
「あの子はね」
宮田は、ペンを止めずに言った。
「自分を、許しておらんのですよ。任務だった、命令だったと、頭では分かっておる。だが、心が追いつかん。だから、この部署から離れられんのです。他の部署へ移れば、忘れてしまう。忘れることが、あの子には、裏切りに思えるんでしょうな」
私は、柏木の出ていった扉を見つめた。
忘れないこと。記録すること。それは、私が自分の抵抗だと信じてきたものと、同じ形をしていた。柏木は、墓参りという形で、殺した相手を記録し続けている。私は、手帳という形で。
やり方は違っても、私たちは皆、この厭わしい仕事の中で、自分がした事、させられた事を、忘れまいと必死にしがみついているだけなのかもしれなかった。
夜、雨が雪に変わった。
いつの間にか目を覚ましていた速水が、饅頭の最後の一つを口に放り込みながら、私の顔を覗き込んだ。
「辛気くせえ面してるな、長谷川さん」
「……そう見えるか」
「宮田のじいさんの茶を飲むと、たいてい、みんなそういう面になる。あのじいさんの茶には、辛気くさくなる草でも入ってんじゃねえかってな」
速水は、そう言って軽く笑った。だが、その目は、笑っていなかった。
「あんた、たぶん、ろくなことを考えてねえだろ。俺たちは追う側だ、逃がした奴の陰で見捨てた奴がいる、俺は神様気取りか、ってな」
私は、思わず速水を見た。
この男は、時々、こうして人の内側を正確に言い当てる。数字を読むように、人の心の帳尻を読むのだ。
「図星か」
速水は、ストーブに新しい石炭をくべた。赤い火の粉が、ぱちぱちと爆ぜる。
「なあ、長谷川さん。俺は補給の人間だ。だから、こう考える。あんた一人が救える人間の数なんざ、たかが知れてる。この街で消えていく命の総数から見りゃ、三人だろうが十人だろうが、誤差みてえなもんだ」
「……慰めているのか、それは」
「いや、逆だ」
速水は、火を見つめたまま続けた。
「誤差だから気にすんな、って話じゃねえ。誤差だと分かってて、それでもあんたは手帳に書く。逃がす。見捨てた奴のことも、忘れずに背負う。……それは、算盤じゃ弾き出せねえ答えだ。俺には、できねえ」
彼は、めずらしく、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「俺は、利害で動く。得にならねえ人間は、切り捨てる。それが、俺のやり方だ。だが、あんたを見てると、たまに思うんだ。損得を超えたところで、それでも誰かの人生を背負おうとする馬鹿が、この世には要るんじゃねえかってな」
石炭の火が、速水の横顔を赤く照らしていた。
「だから、あんたは神様気取りなんかじゃねえ。神様なら、誰を救うか、迷いやしねえ。あんたが迷って、苦しんで、それでも書き続けてるってことは、あんたがちゃんと、一人の人間だって証拠だ」
私は、しばらく何も言えなかった。
この男は、豪放な大食漢の仮面の下で、いつも、こうして人の芯を見ている。冷徹な計算者でありながら、計算では届かないものの価値を、誰よりも知っている。
「……速水」
「なんだ」
「お前は、なぜ奉天にいる」
私が問うと、速水は一瞬、火を見つめる目を、遠くへやった。老狗の名を聞いたときと、同じ目だった。
「……いつか、話すさ」
彼はそう言って、饅頭の袋の口を丁寧に折り畳んだ。
「今日は、やめとこう」
私は、それ以上、問わなかった。この男が自分から話す時を待つ。それが、この数か月で私が学んだ、速水進一という男の扱い方だった。
夜半、雪は本降りになった。
宮田は帰り、今井は先に宿舎へ引き上げ、柏木はまだ戻らない。地下の執務室には、私と速水の二人だけが残っていた。
私は、手帳を開き、今日という日を、書き記した。
事件はなかった。誰も逃がさず、誰も捕らえなかった。だが、書くべきことは、あった。宮田の言葉。柏木の墓参り。速水の、火に照らされた横顔。この掃き溜めのような部署に流れ着いた、爪弾き者たちの、湿った、けれど確かな温もり。
誰からも嫌われる仕事をしながら、それでも、慣れまいと、忘れまいとしている男たち。彼らもまた、記録されるべき人間だと、私は思った。
ペンを走らせる私の手元を、速水が、雑誌越しにちらりと見た。
「そんなことまで書いてんのか」
「ああ。……お前が喰った饅頭の数もな」
速水が、めずらしく声を上げて笑った。地下の冷たい部屋に、その笑い声だけが、温かく響いた。
窓の外では、雪が、汚れた奉天の街を、静かに白く覆っていく。
明日になれば、また手配書が届くだろう。また、誰かを追い、誰かを追い詰める、厭わしい一日が始まる。だが、少なくとも今夜は、この小さなストーブの火と、隣で笑う男の温もりが、あった。
私は手帳を閉じ、静かに目を閉じた。今夜は、発作の眠りではなく、ただ、穏やかな眠りが訪れそうな気がした。




