第十二話 老兵と記録者
「大久保清吉、二等兵。二十歳」
宮田曹長が、清書したばかりの手配書を滑らせた。写真の男は、まだ少年の顔をしている。頬に薄い産毛が残り、緊張のあまり眉が八の字に垂れていた。
「山形の在の出です。歩兵連隊の使役中に、ふらりと列を離れて、そのまま戻らんかったと」
「持ち出したものは」
「何も。銃も、金も、書類も。着の身着のまま、飯盒一つ持っておらんそうです」
私は手配書をよく見た。裏には何も書かれていない。密輸も、横流しも、朱印も、老狗も、この紙には一片も関わりがない。ただ、二十歳の男が一人、歩いて消えただけだ。
「つまらん獲物ですねぇ」
部屋の隅で、今井伍長が煙管の雁首を親指で撫でながら言った。火は点けていない。
「面白い獲物なんてものがあるのか」
私が言うと、今井は薄く笑っただけだった。
速水は珍しく口を挟まず、だるまストーブに石炭をくべている。今日は補給監部の帳簿を抱えて来ていて、朝からずっとそちらに目を落としていた。速水が黙っていると、この部屋は妙に広く感じられる。
「柏木」
私が呼ぶと、窓際の机で無言のまま手配書を睨んでいた柏木伍長が、顔を上げた。
「見当はつくか」
柏木はしばらく写真を見つめてから、初めて口を開いた。
「線路です」
「線路?」
「こういう手合いは、必ず線路沿いを歩きます」
彼の声は低く、感情の抑揚がほとんどなかった。
「地図も金も持っていません。方角も分からん。ですが、線路だけは分かる。あれは内地に繋がっているような気がするから。……南へ、南へと、枕木を数えながら歩くんです。おかしな話ですが、彼らは本気で、歩いて海まで行けると思っている」
私は言葉を失った。
柏木がなぜ追跡班で誰よりも脱営兵を見つけられるのか、その理由が、たった今、腑に落ちた。この男は、逃げる者の頭の中が見えるのだ。二年前、熱河の戦線で自分が追い詰めた幼馴染の頭の中が、きっと今も見えている。
「奉天から南へ延びる線は三本。ですが、警戒の緩い区間は限られます。……四道街から南、車両基地の裏手あたりに、線路番の小屋がいくつか。あそこは冬でも凍えずに寝られます」
「行くぞ」
私が立ち上がると、宮田曹長が、ペンを持ったまま静かに言った。
「長谷川少尉殿。今日は、何日でしたかな」
妙な問いだった。
「二十日だ」
「大久保が隊を離れましたのは、十五日の午後であります」
老兵は、それだけ言って、また書類に目を落とした。
私はその意味が分からぬまま、外套を掴んだ。
柏木の見立ては、恐ろしいほど正確だった。
四道街から線路沿いに一里ほど下った先、崩れかけた線路番の小屋の中で、大久保清吉は膝を抱えて眠っていた。痩せた身体を丸めて。
我々の足音に気づいて目を覚ました瞬間、彼は逃げようともせず、ただ両手を上げた。
「……すいません。すいません」
それが最初の言葉だった。
抵抗する気力も、逃げる体力も、もう残っていなかった。彼は五日かけて、ただ線路を歩いていた。飯も食わず、南へ、南へと。
トラックの荷台に乗せられた大久保は、震えながら小さな声で繰り返した。
「母ちゃんが、病気だって手紙が来て。……それだけなんです。それだけなんです」
我々は粛々と大久保を連行した。
地下の取調室は、天井が低く、石炭ストーブの熱がこもって息苦しかった。
「じゃ、始めますか」
今井伍長が、けだるそうに椅子を引いた。
私は壁際に立って、それを見ていた。速水は扉の傍で腕を組み、目を閉じている。
そして、私は初めて、この男の仕事を見た。
今井は、大久保を怒鳴らなかった。殴らなかった。声を荒げすらしなかった。
ただ、椅子の位置をほんの少し動かし、ランプの向きを変え、煙管を卓の上に置いた。それだけの動作で、部屋の空気が変質した。
「大久保。足、痛いか」
「……はい」
「そうか。凍傷は骨まで来る。俺も昔やった」
今井は自分の脛を軽く叩いてみせた。大久保の肩から、ほんの少し力が抜けた。
それから今井は、極めて事務的に、一つずつ訊いていった。何を食ったか。どこで寝たか。誰に会ったか。同じ問いを、順番を変えて、三度。四度。少年が答えるたびに、今井は「そうか」とだけ言って、次に移る。
私は背筋が寒くなった。
これは、私が東京でやってきた取り調べとは、根本的に違う。私は相手の嘘を突き崩そうとした。今井は違う。この男は、相手の頭脳そのものを、素手で開いている。
恐怖も、優しさも、道具としてしか使っていない。人の中身を、缶詰でも開けるように開けて、中身を並べて見せる。
そして、今井はそれを、楽しんでいなかった。
顔には何の色もない。半長靴を磨くのと同じ手つきで、人間の心を開けている。それが、何よりも恐ろしかった。
「じゃ、最後だ」
今井が、初めて卓に肘をついた。
「大久保。お前、隊を出たのは、何日の何時だ」
少年の目が、揺れた。
「……分かりません」
「分からんか」
「日にちが……歩いてるうちに、分からなくなって……」
今井は頷いた。それから、私の方を一度も見ずに、こう言った。
「そうだよな。ろくに飯も食わないでいると、時間がわからなくなる。三日も逃げりゃ、自分がいつ出たかなんて誰も覚えちゃいねえ」
彼は煙管を取り上げ、雁首で卓を軽く叩いた。
「だから、俺が思い出させてやる。……お前が使役の列を離れたのは、朝飯の後だったか、昼飯の後だったか」
「……昼飯の、後です。芋が入ってたのを、覚えてます」
「その日、雪は降ってたか」
「……降ってません。晴れてました」
「よし。じゃあ十五日だ」
今井は、それだけ言って立ち上がった。
「終わりです、少尉殿。十五日の午後。間違いありません」
私は、その背中に問わずにいられなかった。
「今井。……お前、その気になれば、こいつに何日でも言わせられただろう」
今井は振り返った。初めて、まともに目が合った。
「ええ」
あっさりとした肯定だった。
「十日でも、二十日でも。何なら、逃げる途中で人を殺したと言わせることもできます。……そういう技術ですので」
彼は煙管を懐にしまい、大儀そうに肩を回した。
「けど、そりゃ俺の仕事じゃない。俺の仕事は、こいつがいつ隊を出たかを吐かせることです。それだけです」
そう言って、彼は部屋を出ていった。あくびを一つしながら。
執務室に戻ると、宮田曹長がすでに調書の用紙を広げて待っていた。
「十五日の午後、で間違いありませんな」
「ああ」
「では、本日が二十日。……ちょうど、五日と少しであります」
老兵は、ペンにインクを含ませ、ゆっくりと書き始めた。
私は、その手元を見ていた。何かが引っかかっていた。朝の妙な問い。今井の異様に執拗な日付の確認。柏木が真っ先に線路と言い当てたこと。
「宮田曹長」
「はい」
「なぜ、日にちにこだわる」
宮田は、ペンを止めた。しわの寄った目が、こちらを向く。そこには、憐れみに近い何かがあった。
「……長谷川少尉殿は、練習所をお出になっておられませんな」
胸を、冷たいものが刺した。
「ああ。俺は憲兵科ですらない。召集された予備役の少尉だ。……語学と、刑事あがりというだけで、ここに放り込まれた」
「では、ご存じないのも道理」
宮田は、机の抽斗を開けた。中から、擦り切れた小冊子を取り出す。表紙に『陸軍刑法』とあった。
「第七十五条。逃亡の罪であります」
彼は、頁を繰らなかった。繰る必要がないのだろう。老兵は、暗誦した。
「故なく職役を離れ、又は職役に就かざる者は、左の区分に従いて処断す。……敵前なるときは、死刑、無期若しくは五年以上の懲役又は禁錮。戦時、軍中又は戒厳地境に在りて三日を過ぎたるときは、六月以上七年以下の懲役又は禁錮。……『其の他の場合において、六日を過ぎたるときは、五年以下の懲役又は禁錮』」
部屋が、静かになった。
「……死刑では、ないのか」
私は、自分の声が掠れているのに気づいた。
「敵前ならば死刑でしょう。ですが、ここは戦場ではありません。奉天の街中で、飯盒も持たずに歩いていった二十歳の小僧が、敵前逃亡なわけがない」
敵前ならば。
その一言が、私の中で、別の扉を開いた。
二年前。熱河。
あの霧雨の夕刻、宮田が「熱河でしたから」と言ったときの、あの妙に沈んだ声。私はあのとき、その意味を測りかねていた。
今、分かった。
柏木の幼馴染は、熱河の戦線から逃げたのだ。敵前で。第七十五条の、一項目。死刑、無期若しくは五年以上の懲役又は禁錮。日付の数え方も、前例も、条文の読み替えも、あの戦場では何一つ通用しない。
柏木は、幼馴染を見つけてしまった。誰よりも上手く、逃げる者の頭の中が見えるがゆえに、見つけてしまった。そして、そこから先は、法が完璧に、正しく、機能した。
あの若い伍長には、何もできなかったのだ。
私は、宮田の横顔を見た。老兵は、こちらを見ずに、静かに言った。
「柏木のことを、お考えですな」
「……ああ」
「あの子には、手の打ちようがありませんでした。熱河は、敵前であります。……自分の手管など、あそこでは紙屑です」
宮田は、ペンのインクを拭った。
「てっきり……脱営兵は銃殺だと思っていた」
「みんな、そう言います」
宮田は、静かに頷いた。
「言い続けておりますと、そのうち本当になりますからな。兵が怖がっておる方が、上には都合がよろしい。……ですが、実際の法は違う」
彼はペンを持ち直した。
「問題は、二つ目であります。『軍中』。……ここが満洲である以上、軍中と読もうと思えば読めます。そうなれば三日で足が出る。六月以上の懲役であります。あの子は、間違いなく食らいます」
「なら、どうする」
「自分は、三十年、書類仕事をしています」
宮田の声は、穏やかだった。
「内地で二十六年。満洲事変で引っ張られて、こちらへ渡って四年であります。……どこへ参りましても、書いておるものは同じでしてな。逃げた兵の、逃げた理由であります」
彼は、ペン先を紙に触れさせた。
「奉天へ来てからの処理は、全部この頭に入っております。同じような小僧の逃亡が、この四年で十一件。そのうち九件は『其の他の場合』として処理されております。……前例がある。前例に従うのは、役人の理であります」
彼は、濁りのない字で書き始めた。
「奉天市内における、非戦時、非戒厳地境の事案。離隊より捕捉まで、五日と半日。六日を過ぎておりません。……よって、第七十五条の逃亡罪は、成立いたしません」
私は、その紙を凝視した。
「……それは、どういう意味だ」
「軍法会議には、かかりません。所属連隊に還され、営倉に叩き込まれて、死ぬほど殴られます。前歴には残り、兵役中はうだつは上がりません。故郷の村では、白い目で見られるでしょう」
宮田は、そこで一度、ペンを置いた。
「ですが、生きております。三年後には除隊して、故郷へ帰れます……」
私は、しばらく何も言えなかった。
脱営兵を逃がしてきた。報告書を偽り、死んだことにして、闇へ流した。それを、自分の抵抗だと思っていた。組織に殺される人間を、自分だけが救っていると。
だが、この老兵は。
三十年、ペンだけを持って。内地で、そして満洲で。ただ日付を数え、条文を諳んじ、事案を積み上げて。何人の小僧を、営倉止まりで済ませてきたのか。
「宮田曹長。……あんたは、何人助けた」
老兵は、少し驚いたような顔をした。それから、首を横に振った。
「数えておりません」
「なぜだ」
「数えますと、続けられませんので」
彼は、また書き始めた。ペンが紙を擦る、規則正しい音。私が初日にこの部屋で聞いた、あの音だ。
「それに、助けられんかった方が、多いです。日にちが足りんかった者。上が本気で潰しにかかった者。……あの子らの顔は、覚えております。数えてはいませんが、覚えております」
私は、懐から手帳を取り出した。革の角が、いつものように指に触れる。
私は、自分だけが記録者だと思っていた。この街で、消される者たちの本当の姿を書き留めるのは自分だけだと。
違った。私の前に、この男がいた。長い時間、書類という形で。
「一つ、伺ってよろしいでしょうか」
宮田が、書きながら言った。
「なんだ」
「少尉殿は、あの小僧を、逃がそうとお考えでしたな。今井の取り調べを見ておられる間、ずっと」
図星だった。私は、答えられなかった。
「おやめなさい」
老兵の声は、初めて少し強くなった。
「あの子は、何も知らんのです。不正も。汚職も。ただ母親に会いたかっただけの馬鹿な小僧です。……そういう子を、少尉殿のやり方で『死んだこと』にしてしまえば、あの子は二度と山形へ帰れません。戸籍も、名前も、母親も、全部失います。生きていても、死んだのと同じであります」
私は、拳を握った。
「あの子は、法で裁けるのです。ぎりぎり、命には届かない。……それなら、法で裁いてやるべきです。少尉殿のやり方は、法が効かん者にだけ使う、最後の手であります」
その通りだった。
私は、脱営兵を逃がした。だが、それは彼らに法が届かなかったからだ。二重帳簿を知った者を、軍は法にかける前に殺す。だから、法の外へ逃がすしかなかった。
だが、大久保清吉には、まだ致命傷にはならない。それなら、法で裁くべきだ。それが、正当なやり方だった。
私は、東京で組織を信じていた男だ。信じて、裏切られて、ここへ流れてきた。そして、この掃き溜めで、まだ組織に見切りをつけていない老兵に、そのことを教えられている。
夜、大久保清吉は所属連隊へ引き渡された。
トラックに乗せられる直前、彼は私を見上げて、また「すいません」と言った。私は何も返さなかった。返す言葉がなかった。
彼はこれから、営倉で死ぬほど殴られる。生涯うだつは上がらない。故郷では後ろ指を指される。それでも、数年後には、生きて故郷へ帰るだろう。
これが、我々の仕事の「上出来」だった。
執務室に戻ると、速水がストーブの前で、干し芋を齧っていた。
「見てたか」
「ああ」
彼は、珍しく静かに言った。
「宮田のじいさんの手口を、俺は前から知ってた。だが、あんたには言わなかった」
「なぜだ」
「あんたが、自分で見た方がいいと思ったからだ」
速水は、干し芋の最後の一切れを飲み込んだ。
「あのじいさんはな、伍長で予備役に入れられるはずだったんだ。憲兵ってのは、平時はまず上がらん。曹長まで行った時点で、あの人は化け物だよ。……なのに、三十年、書類しか書いてねえ。書類しか書かなかったから、三十年生き延びたんだ」
私は、宮田の空いた机を見た。ペンが、几帳面に揃えて置かれている。
「柏木も、今井も、みんなそれぞれのやり方で、この仕事をしている。柏木は忘れねえことで。今井は感じねえことで。じいさんは、書くことで」
速水は、私を見た。
「で、あんたは、どうやって踏ん張るんだ。長谷川さん」
私は、手帳を開いた。
真新しい頁に、私は書いた。大久保清吉、二十歳。山形の在。母親が病気だという手紙が来た。それだけの理由で、何も持たずに、五日間、線路を南へ歩いた。凍傷で足が腫れていた。捕まえたとき、逃げようともせず、ただ「すいません」と言った。
軍の記録には、彼は「逃亡未遂の恥知らず」としか残らない。
だが、ここには残る。彼が誰で、何を思って歩いたのかが。
書き終えて、私はペンを置いた。
「……こうやって、耐える」
速水は、ふっと笑った。
「じいさんと同じじゃねえか」
「ああ。同じだ」
窓の外では、また雪が降り始めていた。
この掃き溜めのような部屋には、五人の男がいる。誰からも嫌われ、同胞を狩る、厭わしい仕事をしている男たちだ。
だが、その五人が、それぞれのやり方で、この街で人が消えていくのを、ぎりぎりのところで押し留めている。
誰も、それを口にはしない。口にすれば、明日から続けられなくなるからだ。
私は手帳を閉じ、冷めた番茶を飲み干した。




