第217夜 風来坊たちよ
「このクルマ、快適っすか?」佐藤省吾はガソリンを入れながら、大きなキャンピングカーの外側にあるリアボックスの整理をするドライバーに訊ねる。「そりゃあちょっとしたホテルみたいだよ。これで日本を回っているんだけど、鎌倉は停める場所がなくて困るよ。これから三浦のソレイユってとこのキャンプ場に行くんだ」省吾はそんな生活があることを初めて知り無意識に、「家はないんですか?」そんな失礼な質問にも初老のドライバーは、「名古屋にあるんだけど、もう仕事は引退したから娘夫婦に渡したんだ。一応住所はそこになっているけどこんなペースで回ってるからあと数年は戻らないんじゃないかな?」大きなクルマゆえ燃料タンクも大きいのだろう、給油計はやっと60Lを示しまだまだ動き続けている。「そうやって各地を回りながら観光をするんですか?」「いや、もう若いうちに大半の観光地は見てしまったから、今はその後ちゃんとそれらが保全されているか確認するのと、ゴルフ場を回るのが楽しみかな」「ゴルフっすか…。あ、満タン入りました」 省吾は家に帰るのも待てず、向かいのラーメン屋に入った。今日のバイト代の1割近くはこのラーメンに消えるが、実家に暮らしているのでそう痛くはない。とくに何が欲しいわけでもどこへ行きたいでもないのでお金に貪欲ではなく、ただ親への建前上朝晩出かけるために登録制のアルバイトを続けている。1箇所に決めないのは人間関係のしがらみが重いからだ。シフトなどまっぴら御免で、淡々とその日の作業をこなすことが自分に合っていると思っている。今日のガソリンスタンドも明日以降の勤務を求めてきたが丁重に断った。滑川河口ならではの開放感と爽やかなそよ風は立ち仕事をするには快適で、平日はほぼ皆セルフ給油するのでやることは少なかった。だが明日はやらない。 明日の仕事を探しながらスマホをいじっているとラーメンが運ばれてきた。一番安い基本メニューにしておくが刻み玉ねぎを山盛りにすることで満足だし、アプリ会員なのでトッピング1品サービスかつスタンプが貯まったので今日のこの1杯は無料なのだ。左手でスマホをいじりながらラーメンを口に運んでいると、募集中のバイトが目に入ってきた。“パンの配達。軽自動車の運転をできる人”これは最高のパターンだ。詳細な説明では、“独り黙々と運転し玄関ドアのノブにパンの入ったビニール袋を掛けていく作業。インターフォンで掛けたことを告げるか、居ない場合はパン屋アプリからメッセージを送る”それだけ。配達エリアは住み慣れた鎌倉中心地に限られているので、住所を聞けば目をつむってても行くことができる。しかも軽自動車が入れる近道も駆使して。すぐに申し込むと明日の朝5時に店に来るよう指示が入った。急いでスープを飲みきり、完食スタンプを押してもらい店を出る。 初めての配達ということで店も配慮したのだろう、配達先は西御門から浄明寺のエリアに絞られていた。3軒回ったがどこもインターフォンに応じた。「今日もありがとうねえ」「待ってたわあ」「来週もよろしくね」みな老いたご婦人だ。駅までバス便のこの住宅地はこの世代の人たちには過疎地同然のようだ。荷台がショーウインドウのようになっている移動販売車も見かけるが、今日運んでいるような本格的な食パンは用意してないようでこちらに注文が入るのだろう。だが次の浄明寺奥のお宅は少し様子が違った。インターホンからは男性の声。「ご苦労様。少し寄っていきなさい」配達が残っているのでと断ったが、少しの時間でいいからと押し切られた。門扉をくぐり整備されたアプローチを経て玄関にたどり着くとすでに声の主らしき老人がドアを開けたまま手招きしている。「今日はいつもの旦那じゃないんだな。でもいい、まあ入りなさい」招かれた玄関脇の応接は、鵠沼のおじいちゃんの家の作りに似て年季の入ったものだが、整理整頓されていて、背もたれのレースも真っ白で清潔だ。「入ってもらったのは他でもない、いつも届けてもらう食パンではなく、今度からこんなものをお願いできないかと思ってね」そう言うと老人は一冊の日記のようなものを広げた。そこには写真やガイドブックの切り抜きのようなものが各ページにびっしりと貼ってあって、元の厚さの倍くらいになっている。老人はその中からある写真を指差し、「これは私が大学生の時に行ったインドの写真なんだが、ここに写ってるパンがもう一度食べたくてね。チャパティと呼んでた気がするが、素朴な小麦の香りが忘れられなくてね」もちろん今日だけ運んでいる身の私にはパンの、ましてや海外の種類など全く分かりようもないので、その写真だけ預かって帰ることにした。 店に戻り写真を見せると店主は迷うことなく粉をこね始めた。しばらく放置した種を4つに分け平たく伸ばすとコンロの網に乗せる。初めて見たが、その丸く平たいクレープのようなものが、みるみる膨らんでいく。正確に言うと風船のように空気を孕んでいく。両面焦げ目をつけたら網から下ろし次のものを同じように膨らませる。4つ焼いたところで店主が、「もう一度あのお宅に行ってきてくれるか。なるべく熱いうちにな」 インターホンは三度目のコールで繋がった。「チャパティをお届けに来ました」老人は返事することもなく玄関から私を呼び手招きしている。またも入った応接にはさっき見せてもらった冊子の違うページが開かれ置かれたままだった。「あの後あまりに懐かしいので見返しているうちに眠くなって横になっていた。その間に焼いてきてくれたなんて驚きだ」省吾が保温バッグから包みを取り出すと、焼き上がりと同じ香りが応接に充満する。「これだよこれ、懐かしいなあ。アタ粉じゃないとこの香りは出ない。よくあの旦那はアタを持っていたもんだなあ」「店主からは1年分はゆうにあるから好きな時に言って欲しいとのことです」そう言うと、老人は一枚を手に取りちぎり、まずは香りを確かめゆっくりと口に運ぶ。目を閉じてしっかり噛む。一枚分そうした後、「インドのあの日が蘇るよ。私はビートルズの足跡を追って無我夢中でリシケシュまで行ったんだが、金などなくてね。朦朧としながらうろついてたら屋台のオヤジが見かねて一枚くれたんだ。それが美味かったのなんのって、数日そこで手伝いさせてもらって朝晩一枚ずつ食べさせてもらってしのいだんだ」こんな邸宅で不自由もなさそうな人がそんなことを経験していたことに驚くと、「君も若いのだから時には彷徨うことも必要だ。予定調和な日々に新しい芽吹きはない。土地を追われるデラシネなどではないのだから、自ら縛られた結び目を解いて、糸の切れた凧のように風に任せてみなさい」 老人の家を出ると省吾はパン屋の軽自動車で店とは反対側に続く坂を登ってみた。そこはかつて行ったことのない奥まった場所で道路が途絶え、その先に山道が続いている。省吾はクルマを降り山道を進んでみる。けもの道と見まごうほどの草木ぼうぼうな九十九折りを行くと少しだけ開けた空き地に地蔵のように赤い布を垂れた石がある。鬱蒼とした暗がりではあるが不思議と怖くはなかった。むしろそれは私を待ち、ある感情を起こさせるためそこにあるかのように感じた。その感情。それはとどまらないこと。そこにある石はひたすら木々の合間の空を見て、流れる雲に憧れている。自分はといえば、自ら糸先のオモリのように流れぬようじっとしている。省吾はクルマに戻りキーを回す。明日のアルバイトもここにしよう。そして幾らかのお金を貯めたら風に任せて家を出よう。そう思いアクセルを踏んだ。




