第215夜 半眼天国坐
身体はお荷物か超性能デバイスか。有機的感覚でもって光ある意識界において波を捕まえるTV受容器と人は言うが、みな見ることを前提としている。まぶたを開けない限りそれらすら存在し得ないのに。そして視器官が機能しなければそれらの像は結び得ないのに。衆生は見る生き物である、そこから始まる理論はすでに破綻している。
宇宙空間には丸だったり輝いていたり飛び回っていたりする物質などなく、そうした性質を示す情報を孕んでいるだけのことで、それを視神経経由で脳がその像を形成しているのだ。分子結合した連鎖物をそれより遥かに大きな結合連鎖有機物質である手指によって新たな結合連鎖物質を接合させることでこの世に人工物が存在している。しかしそれらも所詮は石ころと同じただの粒子連鎖の像だ。
では一本の線香を立て結跏趺坐する。まぶたは結ぶのではなくその筋緊張を解くだけにすると先ほどまで眼前にあったものが半透明の膜でシャットアウトされる。突然の妨害に視器官は戸惑うが怯まずにそのまま膜の先を凝視する。それこそが創造行為だ。視神経を停止させ脳へ意識を向けた途端、回路は結像を止める。つまり連鎖結合はロウデータのままに留まる。形態結像させる行為が働かないためだ。
脳内のロウデータは変換によりいくらでも形を変え得るし、その決定権は自分だけにある。仮に洗脳や脅迫という異粒子が入り込んできたとて、受け入れるかは自分次第だ。となればここから天国の扉が開く。まずは天国の定義だがおそらくは、すべての束縛から解放された場所、となろう。痛みを孕む肉体、人間関係、個特定情報全てのものから。
線香は燃え尽きた。そおっとまぶたを開くと結像風景が広がる。澄み切った青空、咲き誇るコスモス、飛び交う鳥たち。やはり悪くない。結像という連鎖、感動という完璧な機能。それにしてもその働きを考え作り出したのは何者?




