第213夜 音のない椅子
「ここへ来るとね、痛みを忘れられるの」
隣に座っていた白髪の婦人が言う。歳の頃は還暦を少し過ぎたくらいかと思われるが、完全な髪の白さがむしろさらなる落ち着きを醸し出している。
「どちらか痛めてらっしゃるのですか?」
そうではなく心の痛みのことと言う婦人は、正面を向いたまま軽い深呼吸をする。『白の深度』と題されたこの展覧会にやって来て、順路から少し外れたこの椅子に座っている。自然光を遮った展示空間と打って変わってここから見えるのは雨上がりの森。2脚だけ置かれたバルセロナチェアに婦人が座っている隣に声をかけて座ると、すぐにこの席の真価が理解できた。苔むす地面にいるかのようであって、先ほどまでの強い雨に濡れることなく立ち上がる水蒸気の中に坐している錯覚を得る。
「音もないでしょう。なかなかそんなこと味わえないのよね。耳は閉じられないから」
独りにしておくべきだったことを詫びると、
「全然。むしろあなたでよかったわ。お静かですもの。独りではなく空間にもう一人の存在がいると空間が変わるの。もちろんネガティブな意味ではないわ。無言の作用とでも言うのかしら、プラスとマイナスみたいな不可避な力」
心配するほど静寂を求めているようではなくてほっとしたが、逆に会場に戻りづらくなった。
「もう展示はご覧になったの?」
すぐにここが気になって来たからこれから見ることを伝えると、
「あら、それは申し訳ないことをしたわ。引き止めちゃって。でもこのピクチャーウィンドウを見てからの方が断然入り込めると思う。こことあちらでは生と死ほどの違いがあるから…」
婦人はそういうとまた口をつぐんだ。静寂がやってきた。私はすぐに立つことができずそのままそうしていた。その席は誰も覗くこともなく、まるで絵画のようにずっと同じ空気が乾着していた。




