第210夜 オーバーナイト梵天ミューズリー
湖畔から見える右奥の富嶽は絵画にしたら何処の山か不確かなほど荒々しく孤高の不二性を見せる。だがそれはわずかな緑を纏い茶の山肌と相まって入道雲の青空に映えていた。早朝の微風は水面を時たま磨りガラスのようにさせ、また元のクリスタルを見せる。この水はジンクリアと呼ばれるだけあって、その水深など気にさせないほどの透明度だ。足元には小魚が群れる。団子のように固まる様子はゴンズイのようだが、まさか冷涼な淡水に居るわけもなく、ウグイの仲間であろうと片付ける。それにしても初下ろしのこのダブルハンドのフライロッドは扱いに手こずる。同じ#7ラインでもシングルハンドとは勝手が違い、特に4ftの長さの違いは弾力でも別物。つまりキャストのリズムが遅いため思いのほか着いていけない自分がいる。それでも小一時間振るうちにリズムは自分ものとなり、一旦リールにラインを巻き取ることにする。
「床運動のようによくそんなに糸を操れるものですね」
ずっと夢中に湖面だけを見ていたため気が付かなかったが、背後の水辺に女性が立っている。それも知らずに後ろのスペースまで使いキャスティングをしていたことを詫びると
「いえ、ずっとあの木立の影に座って見ていたのですが、お止めになるようなのでここまで来たんです」
黒いタンクトップに薄手のパーカを羽織り、下は黒のスパッツで素足にスニーカーを履いて、さっきまでヨガをしていたかのような佇まい。おそらく近くでキャンプでもしているのだろう。
「でも何故あのようにスルスルと遠くまで糸が伸びていくんですか?」
私は女性が手に持つタオルを振ってみるよう促すと、最初は張りのないタオルも手首を固めるように導くにつれ伸びたまま前後するようになる。
「遠心力ですね」
飲み込みの速さに驚くと、
「小学生の時に床運動をやってたんです。なんだか懐かしい」
女性はさらに
「朝靄の中でそんなふうに一心になれるなんて素敵ですね」
こちらは魚に会いたい一心なのだが、女性はもっと精神的なことを言っているのだろう。何故こんな早くにここに居るのか尋ねると、
「独りで星を見にきたんです。昨夜は眠くなるまで空を見てました」
この大自然の中に独りとはなかなかの度胸だが、確かにこの本栖湖の湖尻まで来ると周囲に灯りはなく満点の星空が広がる。ましてや昨夜は雲一つない快晴だった。
「ええ、天の河まで鮮明でした。夜空は最初怖いのですが、眼が慣れてからは自分という意識が薄れていって宇宙の一点になった気になります。奢りなんて忘れてしまいます」
湖畔は川や海のように水位が激変することはないので、とても穏やかに過ごせる。それにしても女性独りで寝そべっているのはあまりに無防備。
「だって自分の身体から意識は離れちゃっているから、防備なんて考えにもないんです」
強者だ。気を取り直して話題を変えるとやはり女性はヨギーニで、今朝も一通りのルーティンをこなしたそうだ。しかもこのような大自然の中で行うことは、最良のプラーナを取り入れることができると言う。ではこの自然に身を置き身体を健やかに保つ食事とは何だ? まさかBBQでもあるまいし。
「焚き火は暗闇を広範囲に照らすから控えるんだけど、それでも夜には暖かいものが食べたいでしょ。だからアルコールストーブでスープを温めるんです。家で作ってきたのを温めるだけなんですけどね。沢山の野菜や豆を煮込んだものを持ってくれば荷物が少なくて済むでしょ」
女性は軽のジムニーに車中泊をしたと言う。確かに160cmくらいであろう体なら、後席と助手席を倒したスペースで十分だ。テントとは防備度合いが格段に違う。
「夜鷹なのか、みみずくなのか、鹿なのか、宵っ張りの子が鳴くのを聞くんです。きっと求愛だったり絶望だったりするんでしょうが私には何もできない。だからごめんね、そう言いながら睡魔に委ねるんです。あ、忘れちゃいけないのは朝飯の準備。夕飯で空いたスープジャーにミューズリーと牛乳やヨーグルトや豆乳を気分に合わせて入れて一晩置けば、翌朝には最高のアーハーラ(食事)が出来るんです」
潔ぎいい。カーテンなどない車内では夜明けの光とともに目覚める。今時分は4時半過ぎ。そこから小一時間かけてヨガに向き合って今この時間を迎えていることになる。体はすっかり稼働態勢に入っていることだろう。これから何をするのかを尋ねる。
「森に入ろうと思います。クロモジやカツラやヒノキの香りのもとでマットを敷いてみようと思うので。それでは良い釣りを」
女性はそう言って湖畔道路へ向かっていった。




