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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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205/218

第206夜 宇宙と自然に抱かれて

人工物の見えない本栖湖に浸り竿を振る。しきりに後ろを振り返る。ここでは客だ。客はこの無垢な環境で水の世界に住む鱒に逢おうとしている。普段は大都会に暮らし、仕事の休みにこうして逢いにくることは人間にとっての都合でしかなく、明らかに歓迎されてはいない。ここに暮らす鱒はもちろん野生動物、つまり熊にもエイリアン、かつ敵なのだ。それはそうだ、食事になり得る鱒を得ようとする存在なのだから(こちらはリリースするつもりなのだがそんなことは熊にはわかるまい)。一心不乱に湖面を凝視し竿を振る生き物は排除すべき存在。だから後ろを振り返る。


水面は風を受け波立っている。風下にいるため規則的に波を受ける。波は海だけのものではなく、水が揺れることで起こる。風が当たり続けた水面は風下側に押され、それが順次その先に伝わり波になる。では海のそれはというと月や太陽の引力で水が揺れて起こる。つまり湖の波は風がない時には起きない。今日はそれだ。鏡面に映る逆さ富士などに気も付かずに獲物を追いかける茶番。この今の時間を見渡さなくてはいけないのに。いや見なくてもいい、感じれば。気温、水温、匂い、音。全てにメッセージがある。雲間にのぞく太陽の強さ(角度)、それにより温まった経過と流入水脈の有無、夜から朝の植物たちの呼吸と光合成のスイッチと発するフェトンチッドの摂取、子鹿の探声やオオルリやキビタキの歌。


ドライネット(つまりボウズ、釣果なし)のまま帰ると、2本目の缶ビールで日暮を迎える。がむしゃらなキャスティングの疲労は夕まづめの忍野でのリベンジの余力を奪い尽くして家路に向かわせたのだ。日暮は橙色が焼けていくような物ではなく、どんよりとした曇り空が次第に暗くなるようなものだったが自転は感じる。今いるここが太陽の裏側に動いたことを。先程本栖湖からの帰路、車の速度は時速60kmを示していた。あの移動は自転に比べたら約38分の1のスピード。十分にストレスなく帰ったが、自転の助手席に乗ったら時速1674km、疲労のうたた寝のうちに福岡くらいまで連れ去られたことだろう。戻るのが大変なので車で十分だ。


都会の時間は違う進み方をしている。日が暮れたら陽は刺さないし光合成も行われない。気流も変化するし星も瞬くのに、日暮の数時間後でも街に光が溢れる。時計というカウンターが示す22時は8月の夜明けからは18時間が経過しているのに、街には爛々と人が蠢く。その灯のスイッチを消して見たらどうだろう。怖い? 敵視する熊などいない(隙を狙う敵はいるかもしれないが、そいつも暗さは怖いのではないか)。家の外に出てみるといい、そこには無数の星々が瞬くから。曇りなら瞑想と同じ旅が出来るから。目覚めている時の暗闇は死後の世界。意識の在りか。見たものしか信じないのはたかが100年間の上映時間。


カナブンが飛んできた。「おいお前。俺に会いに来てくれたのか?」そう言ったところで返事など来ようはないが、こんな狭い空間に一瞬でも居合わせたのだから一緒に味わわないか? この夜風、この葉香。もうすぐあの雲間に月が顔を出すはずだから。

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